江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年3月23日説教(マルコ10:17-27、所有からの解放)

投稿日:2014年3月23日 更新日:

1.金持ちの青年とイエスの出会い

・マルコ福音書を読み続けています。今日の聖書箇所は「所有についてのイエスの教え」です。10:17以下を見ていくことにしましょう。マルコは記します「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」。この人は22節で「たくさんの財産を持っていた」とあります。また並行箇所マタイ19:20では「青年」、ルカでは「議員」と呼ばれています(18:18)。家柄が良く、金持ちで、地位の高い、この世的には成功者と見られていた青年が、イエスの所に来て、「永遠の命をいただくためには何をしたら良いのでしょうか」と問いかけてきました。この人にイエスはそっけない対応をされます「なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」(10:18)。イエスは彼の問題を一目で見抜かれました。彼は善良で、戒めを守り、経済的にも恵まれている。彼は善いことをすれば救われると考えているが、善い方である神を求めていない。「神お一人のほかに善い者、救いを与える者はだれもいない」のに、彼は救いを自分の手で勝ち取ろうとしている。
・イエスは彼を試すために言われます「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(10:19)。「モーセは律法を守れば救われると言っており、あなたがたの指導者もそう教えている。戒めを守れば救われると考えるのであれば、守ったらどうか」とイエスは言われます。金持ちの男は答えます「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10:20)。しかし彼には救いの実感がありません。だからイエスのもとに来たのです。
・イエスはその彼に驚くべきことを言われます「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」(10:21)。しかし彼はあまりにも多くを所有していましたので、イエスの言葉に従えませんでした。マルコは書きます「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(10:22)。

2.所有からの解放

・富める青年の物語は続きます。10:23以下でイエスは出来事の意味するものを弟子たちに教えられます「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(10:23)。弟子たちはイエスの言葉を聞いてびっくりします。ユダヤの伝統では「富は人間の善行に対する神の祝福」とされています(申命記28:2他)。それなのにイエスは「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(10:24-25)と言われます。らくだが針の穴を通ることは不可能です。イエスは「金持ちは神の国に入ることは出来ない」と宣言されているのです。弟子たちは驚いて声を出します「それでは、だれが救われるのだろうか」(10:26)。律法を守り、真剣に道を求めている者さえ、神の国から閉めだされるのであれば、誰が救われるのか、誰もいないではないかという弟子たちの悲鳴です。
・ここでイエスは私たちに「貧しい生活をせよ」と求められているのではありません。また、「富そのものが悪い」と言っておられるのでもないことに留意すべきです。しかし、「富が大きければ大きいほど、神の国から遠ざかる危険性がある」と警告しておられるのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)。問題は富だけではありません。学問や知識、地位、権力、経験等、人に依り頼む心を起こすものはみな、神の国に入るには障害物となるのです。だからその障害物を捨てよとイエスは言われます。
・豊かになれば堕落する、それは歴史の真理です。イエスの復活によって成立した教会は、世の人々から理解されず、迫害されましたが、人々はイエスの教えを守り続け、「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26:52)として、信徒に兵役拒否を呼びかけていました。それから300年が経ち、信徒が増え、ローマ帝国の公認宗教となり、終には国教となりますと、教会の考え方は一変します。教会は、信徒に「信徒も国民として政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と語るようになります。やがて、聖戦の思想が生れ、それが十字軍等の歴史の過ちを産んでいきます。十字軍を派遣した法王ウルバヌス2世は言います「敵を殺し、エルサレムを取り戻すことが、贖いの業であり、天国への道である」。こうなると、もうイエスの教えではなく、人間の教えになっていることは明らかです。
・豊かになれば堕落する、教会もその真理の通りに堕落していったのです。古代ユダヤ人の知恵の書である箴言は語ります「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」(箴言30:7-9)。
・イエスは青年に「財産を捨てて従いなさい」と言われました。それは彼が「善い事」、善行を積むことによって天国を獲得しようとして、命の源である神(善い方)を求めていなかった、それに気づくために挫折する必要があったからです。物語の主題はお金や富ではなく、生き方の問題です。自分の力に頼って救いを求めた時、それは挫折します。救いは恵みであり、ただ受ければよいのです。幼子がなぜ「神の国に入る」と言われているのか(10:15)、何も持たないから、「受ける」しかないからです。イエスは言われました「人間に出来ることではないが神には出来る」(10:27)。金持ちの青年はお金や才能があったばかりに自分の力に頼り、それから解放されることが出来なかったのです。

