1.流刑地にいたヨハネに幻が示される
・今日からヨハネ黙示録を三回にわたって読んでいきます。ヨハネ黙示録はある人々にとっては世界の終末を預言する書として受け取られてきました。黙示録16:16に出てきますハルマゲドンを、オウム真理教の麻原彰晃は世界の終末時に行われる最終戦争と誤読し、戦いの機先を制するためとしてサリン事件を起こしました。しかし本当の黙示録はローマ帝国からの宗教迫害の中で苦しむ諸教会に当てられた、伝道者ヨハネからの慰めと警告の書簡です。それは諸教会の礼拝の中で読まれ、聞かれることを目的に書かれた書簡で、アジア州にある7つの教会に宛てて書かれています(1:4)。
・イエス死後、教会はエルサレムを中心に発展してきましたが、パウロの伝道によりローマ帝国各地に信徒の群れ、教会が形成されていきます。紀元70年、ユダヤはローマとの戦いに敗れ、エルサレムは占領され、多くのユダヤ人たちが難民として小アジアと呼ばれる地域に逃れていきます。その中にはキリスト教徒たちもいて、紀元90年頃にはエペソを中心とする小アジアがキリスト教信仰の中心地になっていきました。しかし、当時のローマ帝国当局者は急速に広がってきたキリスト教に懐疑的でした。何故ならば、彼らはローマの神々を拝もうとせず、また皇帝ドミティアヌスの時代には帝国の臣民は皇帝を神として拝むことを求められましたが、教会は皇帝礼拝を拒否して行き、その結果、キリスト教徒たちは非国民、不敬者たちとして迫害を受けるようになります。
・黙示録の著者ヨハネも皇帝礼拝を拒否したため、地中海にあるパトモス島という島に流刑になっていました。その流刑地にいたヨハネにキリストからの幻が示されます。「私は、あなた方の兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しの故に、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、私は“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ』」(1:9-11)。
・ヨハネは迫害故に明らかに書くことは出来ず、黙示として手紙を書きます。帝国からの迫害にどのような意味があるのか、どうすれば良いのかを書いた手紙がヨハネ黙示録です。ヨハネは書きます「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(1:1)。ヨハネは黙示を通して、ローマ皇帝が世を支配しているのではなく、神が支配しておられ、今は天におられるキリストがあなた方を救うために来られる、だから今しばらく忍耐しなさいと伝えます(1:7)。キリストを証し(ギリシャ語=マルチュリア)することは、今の時代には殉教(martyr)を伴うものになるかもしれないが、キリストが受難されたようにあなた方も苦しみを受け入れなさいと勧めます(1:3)。
・ヨハネが見た幻は、キリストがやがて来られるというものでした。ヨハネは書きます「恐れるな。私は最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」(1:17-19)。ヨハネは苦難の意味を諸教会に伝えます。
2.目を覚ましていなさい
・ヨハネは流刑地で幻を示され、アジア州の七つの教会宛に手紙を書きます。最初の手紙はエペソ教会宛てのものです。エペソ教会は外部からの迫害と共に、内部からの異端のために混乱の中にありました。ヨハネは書きます「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」(2:2-3)。その異端は、ニコライ派と呼ばれています(2:6)。おそらくは迫害の中での妥協=皇帝礼拝をしても信仰は汚されないとの考えが教会に広がり始めていたのでしょう。しかしヨハネは「それは間違っている」と伝えます。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(2:4-5)。
・二通目の手紙はスミルナ教会に宛てたものです。スミルナの教会は迫害を良く耐えていました。「私は、あなたの苦難や貧しさを知っている。・・・あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2:9-10)。三通目の手紙はペルガモン教会宛です。ペルガモンにはローマ皇帝を祭る神殿があり、迫害は厳しかったと言われています。しかし教会は迫害の中で信仰を守りぬいていきました。ヨハネは書きます。「私は、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたは私の名をしっかり守って、私の忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、私に対する信仰を捨てなかった」(2:13)。
