江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年2月2日説教(ヨハネ11:28-44,私を信じる者は死んでも生きる)

投稿日:2014年2月2日 更新日:

1.ラザロの死

・ヨハネ福音書を読んでおります。今日、お読みしますヨハネ福音書11章は、「ラザロの復活」として知られて場面です。イエスがヨルダン川のほとりで人々を教えておられたところに、ベタニア村のマルタ、マリアの姉妹から、「弟ラザロが重い病気で死にそうだから、すぐに来てください」との使いがありました。「早く来て弟を助けて下さい」という要請です。しかし、イエスはすぐには出かけることが出来ず、2日後にベタニア村に向かわれました。イエスがそこに着かれた時には、ラザロは既に死んで4日が経っていました(11:17)。
・ラザロの姉マルタはイエスが来られたと聞き、迎えに行きますが、会うなり、恨み言を言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(11:21)。「もう少し早く来てくだされば、弟の命は助かったでしょうに」とマルタは言いました。その言葉には、イエスがいたら治してもらえたという信仰と、弟が死んだ以上この方でも何も出来ないという絶望の気持ちも混じっていました。そのマルタにイエスは言われました。「あなたの兄弟は復活する」(11:23)。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました(11:24)。当時のユダヤ人は人が死ねば陰府に行ってそこに眠り、終末の時が来れば復活すると信じていました。だからマルタはそのように答えました。「終末の時が来れば」、「いつかは」、非常に漠然とした復活信仰です。日本人も、親しい人が亡くなった時、その人は天国で私たちをも見守ってくれており、死ねば天国で再び会えると漠然と信じています。これも一種の復活信仰かもしれません。
・しかし、イエスが言われたのは、「今、現在のよみがえり」です。イエスは言われます「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25-26)。「死んだ者を生き返らせる力を持つ者がここにいる。あなたはそれを信じるか」、「死もまた神の支配下にあることを信じるか」と問われたのです。マルタは「あなたが神の子であることは信じています」(11:27)と答えますが、イエスの問いには正面からは答えていません。彼女は弟ラザロがいつかはよみがえるだろうが、今ここでよみがえるとは信じていません。死んだ者が生き返る、そんなことが起こったとは聞いたことが無い。ここに、死が私たちにとって大きな障壁、絶望として、立ちはだかります。死は全てを終わらせる、人間にとってはどうしようもない悲しい定めであり、私たちはそれを受け入れることしか出来ません。しかし、愛する者の死は私たちには矛盾と不可解の出来事です。「何故、あの人が死ななければいけないのか、こんなに若く、こんな形で」、人はそこに不条理と無念を覚えます。死は人間にとって最大の、そして最後の敵(1コリント15:26)なのです。

2.ラザロの復活

・その私たちに、イエスは言われます。「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」。ラザロの姉マルタは、「はい」と答えましたが、実は信じることができていません。ラザロは死んでもう4日も経ち、遺体は腐り始めているのです。葬儀や埋葬の時、私たちは亡くなった人をしのんで泣きます。死んだ人が、もう私たちの手の届かない世界に行ってしまったからです。イエスは「泣く必要はない」と言われました。しかし、マルタが泣き、妹マリアもまた悲しみに打ち負かされている様を見られ、イエスは心に憤りを覚えられました。死が依然として人々を支配しているのを見て、憤られたのです。そしてマルタに言われました。「墓の石を取り除きなさい」。マルタは答えます。「四日も経っていますからもうにおいます」(11:39)。イエスはマルタを叱責されます。「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」(11:40)。人々が石を取り除いたのを見ると、イエスは墓に向かって呼ばれました。「ラザロ、出てきなさい」(11:43)。死んで葬られたラザロが、手と足を布で巻かれたままの姿で出てきました。
・この物語は歴史的にあった出来事なのでしょうか。聖書学者の間でも意見が分かれています。ドイツで、ある牧師が子供の葬儀でこの箇所を説教した折、遺族から反論があったことが伝えられています。「イエスが『ラザロよ、出て来い』と叫ばれた時、ラザロは死んで4日も経っていたのに墓から出てきたと言われます。私は自分の子のよみがえりを必死でイエスに祈りましたが、子どもはよみがえりませんでした。どうしてですか」。私たちはこの問いに応える責任があります。私個人はこの記事は、伝承を元にヨハネが編集して物語化したのではないかと理解しています。多分、ある人がイエスにより死の病から癒された、あるいはよみがえったという伝承があり、その伝承と共にヨハネに伝えられていたルカ福音書の伝承と合わせてヨハネが編集したものであろうと。その根拠は、「マルタとマリア」はルカ福音書に出てくる姉妹であり(ルカ10:38-42)、「ラザロ」もルカ16章19−31節に登場する人物であり、それ以上にヨハネ11章における主役はイエスとマルタであり、ラザロは脇役です。この物語はラザロの物語ではないのです。
・またヨハネはこの11章において、「命」に、「ゾーエー」という言葉を用いています。ギリシャ語の「命」には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあり、ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指します。ヨハネはここでビオスではなく、ゾーエー、人格的な命のよみがえりを問題にしているのです。ヨハネが強調したいのは、おそらくはラザロのよみがえりではありません。ラザロが仮によみがえっても、彼は再び死にます。ヨハネの時代、ラザロは既に亡くなっていたのでしょう。その程度のことは書くに値しない。そうではなくラザロのよみがえりを通じて、マルタとマリアが命(ゾーエー)である方キリストに出会ったことを彼は書いたのです。ヨハネの強調点はイエスの復活なのです。イエスはヨハネ福音書が書かれた70年前に十字架で死なれましたが、しかし今そのイエスは復活されてここにおられる。そのことをヨハネは70年前に起こったとされる伝承を用いて訴えているのです。

