江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年3月30日説教(マルコ15:16-32,わが神、わが神、どうして)

投稿日:2014年3月30日 更新日:

1.ゴルゴダへ

・マルコ福音書を読んでおります。受難節の今、イエスの十字架死の意味をマルコから考えていきます。イエスはユダヤ教大祭司による審問で死刑が言い渡され、ローマ総督ピラトにより死刑の執行が命令されます。ローマの処刑方法は十字架死です。それはローマに反抗した者にのみ課せられる残酷な刑罰です。十字架刑につけられる囚人は、先ず数十回の鞭打ち刑を受け、その後、十字架の支柱を囚人自らが背負って刑場まで歩きます。この支柱はかなり重く、イエスはその重さに耐え切れずに支柱を落とし、クレネ人シモンが代わりに担いだとマルコは記します。刑場に着くと、囚人の両手首と足首は釘で支柱に打ち付けられ、支柱が立てられると、体の重みで囚人は息をするのも苦しくなります。そして、出血と呼吸困難で時間をかけて死に至ります。ユダヤがローマの直接支配を受けてから(紀元6年)、滅ぼされる(70年)までの63年間に数千人が十字架刑で処刑されました。その中でこのナザレのイエスの死のみが忘れ去られることなく、その後の世界の歴史に決定的な影響を与えてきました。それはなぜでしょうか。
・マルコ15章はイエスのゴルゴダへの道行きを記述します。イエスは鞭打ち刑を受けた後、兵士たちの嘲笑を浴びます。「(兵士たちは)イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」(15:17-19)。イエスはこれらの侮辱行為に対して、沈黙して、なすがままに任せられます。イエスがかぶらされたのは金冠ではなく、茨の冠です。嘲笑され、つばを吐きかけられるメシア、この方こそ、私たちの救い主だとマルコは主張します。なぜこのような無力な方をマルコは救い主と呼ぶのでしょうか。
・イエスは夜中に捕らえられ、裁判を受け、鞭打たれ、その体力は極度に衰弱していました。そのため、翌朝十字架を運ぶ途中で倒れられ、ローマ兵はクレネ人シモンという男にその十字架を無理矢理に担がせます(15:21)。シモンは海外に住むユダヤ人で、過越祭りを祝うために一時帰国していたのでしょう。運悪く、イエスの道行きに遭遇し、十字架を担ぐ羽目になりました。彼は、重い十字架を担がされ、ゴルゴダまで歩かされ、見知らぬ罪人の処刑を見させられました。早く忘れてしまいたいような、いやな出来事であったでしょう。しかし、この出来事がシモンの生涯を変えて行きます。マルコは、シモンを「アレキサンデルとルポスの父」と紹介しています。アレキサンデルとルポスは、マルコの教会では名前の知られた信徒だったことを示します。またパウロは手紙の中で「ルポスとその母」に言及し、ルポスの母を「彼女は私にとっても母なのです」と言っています(ローマ16:13)。ルポスの母、シモンの妻もローマ教会の一員となっています。クレネ人シモンはイエスの十字架を負わされ、イエスの死を目撃しました。その彼に何かが起こり、彼はイエスを神の子と信じる者になり、妻と子たちも信徒になりました。
・クレネ人シモンはいやいやながら十字架を背負いました。その結果、彼は命を見出しました。人はそれぞれの十字架を負わされます。その重荷を私たちが神から与えられた賜物として受け入れる時、重荷の意味が変ってきます。私は18年前、東京バプテスト神学校(夜間)に入学しましたが、最初の授業で各人が何故この学校に来たのかを自己紹介する場があり、ある人は妻が自殺した、ある人は息子が若くして死んだ、ある人は事業に失敗した、各人がそれぞれの苦しみの中で人生の意味を考え込まされ、神学校に導かれたと告白していました。挫折、失敗、十字架こそ、命に到る道なのではないかとシモンの物語は気づかせます。初代教会の人々は十字架を背負って歩むクレネ人シモンの姿に、自分たちの歩むべき規範を見出したのです。それがマルコ8章の記述に反映されているように思えます「私の後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:34-35)。これはイエスの言葉というよりも、苦難の道を歩む教会が、クレネ人シモンの歩みを模範として告白したものかもしれません。「強いられた恵み」、試練を恵みとするか、苦痛にするかは私たちに委ねられています。

2.自分を救わない救い主

・イエスは刑場に連行されました。刑場はゴルゴダ(アラム語=頭蓋骨)と呼ばれた、エルサレム城外にあった処刑場であり、今日、聖墳墓教会が立つ場所です。兵士たちはイエスを十字架につけ、その服を分け合い、通りがかりの人々は頭を振って、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と罵りました(15:29-30)。祭司長たちもイエスを嘲笑して罵ります「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(15:31-32)。
・「己を救え」、「自分を助けよ」、この世においては「自分を救う」ことが人生の最終目標です。人々は自分を中心にして回転する世界以外を知りません。自力救済、自己実現、それがこの世の理想です。だから、「自分さえも救えない者が何故他人を救えるのか」とイエスを罵るのです。この世においては力の強い者、能力の高い者が勝者となり、そうでないものは敗者として卑しまれます。しかし、聖書はそのような価値観に真っ向から反対します。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:35)。どのようにしてその救いが為されるのでしょうか。十字架を通してです。

