江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年6月9日説教(エレミヤ18:1-10、造られた存在として生きる)

投稿日:2013年6月9日 更新日:

1.陶工の家で神の言葉を聞いたエレミヤ

・エレミヤ書を読んでおります。今日はその二回目で、18章を読みます。エレミヤは紀元前626年、20歳前後の時に預言者として召命されます。エレミヤに与えられた預言は審判の預言であり、「北から災いが来る。悔い改めなければお前たちは滅びる」という内容でした。それから20年が経ちました。エレミヤは40歳になっています。長い間ユダ王国を支配していたアッシリア帝国はバビロンに滅ぼされ、世界史では覇権の交代がなされつつありますが、バビロンはまだユダの現実的な脅威にはなっていません。人々はエレミヤを嘲って言います「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい」(17:15)。「北から大軍勢が私たちの国に攻めて来て国は滅びるとお前は預言したが、敵は来ないではないか。モーセは言っている『その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない』(申命記18:22)。お前は20年間も私たちを騙してきた。お前は偽預言者だ」。エレミヤは激昂し、悔しがり、また落ち込み、そして主に訴えます「私を迫害する者が辱めを受け、私は辱めを受けないようにしてください・・・災いの日を彼らに臨ませ、彼らをどこまでも打ち砕いてください」(17:18)。エレミヤは彼を嘲笑する民への報復を求めています。預言者失格です。彼はもう預言者としての確信を失っています。その彼に、陶工の家に行けと内心の声が促します。それが今日の聖書箇所、エレミヤ18章です。
・エレミヤ書は記します「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶工の家に下って行け。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう』。私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた」(18:1-3)。陶工はろくろを廻して粘土の形を整え、器を造ります。エレミヤが見ていますと、出来上がった器に満足できない時、陶工は一旦それを壊して、新しい器を造り直し、気にいるまで何度もその作業を繰り返します。これは日常的な、ありふれた光景です。しかし、この出来事を見ていたエレミヤに、神の言葉が響いて来ました。エレミヤ書は記します「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉が私に臨んだ『イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちは私の手の中にある』」(18:4-6)。
・神はエレミヤに言われました「私は陶工であり、イスラエルは粘土だ。粘土を用いて何を造るか、あるいは何を壊すかは陶工の自由ではないのか。それなのにお前は私がイスラエルを滅ぼさないと言って文句をつける。それはお前が人々の物笑いになりたくないからだ。私がこの20年間、何故に災いをこの地にもたらさなかったのか、それはイスラエルの人々が悔い改めるのを待っていたからだ。お前にはそれがわからなかったのか」と言われたのです。
・その神の思いが次の言葉に現れています「ある時、私は一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が悪を悔いるならば、私はその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」(18:7-8)。この言葉はエレミヤが神の意図を完全に理解したことを示しています。神はイスラエルを救いたいのです。「出来れば滅ぼさないで救いたい。だからお前に預言させ、イスラエルの人々の悔い改めを待っていたのだ」と神は言われます。しかしイスラエルは悔い改めませんでした。悔い改めない民には裁きが与えられます。故に神は言われます「またある時は、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、私の目に悪とされることを行い、私の声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」(18:9-10)。

2.人間の運命と神の摂理

・エレミヤ18章は重要な真理を私たちに伝えます。すなわち「人間の運命は固定的、機械的に決定されるのではない」という真理です。人間の運命は既に決定していて変更できないようなものではなく、神に対して責任を持つ人間自身の自由な決断に委ねられているのです。私たちは罪を冒さざるを得ない存在ですが、その罪を悔い改めた時には赦されて、新しい運命が私たちを待ちます。悔い改めれば与えられるはずの災いは取り止められ、悔い改めなければその人の上に災いが降ります。何故ならば、神は一つの民を「抜き、壊し、滅ぼす」こともできますし、またその民を「建て、植える」こともおできになるのです。そこに神の摂理と人間の自由意志との関係があります。
・しかし、イスラエルの人々は悔い改めませんでした。11節以下の言葉がそれを示しています「今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい『見よ、私はお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ』」とエレミヤは語るように命じられます(18:11)。しかし人々は答えます「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」(18:12)。こうしてユダ王国は滅亡への道を辿ることになります。