3.復活を信じる

・私たちはこの地上を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えていますが、真実は違います。全ての人が死にますから、この地上は生物学的には、「死につつある者の地」なのです。しかし、イエスを信じる時、状況は変わります。何故ならば、イエスがよみがえったことを通して、神は死者をも生かされることが示され、私たちもまた、死んでも生きる存在に変えられる希望を持つことが許されました。イエスを信じる時、この地上が「生ける者の地、死に支配されない者の地」に変わるのです。そして信じた時、私たちは死の束縛から解放されます。
・復活信仰はキリスト教信仰の確信です。パウロはコリント教会への手紙の中で次のように述べます「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリント15:14)。今日の招詞に1コリント15:20−22を選びました。次のような言葉です「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。パウロはこの復活信仰に活かされて生きました。ヨハネもこの復活信仰の中にありました。ヨハネの教会はユダヤ教からの迫害の中で、脱会者が相次ぎ、困難な状況にありましたが、復活されたイエスが共におられるという信仰によって、生き残ることが出来たのです。
・このラザロの復活は、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主題として用いられています。貧しい学生ラスコリニコフは、自分のように才能のある若者が極貧にあえぎ、何の将来性もない金貸しの老婆が沢山のお金を持っているのは不合理であるという思い上がった気持ちから、老婆を殺して金を奪います。しかし、良心に責められ、盗んだお金を使うことも出来ないでいる内に、娼婦ソーニャと出会います。彼女の部屋で、ラスコリニコフはヨハネ11章「ラザロの復活」の物語をソーニャに読んで貰います。それを聞いたラスコリニコフは、「どのような人の命も人が勝手に奪うことはできない。命は神のものである」ことを知り、自分の犯した罪をソーニャに打ち明け、自首し、シベリヤの流刑地に送られます。ソーニャはシベリヤまで彼について行きます。地の果てのような所で数年を過ごした後、復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていました。突然、ラスコリニコフは泣いてソーニャの膝を抱きしめます。「二人の目には涙が浮かんでいた。・・・愛が彼らを復活させたのである」とドストエフスキーは書いています。
・「愛が彼らを復活させた」、イエスの愛は、ラザロのよみがえりを通して、悲しみに沈むマルタとマリアの姉妹を復活させました。イエスの愛は十字架で逃げ去った弟子たちの前に再び現れることを通して、弟子たちの信仰を復活させました。イエスの愛はソーニャの信仰を通して殺人者ラスコリニコフを復活させました。イエスは言われました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。このことを信じるか」。復活の信仰とは、どのような状況に置かれても、私たちはやり直すことが出来るという再生を信じる信仰です。「このことを信じるか」。復活を愚かなこと、信じるに値しないこととして捨てることは簡単です。しかし、捨てても何も生まれません。私たちは全てを知っているわけではありません。この復活の出来事の中に真理があるのではないかと求め始めた時、そこに何事かが起こります。パウロは高らかに宣言します「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた』」(1コリント15:54)。

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