2015年3月15日説教(ルカ19:1-10,今日救いがこの家に来た)
1.徴税人ザアカイとイエスの出会い
・ルカ福音書を今週から読んで行きます。今日読みます「徴税人ザアカイの物語」はよく知られた話で、ディケンズの書いた「クリスマス・キャロル」の元になったのではないか言われています。物語は「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」(19:1-2)という言葉で始まります。エリコは交通の要所であり、そこには収税所(税関)があり、その長がザアカイでした。彼は徴税人の頭として、ローマと徴税請負契約を結び、通行税や関税を徴収する仕事をしていました。異邦人のために働くことで、ユダヤ人同胞からは「敵への協力者、売国奴」と卑しめられ、またしばしば利益を増やすために不正な課税を行い、過酷に取り立てていたため、人々から「泥棒、強盗」と呼ばれていました。そのザアカイがイエスを見ようと通りに出てきました。しかし「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」(19:3)。ザアカイを嫌う群衆は彼が前に出ることを妨げたのです。そのため彼は「走って先周りし、いちじく桑の木に」登りました。
・ザアカイは金持ちで社会的地位もありました。しかし人々から嫌われ、冷たい視線の中にさらされていた孤独な人でした。そこにメシアと期待されるイエスが来られます。噂ではイエスの弟子の中に同じ徴税人のレビがいました(5:27-32)。ユダヤ教社会で差別され、疎外されていた徴税人をあえて弟子にするイエスの人柄に彼は心惹かれたのでしょう。だから「ぜひ会いたい」と思った。ザアカイはイエスに会いたい一心で走って先回りし、木に登りました。人々はザアカイのそんな姿を見て笑ったことでしょう。社会的地位も富もある、大の大人が、思いつめたように走り、木に登ったりしたのです。
・イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われました「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(19:5)。この箇所は原語のギリシャ語を見ると「デイ~しなければならない」という言葉が使われています。直訳すれば「今日、あなたの家に泊まらなければいけない」。人に笑われても良い、とにかくイエスを一目見たい、そのザアカイの一途な求めにイエスは感動され、その感動がイエスにザアカイの家の客になることを決意させます。ザアカイはイエスから声をかけられ、びっくりし、また喜びました。誰もが汚いものでも見るような目で彼を見ていました。しかしこの方は違う、自分の家に泊まると言ってくださった。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(19:6)という表現の中にザアカイの喜びが示されています。この決意は摩擦を伴うものでした。徴税人の家に泊まることは民衆の批判を受けることだからです。
・それを見ていた人々はつぶやきます「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(19:7)。ガリラヤでも人々は、イエスが徴税人たちと食事を共にしていると批判しました「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(15:2)。自分を正しいと誇る人は、罪人が救われることを喜ぶことができないのです。しかしイエスはそうではありませんでした。「この人もアブラハムの子だ」(19:9)、たとえ人々から軽蔑され、疎外されている人であろうが、この人もまた神の子なのだ」とイエスは言われました。イエスのこのザアカイに対する信頼の眼差しがザアカイを変えていきます。
2.徴税人ザアカイの悔い改め
・ザアカイは立ち上がって、イエスに言います「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19:8)。ザアカイは財産の半分を施し、騙し取っていたらそれを4倍にして返すと誓いました。律法はそこまで求めていません。律法の求め以上のものを弁済すると申し出ています。ザアカイはここで、「今まで自分は人々から税金を強奪して財産を築きあげてきた。そのようにして築いた財産の半分は返す、また今後二度と人々から騙し取ることはしない」と誓っているのです。イエスに受容されることを通して、ザアカイは「お金は人の喜びのために用いられてこそ意味がある」ことが分かりました。彼はもう、自分の身を守るためにお金に頼る必要が無くなったのです。
