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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年9月6日説教(コヘレト8:1-17、死ぬな、生き続けよ)

投稿日:2015年9月6日 更新日:

2015年9月6日説教(コヘレト8:1-17、死ぬな、生き続けよ)

 

1.無意味な反逆はするな

 

・コヘレト書を読んでいます。コヘレトはユダヤの知恵の教師であり、それゆえ知恵の価値を認めます。彼は語ります「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる」(8:1a)。智恵は人間に生き方を教えます。しかし彼は同時に知恵の限界を知っています。それゆえ、無意味な自己主張はしません。彼は人々に語ります「絶対権力を持つ王には逆らうな」と。「気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから。王の言った言葉が支配する。だれも彼に指図することはできない。命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている」(8:2-5)。王は生殺与奪の権能を持っており、逆らえば処罰を、場合によっては命さえも失います。彼は前に語りました「善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう」(7:16-17)。「時が来る前には無意味に死ぬな。自分の正しさに固執して身を亡ぼすのは愚かだ」と彼は力説するのです。

・コヘレトは王を敬いますが、絶対化しません。彼は絶対権力者が正しいとは限らない事実を知っています「私は・・・太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」(8:9)。権力者たちは他者を犠牲にして己の欲を追求します。その結果、この世には不正や不義が蔓延しています。しかし、王もまた死にゆく存在に過ぎない。そのような者に係わるなと彼は語ります「何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない・・・人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行う者を逃れさせはしない」(8:6-8)。死ぬべき存在である王に係わって、命を落とすな。「今は忍耐せよ」とコヘレトは語ります。

・イエスが捕らえられた時、弟子たちは逃げ去りました。マルコやマタイの福音書は「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と弟子たちの背信を描きます(マルコ14:50)。他方、ヨハネ福音書は弟子たちが逃げたことを批判せず、むしろ、イエスが逃げるように言われたことを強調します(ヨハネ18:8「私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい」)。イエスは「無駄な命を捨てるな、逃げよ、逃げることを通して、証人になるのだ」と言われたとヨハネは伝えています。歴史は弟子たちが逃げることを通して、イエスを証言し、教会が形成されて行ったことを示します。説教者・由木康(ゆうきこう)は語ります「徳川時代のキリシタン迫害が残酷を極めた一因は、信徒に逃げよと教えなかったことだ。教職者は殉教の死を遂げても、信徒には逃れる道を与えるべきであった。信徒には、踏み絵を迫られたら、どんどん踏んで生きながらえ、心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきだった」(由木康・イエス・キリストを語る)。「死なないで逃げる」こともまた、信仰の行為なのです。

・鎌倉市中央図書館の司書・河合真帆さんが今年8月26日、Twitterの図書館の公式アカウントから「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、図書館へいらっしゃい」と呼びかけた投稿に対し、反響が広まっています。彼女は語りました「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね」。2学期が始まる9月1日、子どもの自殺が多いことを知り、その防止のために投稿したとのことです。彼女は「学校に行けないというだけで死ぬことはない、必要なら逃げなさい」と語ります。「時も来ないのに死ぬな」と語るコヘレトの知恵と共通しています。

 

2.この空しい現実の中で何を為すべきか

 

・コヘレトは社会の不正を見つめます。悪人が立派な墓に葬られ、義人が人知れず死んでいく現実を見極め、「空しい」とつぶやきます。「私は悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい」(8:10)。人をどのように葬るかは、社会がその人をどう評価したかに関わる、人間の尊厳の問題です。16世紀に日本にキリシタンが伝えられ、短期間のうちに多くの日本人が改宗してキリスト教徒になりましたが、歴史学者たちはその原因を「宣教師やキリシタンたちが、キリストの愛の実践に基づいて、病める者を見舞い、その死を看取り、貧者であっても丁重に葬っていたことに感動した者たちが数多く、キリシタンに改宗した」(筒井早苗「キリシタンにおける死の作法」、金城学院大学キリスト教文化研究所紀要13,2010年)と語ります。今日の無縁墓地等の問題を考えると、キリシタン時代の宣教師の働きに改めて注目する必要がありそうです。

