江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年3月31日説教(1テサロニケ4:13-18、復活の信仰に生きる)

投稿日:2013年3月31日 更新日:

1.イースターを迎えて

・今日、私たちは、イースター=復活祭の日を迎えています。復活祭はギリシャ語ではパスカ、元来はヘブル語ペサハ(過ぎ越し)から来ています。ユダヤの過ぎ越し祭り(ペサハ)の時に十字架で死なれたイエスが、三日目に復活されたことを喜ぶ日です。英語圏ではイースターですが、これは復活の喜びがゲルマン民族の女神(エオストレ)の誕生を祝う祭りと重なり、イースターとなったそうです。春の到来を祝う祭りですので、新しい生命の誕生を象徴する卵が食されるようになりました。さて、今日は、イースター本来の意味「復活」について、テサロニケ人への手紙から学んでいきたいと思います。パウロはテサロニケの人々に福音を伝えましたが、その福音とは「イエスの十字架の購い、イエスの復活、イエスの再臨」を中心にした宣教であったことが手紙の冒頭から読み取れます。「あなたがたは偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった。また御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(1:9-10)。「御子が天から来られる」、キリストの再臨です。現代の教会は、「十字架と復活」を中心に宣教しますが、初代教会においては、「再臨」、キリストが再び来られ、救いが完成することが、信仰の中核的な意味を持っていました。主の祈りで、私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、この祈りこそ再臨、神の国の完成を待望する祈りです。
・今日の教会では再臨信仰が語られることは少なくなりましたが、初代教会の人々は、自分たちが生きている間にキリストが再び来られることを、当然のこととして待望していたのです。ギリシャにありますテサロニケ教会の人々は同胞からの迫害という苦難の中にありましたが、主が再臨され、神の国が完成すれば、自分たちに栄光が与えられるという希望に生かされていました。ところが教会員の一人が再臨を前に死んでしまった。人々は動揺しました。再臨を待たずに死んだ者は、主の栄光=救いにあずかれないのではないか、自分も今死ねば救われないのではないかと、人々の間に不安が拡がっていきました。だからパウロは書きます「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(4:13)。
・信仰を持たない人々にとって、「死は嘆き悲しむ出来事」であり、「死は受入れるしかない」出来事です。当時の手紙には次のように書いてあります「死に対して私たちが出来ることはありません。だからあなたたちはお互いに慰めあって下さい」(NTD新約注解・パウロ小書簡P442)。信仰を持たない人にとって、死は救いのない絶望です。これは現代においても同じです。多くの人は死を全ての終わりと考えています。しかし、パウロは言います「イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4:14)。キリストが復活されたのであれば、キリストを信じて死んだ兄弟もまた復活する、キリスト者にとって死は終わりではない、それなのに何故嘆き悲しむのかと。
・パウロは死者の復活の出来事を次のように描き出します「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(4:16-17)。現代の私たちには受け入れ難い表現で記述されています、パウロはユダヤ教黙示思想の影響下で、再臨の神秘をこのように表明したのです。ピカソの「ゲルニカ」という絵があります。祖国スペインのゲルニカが爆撃されて多くの人が死んだ、その悲しみが誇張された牛や馬のいななきや抽象化された人の顔で表現されています。そのような誇張された、象徴的な表現でしか伝えられない真実があります。パウロの言葉も同じです。ですから私たちは、終末の時にこのような出来事が文字通り起こると考える必要はありません。このような表現を通してパウロが語るのは、「人が死ぬとは眠ることであり、最後の日に彼らは起こされる」ということです。

