江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年3月16日説教(マルコ10:13-16、幼子のようであれ)

投稿日:2014年3月16日 更新日:

1.幼な子を連れて来た人々をいさめる弟子たち

・マルコ福音を読んでいます。今日の箇所は10章13節から始まる短い箇所ですが、「救いとは何か」という信仰の根本問題を扱う大事な箇所です。テキストは「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた」という言葉で始まります。イエスが町々村々で為された癒しの評判を聞いた親たちが、イエスに祝福していただくために子供たちを連れて来ました。どの親も子供の健やかな成長を願います。イエスは神の力が働いているとしか思えないような数々の不思議な業を為されて来ました。親たちはそれを見て、イエスの祝福をいただければ、子供たちが元気に成長できるのではないかと考え、子供たちを連れてきたのです。子供たち、おそらく母親に抱かれた幼な子たちでしょう。しかし弟子たちは、「この人々を叱った」(10:13)とマルコは記します。
・幼な子を連れて来た人々を、弟子たちはたしなめました「今、先生は大事な話をしておられる。どうすれば神の国に入ることができるかを話しておられるのだ。子供が騒げばうるさくて先生の話が聞こえないではないか」。親たちはたじろぎました。同じような出来事は現代の教会でも起きています。牧師が説教をしている、小さい子供たちが教会堂の中を走り回って騒いでいる。うるさくて話が聞こえない、静かにさせてくれないか、会衆は母親をにらみ、にらまれた母親は小さくなる、そして来週は教会に来るのを止めようと思う。この会堂を立て直す前には私たちの教会でも起こったことで、今でも多くの教会で起きている出来事かも知れません。小さい子供を連れて新幹線に乗った母親が、「子供が騒いでうるさいから降りてほしい」と言われたとか、「子供を公共の場に連れてくるな」と怒鳴られたという話が新聞やネットに載っていました。弟子たちの対応は普通の大人の対応かもしれません
・しかし、イエスはそのような弟子たちを見て「憤られた」とマルコは記します。「憤る」と訳されている言葉は“agnakteo”で、「叱る」よりもはるかに強い、「激昂する」、「激怒する」という意味があるそうです(荒井献「イエス・キリストの言葉」p258)。イエスは本気で怒られたのです。何故ならば、弟子たちがイエスのもとに来ようとしている子供たちを妨げたからです。私たちが、教会堂で子供が騒いでうるさい時、その母親をたしなめるのも、本当は同じ行為なのだと聖書は語ります。母親は毎日の子育てで疲れている、その疲れをいやす為に教会に来て言葉をいただこうとしている。しかし、子供が騒ぎ、みんなからにらまれて、母親は話を聞くどころではない。母親を妨げているのは私たちです。子供を排除するのではなく、うるさくても良いから子供たちであふれている教会を造りなさい。イエスはそう言われていると思います。

2.幼な子のようにならなければ

・「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(10:14)とイエスは言われます。子供たちは戒めを守ることも出来ません。しかし戒めを守ることが出来ない故に、それを守って自分の力で救われようとはしない。だから彼らは神の国に入ることが出来るとイエスは言われます「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(10:15)。幼な子は自分一人では生きていくことが出来ない無力の存在です。しかし同時に、彼らは「親は自分を愛し、守ってくれるはずだ」と無条件に信じています。ここに幼な子の強さがあります。同じように神への無条件の信仰、信頼こそが神の国の扉を開くのだとイエスは言われます。
・大人はこの幼な子の強さを持ちません。大人は、誰かに支えてもらうことは恥ずかしいことだと思い、自分の力で生きて行くべきだと思っています。そのため、自分を守ってくれるお金と権力を持とうとします。より多くのお金とより高い地位があれば安全と思い、現代的に言えば良い学校に入り、良い勤め先で働き、家柄の良い人と結婚することが幸せになる道だと考えています。しかし、救いとはそのようなものではないことはご存知の通りです。人生には予想もしない出来事が起こり、理由のわからない不条理もあります。3.11の大地震で家族を無くされた人々の悲しみはお金や権力では癒せないのです。
・神の救いは人間の業績に応じて与えられるものではなく、必要に応じて与えられます。だから助けを必要としている小さな者たちにこそ、神の国が約束されるのです。「幼な子のようになる」とは、自分の弱さを認め、助けなしには生きていけないことを認めることです。大人は自立しようとして、かえって自分自身と他人を傷つけています。奢り高ぶる人は自分が愛されていないのではないかという恐怖心を持っており、その恐怖心が奢りとして他者に対する強がりとなります。神を信じることの出来ない人は人を信じることも出来ないから、他者は常に自分の競争相手、何時自分を蹴落としてとって代わるかも知れない存在になり、彼らは神の平安から放り出されるのです。自分が弱いことを認め、その弱い存在のままで神に受けいれられている事を認める時、その弱さが強さになります。それが幼な子の強さであり、それが神の国に入る唯一の道であるとイエスは言われています。それがイエスの次の言葉に示されています「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(10:15)。

