1.異言と預言は何が違うのか
・コリント書を読み続けています。先週、私たちはコリント13章「愛の讃歌」を読みました。そこにありましたのは、「愛の賞賛」ではなく、教会内の「愛の欠如」についての使徒の警告でした。「愛とは自分の救いを求めることではなく、隣人と共に生きるための配慮であることをあなた方はわかっていない」とパウロは語っています。14章に入りますと、その隣人への配慮の無さが、「異言を語る」ことへの関連で取り上げられています。異言、グラソリア、舌(グロッサ)から生まれた言葉、自己陶酔の中で発せられる言葉や叫びを指します。ギリシア世界では「密儀宗教」(ミステリア)が盛んで、神との交わりの中に神秘体験を求め、霊的興奮状態の中での叫びや声を、聖霊を受けたしるしとして誇り、その神秘体験をしていない人々を「聖霊を受けていない者」として侮蔑する傾向がありました。パウロはそれを聞いて怒り、「異言」の問題をここで取り上げています。
・異言は、今日でもペンテコステ派(聖霊降臨派)と呼ばれる教派では、信仰体験の極致として大事にされています。使徒言行録2章には、ペンテコステの日にイエスの弟子たちが、聖霊を受けて異言を語り始め、その異言を聞いて3千人が信仰に入ったと記されています(使徒2:41)。ペンテコステ派の人々は現代でも聖霊降臨のしるしとして異言が降り、病気治しの奇跡が起きると語ります。彼らは異言を賜物(カリスマ)として受け入れますので、「カリスマ派」とも呼ばれ、霊的興奮によるエクスタシーのために礼拝中に失神する人が出るほどです。
・パウロ自身も霊的体験である異言を賜物として受け入れています。パウロは「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」(14:18)とさえ述べています。しかし彼はそれ以上に、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(14:1)と語ります。預言とは今日でいう説教、御言葉の解き明かしのことです。預言もまた賜物であり、それは異言よりも大事であるとパウロは語ります。何故ならば、「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げる」(14:2-4)からです。
・異言、霊によって高められる心は大事です。知識は人を信仰に導きますが、人の信仰を養うものは霊です。信仰は永遠なる方とのつながりの中に形成されます。そこには現実的な事柄と、現実を超えた超自然的な事柄の双方が含まれています。「隣人を愛せ」とは現実的な教えですが、その理由として「隣人もまた神の子である」との理解は、神を信じない人には不思議な言葉になるでしょう。私たちは人間の現実を超えた「贖罪(キリストの十字架の死による救済)」や「復活(キリストの復活の命にあずかる)」を信じています。その信仰は理性で信じるというよりは、霊的にしか理解できない事柄です。ですからパウロは聖霊の賜物である異言を軽んじません。しかし、異言は個人の霊性を高めても、教会を創り上げる徳ではないと語ります「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」(14:5)。
2.霊と理性、それぞれの役割
・聖霊を受けるとは個人体験であり、他人の入れない世界です。だからパウロは「異言は個人の霊性を高めるが、教会の徳を高めない」と語ります。異言は外から見れば何を語っているかがわからないからです。6節以降にパウロはそのことを説明します「だから兄弟たち、私があなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか」(14:6-8)。そして語ります「同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう・・・だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人であることになります」(14:9-11)。
・「外国人=バルバロス」とは理解できない言葉を話す人々です。ラテン語でミサが行われても意味が理解出来なければ誰も「アーメン」とはいえないように、わからない言葉で語られても、その言葉は教会を形成しません。だからパウロは語ります「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」(14:12-13)。パウロは「私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(14:19)と語ります。しかし理性だけでは教会形成には不十分です。パウロは語ります「では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」(14:15)。
3.霊で祈り、理性でも祈る
・今日の招詞に1コリント14:39-40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」。パウロは教会の中では「異言よりも預言を求めなさい」と語りました。異言は本人にしかわからないからです。彼は語ります「仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません」(14:16-17)。造り上げる=オイコドメオーという言葉が14章に5回も用いられています(14:3,14:4,14:5,14:12,14:16)。パウロの判断の基準は、それが「教会を造り上げるか否か」です。
・教会を造り上げるものは、だれでもが理解出来る言葉です。理解できる言葉が語られた時、そこに神の業が働きます。パウロは「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(14:24-25)と語ります。福音の言葉は人に自分の罪を悟らせ、悔い改めに招き、そして神を賛美させます。それこそ私たちが教会に集い、礼拝を持つ理由です。
・しかしパウロは同時に「異言を語ることを禁じてはなりません」とも語ります。霊的な養いもまた教会は必要としているからです。先週の11月12日から14日にかけて、バプテスト連盟年次総会が天城山荘でありました。出席して改めて知らされたのは、日本国内の教会の疲弊です。連盟内には284の教会、41の伝道所、計325の教会・伝道所がありますが、そのうち礼拝参加者が10名に満たない教会・伝道所は26もあります。またこの1年で閉鎖に追い込まれた伝道所が7箇所もあります。地方教会の衰退の原因はいろいろあるでしょうが、その一つは教会の霊的力の低下ではないかと思えます。地方教会でも元気な教会はあり、一概に地方だからというのが教会衰退の理由ではないと思えるからです。では教会の霊的力を強めるにはどうしたら良いのか。パウロが語る「霊で祈り、理性でも祈る。霊で賛美し、理性でも賛美する」という言葉にヒントがあるような気がします。「韓国の教会は祈る教会、 台湾の教会は歌う教会であるが、日本の教会は議論する教会である」と言われます。日本の教会は神学研究には熱心であるが、祈りと賛美に欠けているために成長しない。私自身、聖書学を大学院で学び直してみて、「その通りだ」と思います。理性は人を信仰理解に導きますが、信仰を養う事はできないのです。
・韓国教会の多くは早天祈祷会を持っています。毎朝5時ないし6時に教会に集まって短い礼拝を持ち、各人が祈った後散会し、そのまま仕事に行くという形です。韓国のキリスト教徒の割合は国民の25%に上りますが、この韓国教会の成長を支えたのは、早天祈祷会だと言われています。日本でも早天祈祷やアシュラム(黙想会)を行う教会は多くの会衆を集めています。榎本保郎「聖書1日1章」は今治教会での早天祈祷会奨励を集めたものです。毎朝集まって祈る教会生活は、週1回の主日礼拝にしか集まらない教会よりも力を持つのは事実です。しかし現代の日本でそれを行うのは現実的ではありません。それを補うのが、家庭でなされる毎朝のデボーションであり、当教会でもこのような霊的養いの必要性を強く感じています。「霊で祈り、理性でも祈る。霊で賛美し、理性でも賛美する」、そのような教会形成をするために何をすればよいのか、これから執事会や教会総会の場で皆さんと話し合って行きたいと思います。今日の応答賛美を515番「静けき河の岸辺に」へと変えさせていただきました。説教箇所の変更に伴うものですが、この歌は海難事故で家族を亡くしたスパフォードという男性の書いた賛美歌です(原題「It Is Well with My Soul」)。人生の不条理の中で祈り続けた時、神の声が聞こえてきた、それを歌にしたものです。このような祈り、「霊で祈り、理性でも祈る」が求められていると思います。