1.コリント教会の悔い改めを知ったパウロの喜び
・第二コリント書を読み続けています。パウロはコリント教会を設立しましたが、コリント教会はエルサレム教会からの伝道者の影響を受けてパウロから離反します。コリント教会の変化を聞いたパウロは、誤解を解くために手紙を書きました。それが「弁明の手紙」と呼ばれ、現在の第二コリント2:14−7:4になっていると思われます。しかし、「弁明の手紙」はコリント教会の人々に受け入れられず、パウロは直接コリントへ赴き、話し合いを持とうとしますが、すげなく追い返されてしまいます。パウロはなおもコリント教会の人々に手紙を書きます。その手紙が「涙の手紙」と言われています。パウロは語ります「私は悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」(2:4)。その手紙は現存していませんが、パウロに対して侮辱を加えた人物を教会から除名するように求める激しさを持っていたようです。
・パウロは手紙を弟子テトスに持たせてコリントに派遣しますが、返事が待ちきれず、途中のマケドニアにまでテトスを迎えに行きます「マケドニア州に着いたとき、私たちの身には安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」(7:5)。「外には戦い、内には恐れ」、コリント教会との不和とその後の成り行きがパウロを苦しめていたのです。コリント教会へ派遣したテトスは、なかなか戻って来きません。パウロの心には不安が高まっていました。
・テトスはパウロの導きで入信したパウロの協力者です。彼はギリシア人ですから(ガラテヤ2:3)、同じ民族のコリント教会への橋渡しに最適の人物だったのです。そのテトスが帰還して、コリント教会との関係がすべて好転したという吉報をパウロにもたらしました。パウロは喜びます「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神はテトスの到着によって私たちを慰めてくださいました」(7:6)。彼は続けます「テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたが私を慕い、私のために嘆き悲しみ、私に対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、私はいっそう喜んだのです」(7:7)。牧会者にとって長く教会を離れていた信徒が戻ることほど嬉しい知らせはありません。
・テトスの報告で、コリント教会の人々が悔い改めたことを知ったパウロは喜びに包まれました。彼らは、パウロの叱責を真剣に受け止め、自分たちの犯した過ちを悲しみ、悔い改めました。だからパウロは語ります「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔しません。確かに、あの手紙は一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、私たちからは何の害も受けずに済みました」(7:8-9)。
・牧会者が教会を批判する手紙を書くことは痛みを伴う行為です。涙なしには書けません。パウロは厳しい叱責の手紙をコリント教会の人々に送り、コリントの人々は悲しみました。パウロは、彼らを責めたことを後悔しましたが、彼らが、ただ悲しむだけでなく、悔い改めたと分かり、喜びます。そしてパウロは語ります「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(7:10)。悲しみには、人に悔い改めを迫る「御心に適った悲しみ」と、死に至る「世の悲しみ」があり、あなた方が経験した悲しみは「御心に適った悲しみだった」とパウロは言います。彼は続けます「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなた方は自分がすべての点で潔白であることを証明しました。」(7:11)。
・「例の事件」、パウロはその内容を明らかにしませんが、コリント教会を訪問したパウロに激しい罵りの言葉が浴びせられたことが示唆されています。教会は人と人の交わりの中に立てられますので、誰かを傷つける悪意の言葉が発せられると、それだけで交わりが崩れてしまいます。ヤコブは語ります「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」(ヤコブ3:8-10)。悲しいことですが、教会の中でもそのような出来事が起こります。コリント教会は中心になってパウロを罵った人を処分しました(2:5-6)。その人が犯した罪にふさわしい処罰を受ければもう十分だとパウロは語ります「あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心を、神の御前で明らかにするためでした。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、私たちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです」(7:12-13)。テトスがコリント教会を訪れた時、コリント教会の人々は、自分たちの悔い改めをテトスに明かしたのです。テトスからそのことを聞いたパウロは喜びに溢れて語ります「テトスはあなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。私は、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」(7:15-16)。
2.神の御心に沿う悲しみ
・パウロはこの手紙で、大切な真理をコリント教会の人々に教えようとしています。それは「神の御心に沿った悲しみ」と「世の悲しみ」の違いです。どのように違うのでしょうか。具体例を通して考えていきます。イスカリオテのユダはイエスに失望し、イエスを祭司長たちに引き渡しました。他方、ペテロはイエスが捕えられた時、恐怖にかられてイエスを三度否認しています。ユダもペテロも共にイエスを裏切り、共に罪を犯しました。しかしユダは自殺し、ペテロは立ち直りました。何が二人を分けたのでしょうか。神を信じる人もそうでない人も、共に罪を犯します。神を信じる人は罪を犯した時、それを神に指摘され、裁かれ、苦しみます。しかし神を求め続け、その結果憐れみが与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。そのため、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから、償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きなのです。「私は罪を犯しました」と悔改めた時、神の祝福が始まります。ペテロは罪を神の前に差し出して救われ、ユダは罪を自分で処理しようとして滅びました。
・パウロはコリント教会の人たちを正しい道に戻すために、彼らを叱責するという選択を迫られました。できることなら避けて済ませたいのですが、放っておくことはできません。その誤りを取り除かねば、神との和解はないのです。そのために激しい叱責の手紙を書きました。コリントの人々はその叱責に接して自分たちの罪を認め、悔い改めました。愛する者を叱責することは万感の悲しみを伴いますが、それなしには悔い改めなく、悔い改め無しには罪の赦しもありません。
3.試練の意味
・今日の招詞にヘブル12:11を選びました。次のような言葉です「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。ヘブル書は語ります「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブル12:5-6)。肉の父が子を鍛えるように、父なる神はあなた方を鍛錬するために迫害という苦しみを与えられたと著者は語ります。
・私たちが与えられる苦難を受け入れることを拒み、不平のみを語る時、苦難は苦難のままに終わり、私たちを飲み尽くします。しかし、私たちがそれを神から与えられた試練であり、神はこの試練を通して、祝福されようとしておられることを知るならば、その苦難は私たちを平安の道に導きます。苦難を神からの鍛錬と受け止めても苦難は苦難です。出来れば避けたい、しかし避けられないものならば正面から受け止めよと著者は言います。
・キリスト者の喜びは苦難や悲しみがないことではありません。同じように苦難は来ます。パウロは先に語りました「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者だったのです。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)、原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」。彼は失望から立ち上がる力をキリストから与えられたのです。その力は私たちにも与えられます。だからキリスト者はどのような状況の中でも喜ぶことが出来、また悲しむ人を慰めることが出来るのです。