・悪人が丁寧に葬られ、義人の遺体が野にうち捨てられている時代には、道徳は地に落ちています。だからコヘレトは語ります「悪事に対する条令が速やかに実施されないので、人は大胆に悪事をはたらく。罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が、なお、長生きしている」(8:11-12a)。悪に対する制裁がないために、悪が蔓延しているとコヘレトは語ります「この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、私は言う」(8:14)。そのような不条理があるのを承知の上で、コヘレトはなお神を求め続けます「にもかかわらず、私には分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない」(8:12b-13)。

・コヘレトは世界を覆う不条理を見つめながら、「世の中が悪であってもあなたは不幸になるな。そのためには現在与えられている生を楽しめ」と語ります。「それゆえ、私は快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ」(8:15)。それは刹那的な快楽を求める生き方ではありません。そのような生き方が空しいことはコヘレトも承知しています(2:10-11)。「今を楽しみ、与えられているものに満足せよ。それ以上のものを求めるな、この世で成功しよう、出世しようと焦るな。それらは空しいものだ。今日一日を大事に生きよ」、それがコヘレトの結論です。目に見える現実は悪が栄え、善が滅びる日常です。神が何故そうされるのか、人間にはわからない。しかし、わからなくとも、「全ては神の手の中にある」(9:1)ことを、彼は信頼していきます。「私は・・・神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない」(8:16-17)。

 

3.わが霊を御手に委ねます

 

・コヘレトは世の中がいかに不条理であっても、そこに神の摂理が働いていると考えています。その神の業を人は見極めることができなくとも、「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない」(8:12-13)と信じています。神を畏れる者にはどのような幸福が訪れるのでしょうか。今日の招詞にルカ23:46を選びました。次のような言葉です「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手にゆだねます』。こう言って息を引き取られた」。人間は生物体として、いつか死にます。人間は死という宿命を背負っています。他方、人間には自己執着がありますから、それでも「死にたくない」と思います。そして多くの人は「死にたくない」と思いながら、あきらめの死を死にます。

・大阪・淀川キリスト教病院で多くの死を見つめてきた柏木哲夫医師は語ります「人は死を背負って生きている、そして人は生きてきたように死ぬ。多くの人はあきらめの死を死ぬが、死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」。イエスは最後の時に、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言われて死んで行かれたとルカは伝えます。このイエスの命をいただいた者もまた「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言って死んでいく特権が与えられます。これこそ、不思議な神の御業です。神を畏れる者は自己の死を神に委託することができます。いつかは死ななければならない人間にとって、これ以上の幸福はいらないのではないでしょうか。なぜならば、良く死ぬことのできる者は、良く生きることができるからです。

・賀来周一先生は信仰には二つの方があるといいます「心理学者ゴードン・オルポートは信仰を外発的信仰と内発的信仰と分ける。外発的信仰とは、自分中心の信仰のことをいい、自分を主役にした信仰の持ち方を指す。すべてのことは、私の信じ方次第となる。こうなると緊張とストレスをはらんだ信仰生活が続く。オルポートは、外発的信仰は危機の時には役に立たないと言う。危機とは信じ方次第でどうにかなるといったものでないからだ。内発的信仰とは、神中心の信仰であって、己を脇役とし、すべてのことを御心のままとする信仰のことを意味する。全幅の信頼を母親の腕に預けて眠る幼子のような信仰だ。オルポートは、このような信仰があれば、たとえ意に反した不都合な事態に身を置いたとしても、なおそこに神の御心があることを信じることができ、何が起ころうとすべてを包み込む包括的態度を養うことができると言う。そのような生き方は、すべてを「あのお方」にゆだねる信仰から生まれる。そこにはストレスに代わって平安があるだろう」。神を信じる者だけが、神の不在(この世の不条理)に耐えることができます。そのことを改めて確認したいと思います。

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