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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年4月6日説教(マルコ1:9-15、人はパンだけで生きるのではない)

投稿日:2014年4月6日 更新日:

2014年4月6日説教(マルコ1:9-15、人はパンだけで生きるのではない)

 

1.イエスの伝道の始め

 

・受難節の今、マルコ福音書を読み続けています。新約聖書には四つの福音書がありますが、その中でマルコが最初に書かれた福音書です。紀元70年代初めに書かれたと言われていますが、当時の教会は混乱の中にありました。紀元64年に、ローマ皇帝ネロはキリスト教徒への大迫害を行い、教会の指導者であったペテロやパウロが殺されました。ユダの地ではローマ帝国支配に反対する騒乱が各地で生じ、その中でエルサレム教会の指導者ヤコブも殺されています(62年)。66年からはローマからの独立を目指すユダヤ戦争が始まりました。教会を支えて来た使徒たちが次々に殺され、ユダヤの国そのものが滅亡に直面する中で(ユダヤ戦争の結果、70年にエルサレムは破壊され、ユダヤ人は国を追放されます)。そのような中で、これから何を基準に教会を形成していけば良いのか、マルコは、イエスについての伝承や言葉を集め、「この方に従っていく」として、文書をまとめました。それがマルコ福音書です。最初に書かれた福音書、本来的には新約聖書の最初に来るべき書がマルコ福音書です。

・マルコは福音書を次のように書き始めます「イエス・キリストの福音の初め」(1:1)。ギリシャ語原文を直訳すると次のようになります「始まった、福音が、イエス・キリストの」。「始まった」、ギリシャ語「アルケー」です。このアルケーと言う言葉は、当時の人々が読んでいた70人訳ギリシャ語聖書では創世記冒頭に用いられています「初めに神は天地を創造された」(創世記1:1)、「初めに」、ヘブル語「ベレシート」がギリシャ語「アルケー」に翻訳され、その言葉をマルコは福音書冒頭に用いています。旧約聖書も新約聖書も、「初めに」という言葉で始まっているのです。この「初めに」という言葉を通して、マルコは「天地創造によって世界は始まったが、イエス・キリストが来られて天地は再創造され、新しい時代が始まった」と宣言しています。
・何が始まったのか、「福音が始まった」とマルコは言います。福音=ギリシャ語「エウアンゲリオン」は良い知らせの意味です。「イエスが来られて良い知らせが始まった」とマルコは言います。当時エウアンゲリオンという言葉はローマ皇帝即位の告知に使われました。ローマ皇帝=世界の支配者、戦争をなくし人類に平和と救いをもたらす皇帝の出現こそ、エウアンゲリオン=良い知らせであると帝国の人々は告知されたのです。その言葉をマルコはイエス・キリストの出現に用いています。使徒たちがローマ皇帝によって殺され、祖国ユダもローマ帝国の支配にあえぐ中で、マルコはあえて「福音」という特別な言葉をイエスに用います。マルコは、「ローマ皇帝が救い主ではなく、イエス・キリストこそ救い主である」と命をかけて信仰告白をしているのです。
・マルコは続けます「イエス・キリストの」、イエスはヘブル名「ヨシュア」のギリシャ語訳、キリストはヘブル語「メシヤ」のギリシャ語訳です。ナザレのイエスこそキリスト、救い主だとの信仰告白です。マルコはその信仰をマラキ書やイザヤ書を引用して説明します「預言者イザヤの書にこう書いてある『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(1:2-3)。当時のユダヤはローマの支配下にあり、反乱が各地に起こり、多くの血が流されていました。その中で、今こそ神は、彼らを救うためにメシヤをお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。その期待が、引用された旧約聖書の言葉の中にあります。マラキは歌います「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」(マラキ3:1)。「神が世を救うために来られる、そのしるしとしてまず使者が送られる」とマラキは預言し、マルコはその使者こそ「洗礼者ヨハネ」であり、そのヨハネの紹介でイエスが世に出られることを予告します。それが1:4から始まる洗礼者ヨハネの記事です。

 

2.イエスの伝えた福音

 

・マルコは記します「(ヨハネは)荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1:4-5)と。イエスは故郷ガリラヤで、ヨハネの噂を聞かれ、「時は満ちた」、「神がイスラエルを救うために行為を始められた」との燃える思いで、ガリラヤを出られました。30歳であったとルカは伝えています。イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられますが、その時、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とマルコは記します(1:10)。この洗礼を通して、イエスは自分が神の子=神から使命を与えられた者として召されたことを自覚されました。
・人々は力強い言葉で神の言葉を語るヨハネこそが、メシヤ=救い主ではないかと思いましたが、ヨハネは人々の思惑を否定し、「私よりも優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7-8)と言いました。マルコは、その「来るべき方こそ、ナザレのイエスであった」と主張しています。ヨハネは荒野で、預言者の衣を着て、悔い改めを人々に迫りました。しかしヨハネがヘロデ・アグリッパに逮捕されたことを契機に、イエスは荒野を出てガリラヤに行かれ、その宣教を始められました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)、イエスの最初の肉声は「時は満ち、神の国は近づいた」というものでした。私たちは、ヨハネの宣教とイエスの宣教の違いを理解することが大事です。何故ならば多くの場合、私たちはイエスではなく、ヨハネの宣教を宣べ伝えているからです「罪を認めなさい。悔い改めなしには救いはない」、「信じなさい。信じない者は地獄に行く」。これは良い知らせ=福音ではありません。「神の国は近づいた」、イエスは信じない者のために活動された、そこに「良い知らせ」があるのです。