3.わが神、わが神、どうして

・今日の招詞にマルコ15:33-34を選びました。次のような言葉です「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。イエスの十字架刑の時、弟子たちは逃げ去りましたが、ガリラヤから来た女性たちはその場に残り、彼女たちがイエスの最後の叫びを聞き、それを聞いたままに弟子たちに報告し、やがてそれが伝承となり、マルコ福音書の中に取り入れられたものと思われます。この言葉はイエスが日常話されていたアラム語で残されており、おそらくイエスの肉声を伝える言葉です。
・イエスの最後の言葉「わが神、わが神、どうして私を捨てられたのか」は、初代教会の人々に大きな衝撃を与えました。「神の子が何故絶望の叫びを挙げて死んでいかれたのか」、弟子たちはイエスの言葉を理解できませんでした。そのような思いがこの叫びを、イエスは詩篇22篇の冒頭の言葉を語られたのだという理解に導きます。詩篇22篇は23節からは讃美に転じており、イエスは神を賛美して死んでいかれたのだという理解です。ただこの解釈には無理があります。何故ならば、引用句自体が絶望の叫びであることは否定出来ないからです。ルカは、イエスが死を前にこのような絶望の叫びをされるはずがないという視点から言葉を削除し、「父よ、私の霊を御手に委ねます」(23:46)という従順の言葉に変えました。ヨハネはイエスの十字架死は贖いのためであったと理解し、最後の言葉を「成し遂げられた」(19:30)という言葉にします。それぞれの福音書記者の信仰によって、イエスの最後の言葉の修正が加えられていきました。このような修正を経ることによって、イエスの十字架死の意味が、「神の見捨て」から、「栄光のキリスト」に変えられていきます。しかし歴史的事実としては、「イエスは苦しんで、絶望して死んでいかれた」、私たちはこの事実を直視する必要があります。
・「わが神、わが神、どうして」、多くの人がこの体験をします。先の大震災では無念の内に2万人の人が亡くなりました。何故自分たちが死ななければいけないのか、多くの人々がわからないままに死んでいきました。原爆で殺されていった人たちも、「わが神、わが神、どうして」と問いながら死んでいかれました。神学者ユルゲン・モルトマンもこのような不条理に苦しんだ一人です。彼はハンブルクに生まれますが、故郷は戦争で廃墟となり、彼は18歳で軍隊に招集され、各地を転戦し、19歳の時に戦争捕虜となり、祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えます。彼は収容所の中で自問自答します「なぜ私は生きているのか」、「なぜ私は他の人と同じように死ななかったのか」、「神よ、あなたはどこにいるのか」。その彼がアメリカ軍のチャプレンから一冊の聖書を贈られ、読み始めた時に、マルコ15章の言葉「わが神、わが神、何故私を見捨てられたのですか」に大きな衝撃を受けます。
・彼は説教集「無力の力強さ」の中で述べます「イエスはなぜ『わが神、どうして、どうして』と叫びながら死んでいかれたのか。なぜ神はイエスを見捨てたのか。キリスト教神学はこの問いに対して多くの答えを展開してきた。多くの贖罪論が展開されたが、どれも適切ではないと思える。『わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』という問いに対する、唯一つの満足いく答えは『復活』である。神は言われる『私はあなたを見捨てなかった、かえって大いなる憐れみをもって、私はあなたを集めようとしている』・・・人間が希望を失う所、無力になってもはや何一つすることができなくなる所、そこでこそ、試練にあい、一人見捨てられたキリストは、そういう人々を待っておられ、ご自身の情熱に与らせて下さる。自分から苦しんだことのある者のみ、苦しんでいる人を助けることができるのである」。
・最後に彼は語ります「私たちの失望も、私たちの孤独も、私たちの敗北も、私たちをこの方から引き離さない。私たちはいっそう深く、この方との交わりの中に導かれ、答えのない最後の叫び、『どうして、わが神、どうして』に、その死の叫びに唱和し、彼と共に復活を待つ。私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる。私たちを圧する絶望はこの御方と交わることによって、再び自由に開かれて希望となるのである」。神を信じる者だけが、神の不在に耐えることができます。イエスは十字架上で絶望しながら、なお「わが神、わが神」と神を呼ばれました。多くの人がそれ故に、十字架のイエスに希望を見出してきました。「わが神、わが神、どうして」、この嘆きこそ苦しむ者への福音なのです。

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