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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年9月13日説教(コヘレト9:1-12、生かされている命を生きる)

投稿日:2015年9月13日 更新日:

2015年9月13日説教(コヘレト9:1-12、生かされている命を生きる)

 

1.死を前にどう生きるか

 

・コヘレト書を読み続けています。コヘレト書の中心テーマは「死」と「空しさ」です。人は必ず死にます。そして「死がすべての終わりであれば、生きることの意味は何だろう。空しいではないか」とコヘレトは語ります。しかしその空しさの中でどうしても否定できないことは、「少なくとも今は生きている」という事実です。9章も同じテーマを追いかけています。彼は語ります「私は心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち、善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない。人間の前にあるすべてのことは何事も同じで、同じ一つのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも、いけにえを捧げる人にも捧げない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが、誓いを恐れる人にも起こる」(9:1-2)。

・「同じ一つのこと」、死は万人に等しく臨みます。善人も義人も死にます。そして「死ねばすべてが無に帰す」のであれば、「人生は空しい」とコヘレトはつぶやきます。彼は続けます「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じ一つのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」(9:3)。全ての人は死ぬ。しかし今の私は生きている。「命あるもののうちに数えられてさえいれば、まだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ」(9:4)。

・古代中東では犬は不潔なもの、卑しいものの代表であり、聖書でもしばしば侮蔑の対象となります(箴言26:11他)。他方、獅子は名声や権威の象徴とされる存在です。しかしその獅子も死んでしまえば単なる死骸に過ぎません。コヘレトは記します「生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれひとつにも、もう何のかかわりもない」(9:5-6)。死者が行く世界は陰府(シェオール)と呼ばれます。旧約聖書の陰府は、「滅びの国」、「闇の中」、「忘却の地」で、そこには何の希望もない(詩編88:10-12他)。それに対して「生きていること」は、常に「将来に対して希望が持てる」ことです。

・希望こそが生きていく力です。現代人は、この希望さえも奪い取ってしまう虚無に冒されています。近藤剛は現代人の希望喪失ついて語ります「私たちはどこから来たのか、どこへ行くのか、生きていることに何の意味があるのか、死ねばどうなるのか、かつて、このような人間存在の問いに、神が答えを与えてくれた。しかし、現代人は『神は死んだ』として、神を放逐した・・・『神は死んだ』と語ったニーチェが我々に教えたことは、『人が生まれてきたことに何ら目的はなく、生きていることに何ら意味はなく、私たちの存在には何らの価値も与えられず、私たちの生存には必然性はない』ということだ。これが現実の在り方であるとすれば、私たちは、この事実に耐えることができるだろうか。あるいは、この事実を前にして、健全な生を全うすることができるだろうか」(近藤剛「神の探求」から)。神なき世界は虚無の世界です。人間はそのような世界で健康に生きることはできない。だから私たちは教会に集い、コヘレトの言葉に耳を傾けます。

 

2.今、生かされて在ることを楽しめ

 

・人は必ず死にます。死の先にあるものを人は知ることができない。しかし今は生かされている。だから「今、を楽しめ」とコヘレトは語ります。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ。」(9:7-9)。「与えられた現在を一生懸命に生きよ」とコヘレトは語るのです。

・古代メソポタミヤの文書であるギルガメシュ叙事詩第十の書にコヘレトと似た記述があります。こういう内容です。「ギルガメシュよ、あなたは決してそこへは行くことができません。あなたの求める生命は見つかることがないでしょう。神々が人間を創られた時に、人間には死を割りふられたのです・・・あなたの衣服をきれいにしなさい。あなたの頭を洗い、水を浴びなさい。あなたの手に掴まる子供たちをかわいがり、貴方の胸に抱かれた妻を喜ばせなさい。それが人間のなすべきことだからです」。コヘレトはこれを知っていて、この第9章を書いたかもしれません。しかし最大の違いはギルガメシュ叙事詩には労働に関する記述がないことです。他方、コヘレトは語ります「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」(9:10)。

・仕事の中に喜びを見出す価値観をコヘレトは持っています。宗教改革者ルターは仕事を「べルーフ」(神の召命)と呼びました。カトリック教会では、司祭職は聖なる職務であるが、その他の労働は俗なる卑しいものであるとされていました。俗世の仕事を評価しなかったのです。しかし、聖書に立ち返った宗教改革者は中世ローマカトリックの聖俗二元論を批判し、仕事に新しい意味を与えました。「働くことは労苦ですが、そのことに意味を見出せば喜びになる」。自分に与えられた仕事に最善を尽くしている時、労働は人間にやりがいと喜びをもたらします。「目の前のことを夢中になってやれ。そうすれば見えてくるものがある」、これがコヘレトの見出した真理です。