・イエスはザアカイの申し出を喜ばれました「今日、救いがこの家を訪れた」(19:9)。偏見から自由なイエスとの出会いがザアカイを変えたのです。ところが、救われたザアカイは徴税人を続けます。彼は自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようという決意し、イエスはその決意を受け入れられます。召命とは家族や職業を捨てて従うことではなく、今「置かれている場で精一杯咲く」ことなのです。
・ここで注目すべきは、イエスがザアカイに向かって、彼の金銭欲やローマへの協力について、何の非難もしていないことです。パリサイ人であれば、悔い改めの条件として、まず徴税人という汚れた職業を捨てることを求め、次にこれまでに与えた損害を全て賠償することを条件にしたでしょう。しかしイエスは無条件でザアカイを受容された。この無条件の受容が人の心を変えていきます。
3.無条件の受容が人を変える
・今日の招詞にヨハネ21:17を選びました。次のような言葉です「三度目にイエスは言われた『ヨハネの子シモン、私を愛しているか』。ペトロは、イエスが三度目も『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』。イエスは言われた『私の羊を飼いなさい』」。イエスがエルサレムで捕らえられた時、弟子たちは逃げました。イエスを見捨てた弟子たちは故郷のガリラヤに戻り、そこで元の漁師に戻ったとヨハネ福音書は記します。そこに復活のイエスが現れます。イエスはペテロに「私を愛するか」と三度聞かれました。かつてペテロは大祭司の屋敷で「イエスを知らない」と三度否定しました。三度目の確認にペテロは悲しんで言います「主よ、あなたは全てをご存知です。あなたは私の弱さを知っておられます。私はかつてあなたを裏切ったし、これからも裏切るかも知れません。それにもかかわらず、私があなたをどれほど愛しているかを、あなたはご存知です」。イエスはそのペテロに、「残された群れを養う」ように語られます。
・復活のイエスと出会い、無条件に赦され、過ちを犯した自分に、教会の群れが委ねられた事を知った時、ペテロは生れ変りました。やがてペテロは、「イエスは復活された。私たちはその証人である」と宣教を始めます。イエスを十字架につけた大祭司はペテロに、「もしイエスを宣教し続けるならばおまえも殺す」と脅しました。その時ペテロは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」(使徒5:41)と使徒言行録は記します。大祭司の女中の言葉に怯えたペテロが、今、大祭司の前で、「イエスこそわが主であり、救い主だ。私を殺したければ殺しなさい」と告白するほどの者にされました。
・聖書はペテロがイエスを三度否認したことを何故、こんなに詳しく知っているのでしょうか。大祭司の庭にはペテロしかいませんでした。おそらくペテロは弟子たちに、自分の経験を繰り返し語ったのでしょう「私はイエスを裏切った。それでもイエスは私を赦してくださった。イエスはあなた方も同じ様に赦してくださるのだ」と。人は弱い、過ちを犯す、しかし神はその過ちを責められない。自分が弱いことを認め、その弱さをも神が受け入れてくださる事を知る時に、人は挫折から立ち直ることが出来ることを、ペテロの経験は私たちに教えます。
・無条件の受容が人をいかに変えるのか、日本にもその実例があります。栗林輝夫氏は評論集『人間イエスをめぐって』の中で、明治初期の宣教師ジョナサン・ゴーブルの翻訳した「摩太福音書」(1871年、明治4年)において、「徴税人、罪人」というところを「穢多、罪人」と訳し、それが契機となって多くの被差別部落民がキリスト教に改宗したことを伝えています 。イエス時代、羊飼いや家畜業者、精肉業者、皮なめし職人たちは「穢れの民」として差別され、排除されていましたが、イエスは彼らと交わり、パリサイ人に向かって、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)と語られました。日本には徴税人はいないが、差別されている人々はいた、「賤民」と言われた「穢多」がそうであるとゴーブルは理解しました。それが被差別部落民の心に届いたのです。彼らはやがて部落解放のために水平社を設立し、水平社宣言は語ります「かつて我々は賤民であった。今や我らは選民である」 。
・「人を信頼していく、裏切られてもなお信頼していく」、それがイエスの生き方であり、イエスの後に従う者の生き方です。福音書の物語はほとんどが無名の人の出来事ですが、少数の人は名前が残されており、名前の残った人々はその後教会内で名前が知られる人になったことを意味しています。ザアカイは最後にはカイザリアの司教になったと伝えられています。「失われていた」ザアカイが、「見出された」のです。無条件の受容がザアカイを変え、ペテロを変え、そして日本の被差別部落民をも変えていきました。そして無条件の受容は私たちの人生を変え、私たちを通して周りの人の人生をも変えていくのです。