3.神の国への道を狭めるな

・今日の招詞にマルコ10:23を選びました。次のような言葉です「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』」。イエスの下にある人が走り寄って来て尋ねました「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(10:17)。この人は「たくさんの財産を持っていた」とあります(10:22)。金持ちで何不自由もないと見られていた男性がイエスの所に来て、「何をしたら救われますか」と問いかけてきました。イエスは彼を試すために言われます「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(10:19)。「神が与えて下さった戒めを守れば救われるとあなたが考えるならば、守ったらどうか」とイエスは言われます。金持ちの男は答えます「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10:20)。
・「守ってきましたが、救いの実感がないのです」と男は答えます。イエスはその彼に驚くべきことを言われます「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」(10:21)。「売り払いなさい」、「施しなさい」、という言葉で彼の問題点が浮き彫りになります。彼は自分の救いのために一生懸命に努力してきましたが、その中に「他者」という視点が欠けており、自分の救い、満たしのことだけを考えていた、だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「今持っている全てを捨てなさい」と命じられたのです。しかし彼はあまりにも多くを所有していましたので、イエスの言葉に従えませんでした。マルコは書きます「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(10:22)。
・立ち去る若者を見て、イエスは言われます「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(10:23)。前の「幼子のようになりなさい」というイエスの言葉と合わせて読むと、イエスの真意が浮かび上がってきます。幼子は何もわからないから、ただひたすら自分に与えられる恵みを受け取ろうとする。そのような人は神の国に受け入れられる。他方、熱心に戒めを守り、そうすることで救いを勝ち取ろうとする者は救いから外れる。ここに福音の真理があります。青年は財産があるから救われないのではなく、自分の力で救いを買えると思ったから、神の国から閉めだされたのです。仮にこの青年が「全てを捨てることは出来ません。でもあなたに従いたいのです」と訴えたら、イエスはそれを喜んで受け入れられたと思われます。
・自分の力に頼って救いを求めた時、それは挫折します。救いは恵みであり、ただ受ければよいのです。幼子がなぜ「神の国を受け入れる者」と言われているのか(10:15)、何も持たないから、「ただ受ける」しかないからです。イエスは言われました「人間に出来ることではないが神には出来る」(10:27)、金持ちの青年はお金や才能があったばかりに自分の力に頼り、「人には出来ない」という場所で引き返してしまいました。もし彼が、「神には出来る」という信仰でイエスの下に留まれば、神の国を見ることは出来たのです。
・イエスは「何を食べようか、何を飲もうかと言って思い悩むな。天の父はこれらのものがあなた方に必要なことはご存知である」と宣教され(マタイ6:31-32)、救いとは「父なる神に全てを委ねて生きることだ」と言われました。神は私たちを既に救っておられる、だから私たちはその救いをただ信じて、それにふさわしい人間になりたいと願えば良い。山上の説教でイエスは続けられます「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。この神に対する無条件の信頼が「信仰」です。私たちは「信じる」から救われるのではなく、救われているから「信じる」のです。教会は弱い者が助けを求めていく所だという考え方が日本にはあります。確かに、教会は自分が弱く、神の助けなしには生きることが出来ないことを知っている人たちが、集まる場所です。私たちは自分が弱いことを恥とは思いません。「私は弱い時にこそ強い」(2コリント12:10)、パウロが語るように、自分の弱さを知る者だけが、神によって強くされるのです。それが幼子の強さなのです。

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