 

3.不条理を超えて

 

・コヘレトは記します「太陽の下、再び私は見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに、必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも、聡明だからといって富を得るのでも、知識があるといって好意をもたれるのでもない」(9:11)。私たちの人生は私たちの完全支配下にあるのではなく、そこには常に神の意志が、人間から見れば偶然性が働いています。コヘレトは続けます「時と機会はだれにも臨むが、人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり、鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」(9:12)。海を自由に泳いでいた魚が次の瞬間には網にかかっている、空を悠々と飛んでいた鳥があっという間に罠にかかり、もがいている、人生はそんなものだとコヘレトは語ります。3.11の大震災も人間には予測不可能な出来事でしたが、その出来事に遭遇した人々の人生は大きく変えられていきました。人はそれを「偶然」、あるいは「運命」と呼びますが、信仰者はそれを「必然」、あるいは「神の摂理」と呼びます。しかし信仰者にも神の摂理が見えない、そのような先が見えない中でどう生きていくのか、それが今日、私たちが見出したい事柄です。

・今日の招詞にマタイ7:7-8を選びました。次のような言葉です「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。意味は明らかです。求めない者、探さない者、たたかない者には何も与えられない。だから「求めよ、探せよ、たたけよ」とイエスは言われます。私たちには死という制約があります。その制約の中で意味ある人生を送るためにはどうすればよいのでしょうか。

・参考になるテキストとしてビクトール・フランクルの「夜と霧」をご紹介したいと思います。彼は第二次大戦時にウィーンに住んでいた精神科医でしたが、ドイツがオーストリアを併合し、ユダヤ人として強制収容所に収監され、九死に一生を得て生き残り、その体験を「夜と霧」(原題「強制収容所における、ある心理学者の体験」)としてまとめました。彼は強制収容所で医者として働き、苦難の中に死んでいく多くの同胞たちを見ました。しかし生き残った者たちもいました。両者を分けたのは「未来に対する希望であった」とフランクルは語ります。「人はなぜ生きるのか、その意味を見失った時、心が折れて死んでいく」。強制収容所の中でいつ解放されるとも知れず、重労働を課せられる日々の中で、力尽き、生きることをあきらめてしまう人が続出します。あるとき、二人の男性がフランクルの所に相談に来ます「もはや人生から何も期待できない。死にたい」。それに対してフランクルは答えます「それでも人生はあなた方からあるものを期待している。あなた方を待っている何かがあるはずだ」。すると一人の男が言います「外国に子供が一人いる。その子は私を待っているはずだ」。科学者だったもう一人の男は「書きかけの著作の原稿がある。完成するまで死ぬに死ねない」。

・フランクルは二人を待っているものこそが、生きる意味なのだと気づかせました。そして「生きる意味を見出すことのできた人はかなりの確率で収容所で生き残ることができた」と彼は書きます。「人生から何を我々はまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何を我々から期待しているかが問題なのである。・・・待っている仕事、あるいは待っている人間に対して持っている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである」(ビクトール・フランクル「夜と霧」から)。強制収容所では監禁と飢えと病気と死が見える形で、極限状態の中に存在しました。しかし、私たちもいつかは死ぬとしたら、本当は死刑を宣告され、刑の執行を待っている存在ではないか。そして「突然不運に見舞われ、罠にかかる」ことがある、日本では毎年3万人の方が自殺します。自殺者の背後には未遂の方が10倍から20倍いるといわれていますので、実に30万人から60万人の方が、毎年死の淵に立っていることになります。やがて来る不幸や死が見えないだけで、実の所、私たちもまた「強制収容所」の中にいるのではないでしょうか。

・その中でどう生きるか、フランクルが語るように「生きる意味を見出さない」限り、力尽きて死んでしまいます。だから「求めよ、探せよ、たたけよ」と言われるのです。フランクルは語ります「自分の人生にはどんな意味が与えられており、どんな使命が課せられているのか、それを見出し、実現するように毎日を生きる。どんな時にも人生には意味がある。この人生のどこかにあなたを必要とする何かが、あなたを必要とする誰かがいる」と。コヘレトの語る「今、生かされている命を生きよ」と同じ精神です。「生きているのではなく、生かされている」、私たちがそれを理解し始めた時、人生は意味あるものに変わっていきます。フランクルは語ります「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生の方があなたに絶望することはない」。この人生を神と読み替えれば、これはまさに教会の語るべき福音です「あなたがどれほど神に絶望しても、神の方があなたに絶望することはない」。

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