 

3.人はパンだけで生きるのではない

 

・イエスは宣教を始める前に、荒野で試練の時を持たれました。マルコはそれを短く要約します「"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(1:12-13)。他方、マタイとルカは試練の内容を詳しく記述します。今日の招詞に選びましたマタイ4:4がその言葉です。「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。

・イエスは「神から与えられた使命を果たすために何をすれば良いのか」、それを聞くために荒野に導かれました。荒野での断食によって空腹になったイエスの耳元に声が聞こえました「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。これは恐らくイエスの内面から来る思いであったのでしょう。その声は言います「多くの人はパンがなく飢えている。今、石をパンに変えれば、みんなが食べられるではないか。みんなに食べさせる、それこそが神の子の使命ではないのか」。多くの人が飢えている事実をイエスは知っておられました。その問題にどう対応すべきかがイエスの課題の一つでした。しかしイエスは誘惑者に言われます「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。パレスチナの地は元々豊かな土地、乳と蜜の流れる国といわれた所です。みんなが食べるだけの穀物を生産するだけの土地の豊かさを持ちます。しかし、時代が進むに従い、金持ちが土地を買占め、農民は土地を奪われて小作農となり、平常でもやっと食べることの出来るぎりぎりの生活に追い込まれていました。そのため、旱魃や災害が起こり、不作になると、たちまち飢餓に追いこまれ、多くの人がパンを食べることの出来ない状況になりました。それは、天災ではなく、人災であり、その状況を解決しない限り、ここで石をパンに変えても、問題は解決しません。

・今日でも同じ状況があります。今、世界には60億人の人がおり、10億の人は毎日の食べ物に事欠いています。他方、世界の穀物生産量は20億トンで、これは100億人を養える量です。ただ配分の不公平によって飢餓が生じています。このような状況下で「石をパンに変える」ことは本質を見失う行為です。そこで「神の口から出る一つ一つの言葉」が必要になります。

・オルター・トレード・ジャパン社(本社・東京)というフェア・トレードを行う会社があります。フェア・トレードとは「良いものを正当な価格で買う」仕組みです。「オルター・トレード」の名前の由来は「(学者たちは)ヘロデのところへ帰るなと夢でお告げがあったので、別の道(Alternative)を通って自分たちの国へ帰って行った」(マタイ2:12)にあります。イエス降誕時にベツレヘムを訪問した学者たちが、危険を避けるために本来の道ではなく、別の道を通って帰っていきました。かつてフイリピンのネグロス島で飢餓が発生しました。当時の島の主要産業はサトウキビのプランテーションで、島民の多くは、農場や工場で働く労務者でしたが、1980年代の初めに砂糖の国際価格が暴落し、農場や工場が閉鎖され、人々は職を失い、子供たちが飢餓で死んでいきました。ユニセフは「ネグロス島飢餓宣言」を出し、日本・ネグロス委員会が組織され、救援活動が始まりました。最初は食糧援助でしたが、それではまた同じことが起きます。人々は島民が自立できる「もう一つの道」を模索し始め、島の特産品であるバラゴン・バナナを日本の消費者に直接売るシステムを開発します。価格を高めに設定し、その中に自立支援金を組み入れ、そのお金を用いて農機具やトラクターを買う仕組みです。日本の生活協同組合が趣旨に賛同し、無農薬バナナとして組合員に配ることによって、ネグロス島の農民の生きる道が見出されました。人々はパンを与えるのではなく、イエスの教え(神の口から出る言葉で生きる)を現代に具体化したのです。

・「人はパンだけで生きるのではない」、しかし、人々は反論します「人はパンがないと生きることは出来ない。だから、まずパンが欲しいのだ」。まずパンが必要だと思うとき、生きるためのあらゆる行為は正当化されます。そこに生存競争が始まりますが、戦いに勝ってパンを食べても、すぐに空腹になります。石をパンに変えても、そこには良いものは生まれないのです。「人はパンだけで生きるのではない」、食べ物が豊かにある私たちは、苦労せずに言えます。しかし、目の前からパンがなくなり、飢えている時にこそ、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」道を探しだすのが教会の使命です。キリストに感動して生きる道を私たちは探さなければいけない。そこには信仰に裏打ちされた知恵が必要です。「人はパンだけで生きるのではない」、この言葉は本年度の教会標語です。人間の側から見た苦難は、神の側からみれば試練、訓練です。神は私たちを良い地に導き入れるために、今荒野を歩くことを命じておられるのです。

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