3.問題はお金ではなく生き方だ

・今日の招詞としてマルコ10:29-30を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた。『はっきり言っておく。私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける』」。イエスは富める青年に財産を捨てて従ってくるように求められましたが、青年は従うことが出来ませんでした。ここでは無理にでも捨てることが求められているのでしょうか。
・E.シュバイツァーはマルコ福音書注解のなかで次のように述べます「経験の示す所によれば、無理に棄て去ったものは、まだ棄てていないものよりも、より強く人の心を支配する」(NTD新約聖書注解、p292)。近年カトリック教会における子供への性的虐待事件がクローズアップされています。ニューヨーク・タイムズの記事によれば(2003.1.11)、「過去60年間で1200人を超える聖職者が、4000人以上の子供に性的虐待を加えた」とのことです。カトリック教会は司祭の独身制を求めており、抑圧された性が少年愛の方向に転化されたもので、過去にもあったのでしょうが、最近になって訴訟等で大きく取り上げられるようになりました。国連・子供の権利委員会はローマ法王庁に対して、「必要な対策をとるように」勧告を出しています(2014.2.5)。カトリックの聖職者の独身性は無理があります。イエスが禁欲を、全てを捨てることを求めておられるのではないことは明らかです。
・イエスが私たちに求められるのは、「捨てる」ことではなく、「従う」ことです。従った結果、財産や職業が障害になるのであれば、それを捨てなさいと言われています。それは強制ではなく、任意です。あくまでも個人の判断に委ねられています。ペテロは妻がいましたが、彼は妻を捨てるのではなく、妻と共に伝道活動に従事しています(1コリント9:5)。ザアカイは金持ちでしたが、財産のあるままでイエスに従っています(ルカ19:8)。持つことが妨げにならなければ、持ったままで従えば良いのです。
・内村鑑三の書いた本に「後世への最大遺物」という本があります。講演会の口述筆記ですが、その中で内村は言います。「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない」。では何をこの世に残していこうか。内村は語ります「社会が活用しうる清き金か。田地に水を引き、水害の憂いを除く土木事業か。書いて思想を遺すことか。教育者となり未来を担う者の胸に思想の種をまくことか。これらは遺すべき価値あるものである」。しかし、「誰でも残せる、そして他の人にも意味のある遺物こそは、“高尚なる勇ましい生涯”だ」と内村は語ります。彼は最後に述べます「この世の中は悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であることを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである・・・その考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物として、この世を去るのである」。従う生活こそ、高尚なる勇ましい生涯です。
・ロシアの文豪レフ・トルストイは言います「すべての人間がキリストの教えを実行に移したならば、この地上に神の国が出現するであろう。私一人がそれを実行に移したならば、私はすべての人たちと自分のために、最も良いことをしたことになるであろう」。トルストイは82歳の時に家出し、その寄留先で亡くなりました。彼は土地や財産、著作権料等持てるもの全てを貧しい人に施そうとしましたが、家族の反対で挫折し、家出したものです。トルストイもまた迷える青年で在り続けたのです。この迷いは貴重な迷いです。神は人が何を成し得たかではなく、何を為そうとしたかをみられるからです。
・イエスはこの世に来られましたが、それは私たちがこの世で幸福になるためではありません。高尚な勇ましい生涯を送れるように来られたのです。高尚な勇ましい生涯とは何か。自己実現が人生の目標になっている者は常に欠乏に悩まされます。どんなに金持ちになっても、どんな高い地位についても、またどんなに幸せな家庭を築いても、それらはやがて無くなります。イエスは言われます「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)。自分のためだけではなく、他者のためにも生きる決心をした時、神の国が現れます。イエスが言われたように「実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)のです。神の国は努力して掴み取るものではなく、イエスに従う時に与えられる。そのことを覚えたいと思います。

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