2.キリストの復活を信じることは、自分たちの復活をも信じること

・パウロの手紙を通して明らかになるのは、テサロニケの人々は主の再臨の前に死ぬことを恐れた、つまり彼らは主の救いを信じていても、その信仰の中に「死」を位置づけていなかったという事実です。「信仰によって生きる」ことを彼らは目指しましたが、死ぬこともまた信仰の中に含まれる事に気づきませんでした。だから死という現実が目の前に迫ってくると、動揺し、嘆き、悲しみました。これは私たちも同様です。私たちは死をどのように受け入れるか、です。多くの人々は「死とは霊魂が肉体を離れることだ」と考えて来ました。古代の日本人は、死んだ祖先の霊は山々に宿り、そこから子孫の繁栄を見守り、災いがあれば守ってくれていると信じていました。現代の日本人も親しい人が死ぬと魂は天国に行き、そこから自分たちを見守ってくれると考えています。「千の風になって」という歌があります「私のお墓の前で泣かないで下さい。私はそこにいません。眠ってなんかいません。千の風になって、千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています」。この歌は日本人の死生観に一致したため、多くの人に受け入れられました。
・しかし聖書の教える死は日本人の死生観とは大きく異なります。福音書は、イエスが十字架の上で「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んで行かれたと記し(マルコ15:34)、直前にゲッセマネの園でイエスが「私は死ぬばかりに悲しい」と苦悩されたことを記しています(マルコ14:34)。聖書はイエスが死を前に悶えて死んでいかれたことを隠しません。死はそれほど忌み嫌うべき出来事、恐ろしい出来事なのです。しかし、パウロは死を恐れていません。それは彼自身が復活のキリストに出会い、イエスが死からよみがえさせられたことを知っているからです。パウロはコリント人への手紙の中で述べます「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(1コリント15:54-55)。イエスの復活を通して、死の意味が変えられたというのが聖書の主張です。
・日本人の霊魂不滅の信仰は美しい信仰ですが、残念なことにそれは何の根拠も持たないし、私たちの生き方を変える力もありません。ですから、現代の私たちは死を正面から受け止めることができません。かつては人生50年であり、死がいつも隣にありました。しかし、人生80年になり、いつまでも生きるかのような幻想を私たちは持つようになりました。そして死を、「あってはならない」出来事として、日常から隠し、考えまいとするようになって来ました。しかし、死は厳然と存在し、それはいつか私たちにも訪れ、多くの人々はその時に慌てふためきます。
・それに対し、聖書の死に関する教えは根拠があります。それはイエスの復活という歴史上に実際に起きた出来事に根拠を置くからです。イエスの弟子たちは、「復活の主」との出会いを体験しました。パウロは証言します「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは・・・キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです・・・そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(1コリント15:3-8)。復活を経験した弟子たちは、イエスが復活された日曜日を「主の日」として集まり、礼拝をするようになりました。その礼拝が2000年後の今日も続いています。教会が形成され、2000年間礼拝が休みなく執り行われている事実こそが、「復活を信じる」根拠なのです。

3.復活の信仰に立つ

・今日の招詞として、1テサロニケ5:10−11を選びました。「主は、私たちのために死なれましたが、それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。パウロは死を眠りと表現します。「目覚めていても眠っていても」、生きていても既に死んだとしても、との意味です。眠るということは「目覚めて起きる時が来る」ことを意味しています。それが復活です。イエスが十字架から復活されたことが確実であれば、私たちが死から復活することもまた確実なのです。ですから、私たちは人生が死によって切断されるのではなく、死を通して続くことを信じることが許されています。
・現代は科学の時代です。私たちも科学的真理を信じます。その科学的心理とは証明可能な事実を指し、その結果、証明不可能な復活を信じることが難しくなりました。復活を信じることが出来なくなった現代人は、ますます死の束縛の中に捕われ、死はタブーとなって社会から隠されました。しかし死は厳然としてあります。人々は死の前に全く無力です。私たちは科学では説明出来ない出来事があることを認識する必要があります。復活もそうです。この科学の時代において、私たちは復活信仰を正しく理解し、時代に対応する形で語らなければならないのです。
・私たちは復活を信じます。それはイエスが生きておられることを知るからです。そして復活を信じる者は、この世の生に執着する必要がなくなります。この世で成功し、人から賞賛されることが人生の目標ではなくなります。復活を信じる者は、幼くして命を召された子どもたちの人生も無意味ではないし、志半ばで病に倒れた方々の人生も無駄ではないと信じることが出来ます。このような信仰を与えられた者は、病気で苦しんでいる人や、親しい人を亡くして悩んでいる人を助けることが出来ます。何故ならば私たち自身が既に死の束縛から解放されているからです。私たち自身の問題は解決済みであるゆえに、他者をどう慰め、どう励ますかが私たちの主題になります。
・アウグスティヌスはその著「神の国」で二つの愛を述べています「二つの愛が二つの国を造ったのである。すなわち、神を軽蔑するにいたる自己愛が地の国を造り、他方、自己を軽蔑するにいたる神への愛が天の国を造ったのである」と。復活の信仰に立つということは、神の国の住人とされた者として生きることです。それは自己愛から解放された生き方、自分のためではなく、他者のために生きる生き方です。そして教会は地の国の真ん中に立てられた神の国です。40年前にここに教会が立てられた、それは神が立ててくださった、そして今私たちはこの教会を拠り所にして、いまだ地の国にあって死の恐怖に震える人々に福音を伝えます。復活の信仰に堅く立って、この教会を形成することこそ、イースターに当たって、私たちが決意すべきことなのです。

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