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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年3月22日説教(ルカ22:21-30、仕える者になりなさい)

投稿日:2015年3月22日 更新日:

2015年3月22日説教(ルカ22:21-30、仕える者になりなさい)

 

1.新しい契約としての最後の晩餐

 

・ルカ福音書を読み続けています。イエスは日曜日にエルサレムに入城され、エルサレム神殿から商人たちを追い出されました。その時イエスは言われました「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」(19:46)。神殿を管理していた祭司長たちは怒り、「イエスを殺すにはどうしたら良いのか」と諮り始めています(22:2)。イエスも危険が間近に迫っていることを感じておられます。そのような木曜日の夕方、イエスは弟子たちと過越の食事を取られます(22:13)。その食事の席上で何が起こったのかをルカ22章は記します。それが今日のテキスト箇所です。

・弟子たちを前にイエスは言われます「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない」(22:15-16)。「神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない」、イエスは死が間近に迫っていること、これが弟子たちと取る最後の食事になるであろうと弟子たちに語られました。

・その緊張感の中で、イエスは杯を取り、感謝の祈りを唱えられ、弟子たちに言われます「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(22:17-18)。それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、与えて言われます「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」(22:19)。「私の記念としてこのように行いなさい」という言葉は教会の信仰告白の言葉でしょう。イエス亡き後の教会は、この最後の晩餐を記念して、聖餐式を行いました。聖餐(ユーカリスト)という言葉は感謝(ユーカリステオ)から来ます。聖餐式はイエスが私たちのために死んで下さったことを感謝する場です。そこで食べるパンはありふれたパンですが、信仰者にとっては、それが「キリストの体」になります。

・注目すべきは、最後の晩餐の席上に、やがてイエスを裏切るイスカリオテのユダも共にいることです。福音は放蕩息子や徴税人、罪人にも赦しを与えます。もちろん、イスカリオテのユダにも悔い改めの機会が与えられます。イエスの言葉がそれを示しています「しかし、見よ、私を裏切る者が、私と一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」(22:21-22)。イエスは自分を裏切るであろう不実の弟子に対して一言も非難せず、共に晩餐に預かるように求めます。それは裁くためではなく、赦すためです。しかし、ユダは悔い改めなかった、その時点で彼は自分の運命についての全責任を負うことを求められます。ユダと他の弟子たちは同等です。全ての弟子たちがイエスを裏切った。問題は過ちを犯した後で悔い改めるか、それとも自分で処理をしようとするかの違いです。ユダが悔い改めれば、彼は十二弟子の一人であり続けたことでしょう。

・「私を裏切る者が、私と一緒に手を食卓に置いている」という言葉は、弟子たちに大きな波紋を与えました。「それは誰だ」、弟子たちの犯人探しが始まります。ルカは記します「そこで使徒たちは、自分たちのうち、一体誰が、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」(22:23)。「まさか私ではないですよね」、「もしかしたらあなたか」、弟子たちは自分を振り返るのではなく、他の仲間たちを疑い始めています。だから議論は次第に、「誰が食卓の上席を占めるのか」、「誰が一番偉いのか」という議論に変わっていきます。

・ここで明らかになることは、弟子たちの上昇志向です。彼らはイエスがエルサレムで王になられ、その時は自分たちも特権的な地位につきたいと願って、イエスに従って来ました。彼らはイエスの苦しみを理解することなく、自分たちのことだけを考えています。「なんと言う弟子たちだ」と私たちは思いますが、「あなたはどうなのだ」と問われると、私たちも下を向いてしまいます。私たちもまた「上昇志向」の中にあるからです。身分の高い人や権力者の周りには大勢の人々が寄ってきます。人に評価され、賞賛されることは心地よいものです。そういう人になりたいと思っています。しかし上に立つ人がいれば下で苦しむ人もいる。上に立つ人は、周りの人が抱えている痛みや苦しみ、悲しみが見えなくなってしまいます。メシアとしてのイエスの生涯を駆り立てるものは、苦しむ人々への共感です。私たちがイエスの後に従いたいのであれば、私たちの生き方は修正を迫られるでしょう。ここにいる弟子たちは私たちなのです。