・ユダ王国は滅び、指導者たちは遠いバビロンの地に捕囚となりました。エレミヤの預言から50年後、捕囚地バビロンに立てられた預言者は語ります「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか『何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない』などと」(イザヤ45:9)。そしてエレミヤから600年後、初代教会の伝道者パウロは、イエスを受け入れようとしないユダヤ人に警告します「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(ローマ9:20-21)。エレミヤの預言は彼の生前には誰も耳を傾けませんでした。しかし、後の人々はエレミヤの言葉を改めて聞き直し、立ち直る力を与えられたのです。

3.悔い改めこそ

・今日の招詞にサムエル記下12:13-14を選びました。次のような言葉です「ダビデはナタンに言った『私は主に罪を犯した』。ナタンはダビデに言った『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ』」。罪を犯して悔い改めたダビデに対して、預言者ナタンが言った言葉です。ダビデの犯した罪については、サムエル記下11-12章に詳しく書かれています。ある日の夕暮れ、イスラエルを統一して王となったダビデは、王宮の屋上から湯浴みする一人の美しい婦人を見ます。彼女は兵士ウリヤの妻バテシバで、夫ウリヤはアンモン人との戦いのために出征し、不在でした。ダビデは彼女を見て欲しくなり、王宮に呼び、彼女と寝て、その結果バテシバは妊娠します。人は得意の絶頂にある時、誘惑を受けます。ダビデに与えられたのは肉欲の誘いでした。
・バテシバの妊娠に困惑したダビデは、夫ウリヤを前線から呼び戻し、妻と寝させることによって自分の犯した悪をごまかそうとしますが、ウリヤは前線の将兵が戦いの中にある時、自分一人、家で妻と寝るわけには行かないと断ります。おそらくは王と妻との間に起こった出来事を知り、帰宅を潔しとしなかったのでしょう。ダビデの目論見は失敗し、彼はウリヤを前線に戻す時、上司である将軍ヨアブに手紙を持たせ、ウリヤを最前線に立たせて死なせるように命じ、その結果ウリヤは死にます。「罪は罪を生む」、姦淫が殺人にまで発展したのです。バテシバはやもめとなり、ダビデはバテシバを妻として宮殿に迎え入れ、彼女は男の子を生みます。この男の子は生まれてすぐに死にます。
・サムエル記はこの事実を淡々と述べた後、最期に記します「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(サムエル下11:27)、「主はナタンをダビデのもとに遣わされた」(同12:1)。ダビデの前に現れた預言者ナタンはダビデに一つの物語を語ります(同12:1-4)。それは、「多くの羊や牛を持つ豊かな男が自分の羊をつぶすのを惜しみ、一匹の羊しか持たない男の羊を取り上げ、それを客に出した」という話でした。ダビデは物語が自分に向けて語られていることに気付かず叫びます「そのような無慈悲なことをした男は死罪にされるべきだ」。ダビデにナタンは言います「その男はあなただ、あなたこそがその無慈悲なことをしたのだ」(同12:7)。この言葉の前にダビデは頭をたれ、告白します「私は主に罪を犯しました」。
・「私は主に罪を犯しました」、この言葉こそが人を回復させます。国の滅亡を経験した人たちもそうでした。エルサレムが破壊され、人々が廃墟の中で呆然としていた時に読まれた歌が哀歌です。その中に次のような歌があります「軛を負わされたなら、黙して独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」(哀歌3:28-30)。占領軍に打たれてよろめく詩人の姿があります。しかし彼はその痛さの中で知ります「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」(同3:31-33)。国の滅亡を通して彼等は悔い改めたのです。私が神学校を出て最初に赴任した教会を1年で辞めざるを得ない状況に追い込まれた時、信仰の友から与えられた言葉がこの哀歌でした。「十分に懲らしめを味わえ、何と冷たい言葉だろう」と思いましたが、時間が経つに連れ、「主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」という言葉に励まされ、再び牧師として立つ思いが与えられ、この教会に赴任し、それから12年が経ちました。
・神を信じる人とそうでない人は何が違うのでしょうか。共に罪を犯します。キリスト者は罪を犯した時、それを神に指摘され、裁かれ、苦しみます。そして苦しみを通して、神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。「その男が私である」と認めることが出来ないため、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから、償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きなのです。「私は罪を犯しました」と悔改めた時、神の祝福が始まることを聖書は繰り返し伝え、また多くの人がそれを体験して来ました。「恵みは裁きを通して与えられる」ことを、共に覚えたいと思います。

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