1.復活と体のよみがえり
・今日、私たちは召天者を覚えて記念礼拝を行います。篠崎キリスト教会関係では、12名の方が対象になります。教会暦では11月1日が「諸聖人の日」、11月2日が「死者の日」とされています。教会暦の伝統ではこの日はお墓参りの日です。そのため、キリスト教会の多くが、11月第一主日に、「死者を覚える」礼拝を持ちます。仏教では死者の冥福を祈って「御経」を読みますが、キリスト教会では死者のために祈ることはしません。何故ならば死者は神の元に安らかに眠っていると理解するからです。そのため教会では、「死者の日」には家族の方に集まっていただき、故人を偲ぶと共に、「死とは何か」を聖書から聞いていきます。「残された者が良き死を迎えることが出来るように」との願いがそこにあります。そのためのテキストとして、今日は、使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の15章を読みます。この箇所には、「人間の死をどのように考えるか」が、中心的に記されているからです。
・パウロはコリントの教会に人々に語ります「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)。コリントの人々はキリストが死から復活したことは信じていました。キリストの復活はキリスト教信仰の中心です。しかし、コリントの人々は、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない出来事だ」と理解していました。彼らはギリシア的な霊魂不滅の考え方、すなわち人の肉体は滅びるが、霊魂は不滅であり、彼岸でさらに生き続けると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ということが起こるはずはないと考えていました。その彼らにパウロは語ります「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(15:13)。
・キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられています。それが15:3以下にあります信仰告白です「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:3-5)。キリストと呼ばれたイエスはローマ帝国により十字架刑で処刑され、墓に葬られました。その死んだキリストが弟子たちに現れた、その顕現体験から「イエスは復活された」という復活信仰が生まれ、その復活の視点から「イエスの死は私たちの罪のためであった」という贖罪信仰が生まれました。この贖罪信仰と復活信仰こそ、聖書の語る福音です。パウロはローマ人への手紙の中で書きます「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ロ−マ8:11)。パウロはコリントの人々にあなた方はこの福音を否定しているのだと迫ります。
・そして彼は決定的な言葉を語ります「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。復活、体のよみがえりをどう理解するかは難しい問題です。イエスが十字架刑で殺され、葬られたことは歴史的な事実です。また十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが復活のイエスに出会い、「イエスはよみがえられた」として教会を形成していったことも歴史的事実です。しかし出来事の背後にある「復活のイエスとの出会い」は、歴史的な言葉では表現できず、あえて表現すれば「弟子たちの異常な心理体験」と言わざるを得ないでしょう。しかしパウロ自身、復活のイエスに出会っています「そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(15:8)。だからパウロは確信を持って語ります「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)。人は死んだのち眠りにつく、その死者の中からキリストが復活された。キリストが初穂であり、だから私たちもキリストに従って復活する、だから「死は勝利にのみ込まれた」(15:54)とパウロは語るのです。
2.私たちは死んだらどうなるのか
・大阪・淀川キリスト教病院で長い間働いていた医師の柏木哲夫さんは、その生涯で3千人の方の死を見守りました。彼は語ります「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる」。彼はキリスト者でしたが、その問に対して何も答えられませんでした。誰にもわからないのです。しかし、彼は多くの人の死を看取った経験から語ります「人は死を背負って生きている」、いつ何時死ぬかわからない存在であるという意味です。そしてまた「人は生きてきたように死ぬ」と語ります。つまり、それまでの生き方が死に反映されるということです。そして柏木先生は、「多くの人はあきらめの死を死ぬ」と言います。死にたくないのに死んでいく人が多いのです。しかし、「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」と語ります。
・パウロがコリント書で語っているのも同じ意味ではないかと思えます。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(15:21-22)。アダムは創世記に出てくる最初の人間で、肉の人間を象徴しています。創世記の中で、神はアダムに、「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)と語ります。全ての人間は死という限界の下に生まれ、死ねば体は分解されて「ちり」に戻ります。しかし、キリストの復活によって全ては変わった。「最初の人アダム(肉の人間)は命のある生き物となったが、最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった」(15:45)。
・パウロは死者の復活を種の喩えで説明します「あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(15:37-38)。植物の種は何もしなければ種のままに朽ち果てていきます。しかし地に蒔けば、やがて芽を出し、茎を伸ばし、花を咲かせます。種は一度土の中で死に、分解される(死ぬ)ことを通して、新しい体を形成していきます。しかし、最初の形(種)と次の形(花を咲かせる植物)は同じ存在です。人間でも同じように種(肉体)が死ぬ事を通して、植物(霊の体)が生まれていくとパウロは語ります「死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(15:42-44a)。パウロが語るのは死んだ体の復元ではありません。死ぬ事によって新しい体が与えられる、それがパウロの語る復活です。そしてこれを信じる時、人は「死を新しい世界への出発だ」と認識できます。
3.復活信仰と日々の生活
・今日の招詞にコリント15:54を選びました。次のような言葉です「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた』」。人間は死んだらどこに行くのか、誰もわかりません。イエスもパウロも死後の生については多くを語りません。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「現在与えられた生を懸命に生きよ」と教えます。これが聖書の知恵であり、私たちは聖書に書いていないことを想像力たくましく語ることは控えるべきです。例えば「天国と地獄」は人間の想像の賜物であり、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という発想は聖書の考え方ではありません。人間の想像するような天国や地獄はないのです。
・同時に「霊魂不滅」も、聖書的な考え方ではありません。日本人の死生観は「肉体は死んでも魂はあの世に行き、里帰りする」というものです。「千の風になって」というアイルランドの歌が日本でも広く受け入れられたのは、この霊魂不滅という考えを共にするからです。この考え方は日本人の情緒に訴えますが、何の根拠もなく、単に人間の願望(死というこの世の別れを経験しても、霊魂として愛する者たちとの再会を願う)を反映したものに過ぎません。しかし、パウロの語る「朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る」ことには根拠があります。すなわち「キリストが復活され、彼は眠りについた人たちの初穂となられた」(15:20)からです。そしてキリストの復活は「ケファに現れ、その後十二人に現れ・・・次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ・・・最後にパウロにも現れました」(15:5-8)。つまり、多くの目撃証言に支えられている出来事なのです。
・柏木哲夫さんの言葉を再度振り返りましょう「人は死を背負って生きている」、「人は生きてきたように死ぬ」、そして「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来る」。柏木さんの言葉は経験的真実です。そして「キリストは眠りについた人たちの初穂となられた」というパウロの証言は目撃証言的真実です。キリスト者はこの経験的真実と目撃証言的真実を基礎に、復活の希望を持つのです。復活の希望を持つ故に、死を受け入れることが出来ます。死を受け入れることの出来ない人は語ります「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(15:32b)。そこには刹那的な生き方しか生まれません。しかし死を受け入れることの出来た人は語ります「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(15:54b-55)。キリスト教信仰は「死への恐怖」から人を解放します。この解放にみなさんも招かれています。