江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年1月5日説教(ヨハネ2:1-11,清めから喜びへ)

投稿日:2014年1月5日 更新日:

1.水がぶどう酒に変えられる

・新しい年を迎えました。新年最初の礼拝で与えられました聖書個所はヨハネ2章「カナの奇跡」の物語です。「カナの奇跡」は、「水がぶどう酒に変えられた」奇跡で、ヨハネ福音書だけが記しています。ヨハネはこの出来事を「しるし」、イエスが「神の子である」ことを示された出来事と理解しています。この「水をぶどう酒に変えられた」出来事が、今日の私たちにどのような意味を持つのか、それが今日知りたい主題です。
・物語の舞台はガリラヤのカナ、イエスの生まれ故郷ナザレのすぐそばにある村です。イエスは30歳頃に洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、ガリラヤからユダの荒野に行き、ヨハネから洗礼を受けて、修行生活を行っておられました。しかしヨハネがヘロデ・アンティパス王に捕らえられたのを契機に、ユダからガリラヤに戻られます(マタイ4:12)。ヨハネによりますと、その時、四人の弟子(ペテロ、アンデレ、フィリポ、ナタナエル)が一緒でした(1:43)。故郷ナザレに戻って三日目、イエスは婚礼の宴に招かれて、カナに行かれます(2:1-2)。
・母マリヤは手伝いのために先に行っていたようです。恐らくは親戚の家の婚礼であったのでしょう。だから、マリヤは宴席の料理や飲み物についても心を配っています。当時の婚礼は1週間も続いたと記録されています。人々の生活は貧しく、日常は、肉を食べたり、ぶどう酒を飲んだりはしません。だから、婚礼の宴は楽しみの時であり、人々は飲みかつ食べるために集まって来ました。その席で主役であるぶどう酒が不足します。これは宴を主催する家族にとっては、一大事でした。マリヤも責任を分かち持つ者として困惑し、同じ席にいた長男のイエスに相談します「ぶどう酒がなくなりました」(2:3)。「どうしたらよいだろう」との相談です。それに対してイエスは言われました「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)。
・言葉尻を見ると、非常に冷たい感じがします。「私の時はまだ来ていません」、ヨハネ福音書における「私の時」は神の栄光の時を指します。イエスは「宴のぶどう酒を用意することが神の栄光とどう関係するのですか」と反問されたのです。しかしマリヤは落胆しません。息子は何とかしてくれると信じているからです。マリヤは召使たちに「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」(2:5)と言います。母の信頼の言葉がイエスの心を動かします。その家には大きな6つの水がめがあったとヨハネは伝えます。それぞれに2ないし3メトレステも入る水がめです。1メトレステ=39リッターですから、100リッターも入る大きな水がめです。それは「ユダヤ人が清めに用いるため」(2:6)でした。イエスは召使たちに「この水がめに水を満たしなさい」と言われ、水が満たされたのを見ると「それを汲んで宴会の世話役の所にもって行きなさい」と言われました。召使たちはその水がめから水を汲んで世話役の所に運んで行った所、それは最上のぶどう酒に変わっていました。世話役は花婿を呼んで言います「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわった頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(2:10)。水がぶどう酒に変わる「カナの奇跡」が起こったのです。