 

2.イエスの最後の教え

 

・人間にとって最大の関心は他者と比べた優位性です。「最後の晩餐という厳かな場面の中でもそれは変わらなかった」とルカは語ります。この世では勝ち組、負け組という言葉が大手をふるって語られます。子どもたちは「負け組になるな」と親から言われ、負け組になった人々はこの社会から切り捨てられていきます。しかし、イエスは「この社会はそうであっても、あなた方はそうであってはならない」と言われます。10年前ソニーという会社は超優良企業と呼ばれ、社員たちは自分たちこそ勝ち組だと思っていたことでしょう。しかし、今ソニーの業績は傾き、人員整理を行っています。リストラされた人々は、自分たちをどう思うのでしょうか。「勝ち組、負け組、そういった社会の価値観に自分の生涯をかけても良いのか、虚しいのではないか」とイエスは語られています。そのイエスの言葉が25節以下にあります「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(22:25-26)。

・イエスの時代、世界を支配していたローマ帝国では、皇帝は「神の子」とされ、主(キュリエ)と呼ばれて、崇められていました。しかし、イエスは「あなた方の間ではそれを目指してはいけない」と語られます。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(22:27)。「私がそうであるように、人に仕える者であれ」とイエスは弟子たちに諭されます。そしてイエスは自分が去って行かれる後のことを弟子たちに委ねられます「あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた。だから、私の父が私に支配権をゆだねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる」(22:28-29)。これは生前のイエスの言葉というよりも、ルカの教会の信仰告白の言葉でしょう。教会はキリストから委ねられた群れを守る存在となっていったのです。

 

  1. 仕える者になりなさい

 

・今日の招詞にマルコ10:42-45を選びました。次のような言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。今日読みましたルカ22:25-26の原本となったマルコ福音書の言葉です。偉い人=ギリシャ語メガス、ラテン語マイヨール、このマイヨール=大いなる者はローマ皇帝の別称です。ここでイエスが言っておられるのは「支配者とみなされているローマ帝国の者たちは諸民族の上に君臨し、皇帝が諸民族に対して権力を振るっている。だが君たちは決してそうであってはならない」ということです。何故ならば、イエスは「仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られた」(10:45)からです。

・「偉大さと権力を混同し、尊厳性と人々の賞賛と混同するのは私の後に従いたいと願うあなた方の取るべき道ではない」とイエスは語られました。「大いなる者」と呼ばれたローマ皇帝たちがどのような生涯を送ったか、あなた方は知っているではないかと。ギボン「ローマ帝国衰亡史」によれば、歴代のローマ皇帝の三人に二人は暗殺や自殺で命を落としています。聖書は私たちに「あなたがたも暗殺や自殺で終わるような人生を歩みたいのか、この世で第一人者、大いなる者になるとはそういう生涯なのだ」と示します。そして「そのような虚しい人生ではなく、本当に意味のある人生、仕える人生を歩みなさい」と勧めます。

・「仕える人生を歩む」人々が集められた場所が教会です。その教会では意思決定のあり方がこの世とは違ってきます。加藤常昭という神学者は次のように語ります「教会政治を語る時、クリストクラシ-という言葉を用いる時がある。デモクラシーでもなく、アリストクラシーでもなく、キリストが支配する事こそ教会政治の基本である」(説教黙想アレテイア、NO82)。デモクラシーは民主制、そこでは多数決で物事を決めていきます。アリストクラシーは貴族制、そこでは少数の優れた人たちが導きます。しかし、教会では多数決で物事を決めないし、指導者のリーダーシップに教会を委ねることもしない。クリストクラシ-、キリストが支配される。そしてキリストは自らが仕えることを通して群れを導かれたゆえに私たちもそうします。ある人は語ります「教会のリーダーシップとはサーバント・リーダーシップ、召使のリーダーシップなのである」。だから教会の執事は仕える者(ディアコノス)と呼ばれます。教会はキリストに従う、イエスが言われたように「食事の席に着く」のではなく、「給仕する者」を目指していきます。その時、教会が神の国になっていきます。

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