1.くびきの預言
・エレミヤ書を読んでおります。今日はその三回目で、28章を読みます。エレミヤは紀元前626年、20歳の時に預言者として召命され、「北から災いが来る。悔い改めなければお前たちは滅びる」との知らせを、人々に告げるように命じられます。先週私たちが読みましたエレミヤ18章では、預言開始から20年が経っても北からの脅威は現実化せず、人々はエレミヤを偽預言者として嘲笑し、エレミヤが自信を喪失しながらもなお語り続ける記事でした。預言者は神からの召命によって起され、神から委託された言葉を語ります。それにもかかわらず、何の成果も出ないこともありうるという厳しい現実にエレミヤは直面しました。しかし、エレミヤは語り続けます。それからさらに10年が経ち、いよいよ北の大国バビロンがエルサレムに攻め入り、エレミヤの災い預言が現実になっていく状況下で、エレミヤ書28章が語られます。
・紀元前609年バビロンはアッシリアを滅ぼし、前605年にはエジプトにも勝利し、パレスチナはバビロン帝国の支配下に入ります。ユダ王国もバビロンに服従を誓いますが、やがて反乱を起こし、前597年エルサレムは占領され、ヨヤキン王や多くの指導者たちは、神殿財宝と共にバビロンに強制連行されます。その数は一万人とも言われ(列王記下24:14)、家族も含めれば数万人が捕囚となりました。第一次バビロン捕囚です。この時はユダが次の王を立てることが許され、エルサレム神殿も破壊されませんでした。新しく王となったゼデキヤは当初はバビロン王に使者を送り、自らもバビロンを訪問して忠誠を示しますが、国内ではバビロンへの服従を貫く和平派と、バビロンからの独立を目指す交戦派の対立が続き、次第に交戦派の力が強くなっていきます。
・そのような時代の変化の中で、エレミヤに「くびきを首にはめよ」との命令が神から与えられます。くびきとは首にかける木の枠で、牛や馬を複数頭用いる時の農業用具です。「くびきの横木と綱を作って、あなたの首にはめよ。そして、ユダの王ゼデキヤのもとに遣わされてエルサレムに来た、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ティルスの王、シドンの王の使者たちに伝言を持ち帰らせよ」(27:1-3)。ユダ王国はバビロンへの重い朝貢に苦しんでいましたが、他の諸国も同じで、彼らはエジプトの支援を背景に反バビロン同盟を結成しようとしていました。しかしエレミヤはバビロンこそ国家と民族に対する神の罰の器であり、バビロンに逆らうことは主に逆らうことだと反対します「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる・・・私は、これらの国を、すべて私の僕バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え・・・バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があれば、私は剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる」(27:4-8)。
・バビロンに従うことこそ、神の御旨だとエレミヤは語ったのです。そしてエレミヤはバビロン王ネブカドネザルを「主の僕」と呼びます。自分たちを苦しめている敵の王を「主の僕」と呼んだのです。これは国粋主義者には「売国奴」とさえ思える表現です。エレミヤは預言をゼデキヤ王にも語ります「首を差し出してバビロンの王のくびきを負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいであろうか」(27:12-13)。エレミヤは民にも語りました「主の神殿の祭具は今すぐにもバビロンから戻って来る、と預言している預言者たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らは偽りの預言をしているのだ』」(27:16)。当時の世界情勢を踏まえれば、大国バビロンに小国ユダが武力抗争をすることは無謀であり、それは国を滅ぼすことだとエレミヤは訴えたのです。
2.ハナンヤとの対決
・そのエレミヤの前に、宮廷預言者ハナンヤが立ちます。彼は交戦派に属しています「イスラエルの神、万軍の主は言われる。私はバビロンの王のくびきを打ち砕く。二年のうちに、私はバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、私はこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、私がバビロンの王のくびきを打ち砕くからである」(28:1-4)。第一次バビロン捕囚の折に、略奪された神殿祭具の返還と、捕囚となった王や指導者の帰還はユダの民全員の願いでした。その願いはエレミヤも同じでした。だから彼は言います「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように」(28:6)。しかしここで語るべきは人間的な望みではなく、神の言葉です。故に彼はハナンヤに反論します「だが、私があなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。あなたや私に先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」(28:7-9)。