2.解放の出来事

・この話の中心は「水がぶどう酒に変えられた」ことです。しかも、その水が「清めの水」であったことです。この「清め」はユダヤ人にとって大事な律法の一つでした。マルコによりますと、「ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」(マルコ7:3-4)とあります。当時のユダヤ人は外から家に帰ってきた時、「不浄を受けたのではないか」といつも心配し、汚れを洗うために大量の清めの水を必要としたのです。
・ここに律法にがんじがらめにされた当時のユダヤ人の生活を、私たちは見ます。人々は身を清く守るために、汚れから遠ざかろうとしました。ユダヤ人は汚れた異邦人の家には絶対に入ろうともしませんでした。律法を守らない人と交わることも汚れであり、外に出るとそのような汚れた人と道ですれ違ったかも知れないから、手足を洗い清めた後でないと家にも入れない。また汚れた食べ物を気づかないで食べたかも知れない。彼らは、いつ罪を犯したかもしれないとして、戦線恐々として生活していた。だから、毎日の生活の中で大量の清めの水を必要としたのです。その彼らにイエスは言われた言葉をマルコは残しています。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:15)。本当の汚れは外からではなく、内から来る。汚れの掟から自由になりなさいと。
・私たちは「汚れる」ことを異常に恐れるユダヤ人をおかしいと笑います。でも、現代の私たちも「汚れる」ことを恐れています。私たちはいつ他人が自分の悪口を言うか、いつ自分が傷つけられるか、心配しながら暮らしています。学校でも職場で、最大の問題は人間関係のもつれです。評価の高い学校に入っても、いじめがあれば学校は地獄です。一流企業に入っても、人間関係の破綻から数年で辞める人が出ます。統計では、大学新卒者は3年以内に31%が辞めるそうです。絵のサークルに入っても、そこに自分の悪口を言う人がいるだけで、もう絵を学ぶことに喜びを感じることは出来ません。これは私たちの周りの、どこにでも起きている出来事です。私たちは「人間関係の牢獄の中」にいるのです。それは他から汚れることを恐れて、戦々恐々と暮らしていたイエス当時のユダヤ人と同じです。イエスはその私たちに言われます「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」、他者関係に振り回されることはやめよう、この信仰があれば人間関係は改善します。
・聖書において、婚礼の宴はしばしば「神の国の到来のしるし」として描かれています。神の国の祝宴のお酒が無くなるとは、「喜びの終焉」を意味します。だから母マリヤはそのような事態の回避をイエスに依頼し、イエスもそれに応えて水をぶどう酒に変えられました。「婚礼の楽しみを中断させることは父なる神の御心ではない」と思われたからでしょう。その結果、喜びは続きました。ここにイエスの信仰の姿勢が明らかになります。洗礼者ヨハネは裁きを予告して人々の悔い改めを求めました。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3:9)。それに対してイエスは言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。「喜びと祝福の時が来た、それを受け入れなさい」とイエスは言われたのです。「ぶどう酒は人の心を喜ばせるもの」(詩篇104:15)、父なる神はその喜びを配慮される方だ、だからイエスは「水をぶどう酒に変えられた」とヨハネは物語っているのです。イエスの教えは「禁酒禁煙」的な禁欲の強制ではなく、解放を告げる良き知らせなのです。

3.解放された私たち

・今日の招詞にローマ12:15を選びました。次のような言葉です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。この言葉は、「人と共感する時、人生は喜びにあふれる」ことを示しています。どんなごちそうでも一人で食べると美味しくない。しかし、他の人と一緒に、「美味しい」と言いながら食べると、本当に美味しい。みなさんもそのような経験をお持ちでしょう。イエスが婚礼の宴で水をぶどう酒に変えられたことは、イエスの生き方「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」を象徴するしるしです。
・ヨハネは「イエスが水をぶどう酒に変えられた」奇跡を述べたくて、この物語を福音書の中に書いたのではないでしょう。現代の私たちは、「水がぶどう酒に変わる」、そんなことがありうるのかと疑うでしょう。しかし当時の人々にとっては、それは驚きでも何でもなかった。当時、ローマで信仰されていたバッカス神は、「水を酒に変える」神として知られていました。またヨハネ教会の人々もイエスが神の子であれば、「水をぶどう酒に変える」ことくらいは出来たと納得したことでしょう。ヨハネが物語りたいのは奇跡ではなく、何故イエスが水をぶどう酒に変えたのかの「しるし」です。
・洗礼者ヨハネの信仰を見ましたように、人々はいつその律法を破るのではないかと心配していました。そのような人々にイエスは、「あなたがたの父なる神は、ぶどう酒がなくなって婚礼の宴が中断することを望まれない方だ」として、戒律違反を咎められる方ではないことを、身を持って示されたのです。マーカス・ボーグという神学者は「キリスト教のこころ」という本の中で述べます。「キリスト者の生活は救われるために、信じ、行わなければならないことに関わるのではない。むしろ既に真理であること、神が私たちを愛していることを知り、次にはその関係で生き始めることである」。福音は「守らなければいけない」信仰を、「祝福されている」信仰に変えていきます。そのことを弟子たちは信じた。ヨハネは物語の結末を記します。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)。しかしその場にいた他の人たちは信じなかった。奇跡は信仰の目を持ってでなければ見えないのです。
・イエスが私たちの生活の中に入って来られる時、いつでも「水がぶどう酒に変わる」ような、新しい出来事が起こります。そして、このような出来事を体験した者の生き方は変えられるのです。私たちもこのような体験を数多くして来ました。だから私たちは招詞の言葉を隣人に伝えるのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。この教会の交わりの中にあなたも招かれている、世の束縛から解放され、神の国の祝福に預かりなさい、それこそヨハネが伝えたかったことです。

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