・迫害が厳しくなると、棄教する者が出てきます。バラムの教え=世に従おうとする者も出てきます(2:14-15)。戦時中の日本の教会が天皇を神と認め、神社参拝を認めていったのもそうです。日本の教会は世に倣って神社参拝を行いましたが、韓国の教会は神社参拝を拒否し、多くの殉教者を出しました。それが今日の韓国教会の隆盛と日本教会の衰退の原因の一つだと言われています。守るべきものは守っていき、拒否すべきものは拒否して行く、そのけじめが信仰には必要です。今週の火曜日、2月11日は建国記念日です。建国記念日は戦前の紀元節が戦後に復活したものです。ヨハネの時代、皇帝ドミティアヌスが劇場や競技場に姿を現すと、会衆は皆起立して、「私たちの主、皇帝に栄光あれ」と大声で叫ばなければいけなかったと伝えられています。戦前の日本では直立不動で「天皇陛下万歳」を叫びました。教会は2月11日を紀元節(建国記念日)として祝うことを拒否し、この日を「信教の自由を守る日」として祝います。
・手紙はその後ティアティラ教会、サルディス教会、フィラデルフィア教会、ラオディキア教会へと続いていきます。ティアティラ教会は迫害の中で、教会が揺れていましたが、「私が行くときまで、今持っているものを固く守れ」と励まします(2:25)。サルディス教会には迫害はありませんでしたが、その分、信仰が無気力化、停滞化していました。ヨハネはサルディス教会に「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ」と書きます(3:1-2)。「人が世の現実と妥協した時、信仰は死ぬ」と警告します。妥協すれば迫害はなくなりますが、同時に信仰も死んでしまいます。
3.私たちはこの手紙をどのように読むか
・今日の招詞にヨハネ黙示録3:20を選びました。次のような言葉です「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」。ヨハネがラオディキア教会に宛てた手紙の一部です。町は商業都市として栄え、豊かさを誇りましたが、豊かさの中で、人々の信仰は自己満足的な、生ぬるい信仰に堕していきました。そのような教会に厳しいイエスの言葉が臨みます「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15-16)。キリストと出会いながら、服従も奉仕もせず、無関心と不徹底な信仰生活を送る教会に対して、キリストは「私はあなたを口から吐き出そうとしている」と言われているのです。
・これは現代の私たちへの警告の言葉です。私たちも「熱くも冷たくもなく、なまぬるく」なっているのではないか。原誠という同志社の先生が、「戦時下の教会の伝道−教勢と入信者」という論文をまとめました(2002年3月)。それによれば.戦時下1942年の日本基督教団全教会の受洗者は年5,929名でした。戦時下、国家による宗教統制は激しさを増し、ホーリネス教団や救世軍などに対する弾圧などが起こり、国家がキリスト教を敵国宗教であるとして疑心の目で見ていた時です。その時に6千名近い洗礼者がありました。戦後、信教の自由が保証され、自由に教会に行くことが出来るようになった1998 年の受洗者は1900名でした。受洗者数は半分以下です。豊かさと平和は信仰を生ぬるくします。
・戦時下の日本教会は社会からの「迫害と敵視」の中にあり、ヨハネ黙示録の教会と似た状況にありました。しかしその中で年間6千名の洗礼者を生み出し、平和な時代になると洗礼者は半数以下になった。何がそうしたのでしょうか。ヨハネは迫害下のスミルナ教会への手紙の中で、「私は、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」(2:9)と賞賛します。他方、迫害を経験しなかったラオデキィア教会には「あなたは、私は金持ちだ。満ち足りている・・・と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(3:17)と批判しています。「目覚めている」ことが大事なのです。ヨハネの教会や戦時下の日本教会は目覚めざるを得なかった。そのことが伝道になった。
・この緊張感を現代の私たちも持つ必要があります。現代は迫害はないかもしれませんが、悪の蔓延に教会もいつの間にか捕らえられています。世の中で進行しているのは、経済格差の拡大であり、地方都市の疲弊です。多くの人々が苦しみの中にある時、「私は金持ちだ。満ち足りている」として自分のことだけに拘れば、教会は貧しくなります。他者に与えない者には神も恵みを与えてはくれないからです。その私たちに黙示録のイエスは呼びかけます。「目を覚ませ」(3:1)、「見よ、私は戸口に立って、たたいている」(3:20)。「目を覚ましなさい」、この言葉を今日は受け止めたいと願います。