・預言者たちは押し並べて、「戦争や災害や疫病」を預言します。それは人々の罪を指摘し、その罪の結果を見つめ、悔い改めを求めるからです。「悔い改めなければ平和は来ない」と預言者は語ります。「悔い改め無しの救済」を預言することは預言者の務めではありません。しかし人々が聞きたいのは「救済」の言葉であり、「祝福」の言葉です。ハナンヤはエレミヤが首にはめていた木のくびきを打ち砕き、誇って言いました「主はこう言われる。私はこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルのくびきを打ち砕く」(28:11)。民衆は熱狂してハナンヤを称賛したでしょう「彼こそ真の預言者だ」と。人々は自ら聞きたいことを預言する人を誉め称えるのです。エレミヤはその場から去りました。現在の私たちはその後の歴史を知っていますから、エレミヤこそ真の預言者でハナンヤは偽預言者だと考えますが、当時の人々は「エルサレム神殿があり、ダビデ王朝がある限り、神はエルサレムを守りたもう」と信じ、ハナンヤこそ正しいと信じたのです。
3.木に代えて、鉄のくびきが
・エレミヤは何も言わず立ち去りましたが、まさにこの瞬間にユダ王国の滅亡が決定的になりました。悔い改めることをせず、「木のくびき」をはずした者には、「鉄のくびき」が与えられると主はエレミヤに言われます「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木のくびきを打ち砕いたが、その代わりに、鉄のくびきを作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらの国すべての首に鉄のくびきをはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる」(28:12-14)。「鉄のくびき」とはエルサレムの徹底的な破壊であり、滅亡です。この出来事から6年後(紀元前587年)、バビロン軍は再び怒涛のようにエルサレムに侵略し、この度は王や王子たちは殺され、住民の多くは虐殺され、あるいは捕囚となり、残った者は奴隷として売られ、エルサレム神殿は燃え、市街は廃墟となりました。
・今日の招詞にルカ9:23-24を選びました。次のような言葉です「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」。徳川家康は生涯を振り返って「人の一生は、重荷を負うて、遠き道を行くが如し」と言い、親鸞は人生を海に例えて「難度海」と言ったそうです。人生は苦しみ悩みの波が絶えずやってくる海のようなもの、如何に生きようと苦悩からは離れられないと家康も親鸞も思いました。私たちもそう思います。人間にとって生きるとは重荷を負って歩むことであり、生きている限り重荷から解放されることはありません。その時、私たちの前に二つの選択肢が置かれます。重荷を苦痛と思って避けようとするのか、重荷は当然として喜んで担うかの二つです。多くの人は目前の重荷を避けようとして、より大きい重荷を負い込んでしまいます。木のくびきを外したいばかりに、鉄のくびきを背負い込むのです。
・バビロン捕囚とは歴史的に見れば、大国バビロンが小国ユダを征服し、その住民を捕虜として連れ去った出来事です。歴史上、ありふれた事件です。しかし、信仰の目で見れば、「神がバビロン王を用いてユダの民を懲らしめ」、「その懲らしめを通してユダを救われた」出来事です。国の滅亡や捕囚を通して、神の救いの業がなされているのです。くびき、あるいは人生の重荷もそうです。人間的に考えれば、ない方が良い。しかし、くびきを負わなければ、罪を見つめて悔い改めなければ救いは来ない。私たちはその真理を見つめる必要があります。
・イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われましたが、その場合でも、くびきは変わらずくびきであり、同じ重さです。しかし、イエスが共に担って下さることにより、くびきの意味が変わってきます。クリスチャンになれば病気が良くなるとか、災いが来ないということはありません。いくら信仰を持っても病気になる時にはなるし、死ぬ時には死にます。しかし、病気や死の意味を見つめ、祈り始めた時、状況が変わっていきます。「神は何故私に癌を与えたのか」、「神は何故家族の崩壊をもたらしたのか」、「何故このような」、その意味を私たちが見つめ、祈っていく内に言葉が聞こえてきます「病まなければささげ得ない祈りがあり、病まなければ信じ得ない奇蹟があり、病まなければ聴き得ない御言葉がある・・・病まなければ私は人間でさえもあり得なかった」(河野進・祈りの塔より)。ここには病気や死が呪いから祝福になっていく世界が示されています。だから私たちは「自分の十字架を背負って従う」ことを、義務ではなく、喜びとして受け止めるのです。