江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年3月30日受難日礼拝説教(マタイ27:45~56、主イエスの受難)

投稿日:2013年3月31日 更新日:

1、十字架上の最後の言葉
 
・今日、私たちはマタイ福音書から、イエスの受難を学び、十字架の苦難を偲びます。イエスの受難物語はイエスが弟子たちと最後の食事を共にした「主の晩餐」から始まります。晩餐の席上、イエスはイスカリオテのユダの裏切りを見破ります。ユダは晩餐の部屋を出て行き、イエスと弟子たちは祈るためにゲッセマネの園に向かいます。そのゲッセマネで、イエスはユダが手引きした大祭司の手下に捕らわれ、大祭司カイアファの屋敷に連行され、裁判にかけられます。しかし、偽証ばかりで決定的な証拠はありません。それもそのはず、イエスの逮捕はユダヤ教指導者の妬みから出たことであり、イエス逮捕の法的根拠は何もなかったからです。
・しかし、ユダヤ人には死刑を執行する権能が認められていなかったため、彼らはイエスをローマ総督ピラトに引き渡します。しかし、ピラトもまたイエス有罪の証拠を得られません。イエスにはローマに反逆する意志はなかったからです。過越し祭りの時には、恩赦として囚人の一人を赦免する習慣がありました。そこでピラトは「イエスとバラバのどちらを釈放するか」と民衆に問い、民衆の責任において決着をつけようとします。民衆はイエスを「十字架につけよ」と感情的な叫び声をあげ、ピラトは祭司長や長老や群衆の圧力に迎合し、イエスを死刑に定めます。イエスは群衆から捨てられました。
・イエスの弟子たちはイエスが逮捕されると、恐ろしくなり、散り散りに逃げてしまいました。ただペトロだけは事の成り行きを心配して、大祭司の屋敷までイエスについて行きます。彼は最後の晩餐の席上、イエスに「どこまでも従う」と誓っていたからです。そのペトロもまた大祭司の屋敷で女中に見咎められると、急に恐ろしくなり、イエスを知らないと三度も否定します。そのとき鶏が鳴き、「鶏が鳴く前に三度私を否定する」というイエスの預言が現実となります。ペトロはおのれを恥じて泣き崩れます。イエスは弟子たちからも捨てられました。
・こうして、イエスは総督府の兵士たちに身柄を引き渡されました。兵士たちは、イエスを鞭で打ったうえ、十字架につけ、くじを引きでイエスの服を分けます。そして、イエスの頭上に「これはユダヤ人の王である」と書いた札を掲げてイエスを侮辱しました。十字架の近くを通りかかった人々は、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」と罵りました。祭司長や長老たちも「他人は救ったのに自分は救えない、今すぐ十字架から降りてこい」と侮辱します。一緒に十字架につけられた強盗までイエスを罵りました。イエスは周囲のすべての人から罵られ、侮辱され、イエスを弁護し、守ろうという者は誰もいなくなりました。イエスの孤独は深まりばかりでした。
・ロ−マの鞭打ち刑の残酷さが、今に伝えられています。鞭は数本の革紐に、金属片や動物の尖った骨が編み込まれ、金属片や骨が受刑者の肉を切り裂きました。十字架刑は、フェニキアからロ−マに継承された古代の処刑方法で、政治犯を処刑するために用いられていました。その刑は囚人を死ぬまで苦しめるのが目的で、手首と足に太い釘を打ちこまれると、腕が十字架の横木にそって伸ばされます。そのまま腕で体重を支えていると肩が脱臼し、呼吸が困難で息を吸い、吐く度に体を持ち上げねばなりません。長時間続けると、ついに体を支えることすらできなくなり、首を持ち上げることもできなくなり、窒息して死にます。
・今日歌われた聖歌400番「きみもそこにいたのか」は、その残酷な十字架刑を主題にしています。1節「主が十字架につくとき」、2節「釘を打ち込む音」、3節「血潮が流れるのを」と5節までの詩は進行順に十字架刑を描写しています。「きみもそこにいたのか」という歌詞が繰り返され、2000年前の十字架のイエスの苦難を、今、眼前にしているような臨場感を持たせ、聖歌400番は他に類をみない特長があります。
・マタイは十字架上でイエスが息を引き取る前に叫んだ言葉を「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とアラム語で記し、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」との翻訳を入れています。ある人々はこの箇所をイエスは詩編22篇の冒頭の句を詠まれることによって、最後の主への讃美「私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」(詩編22:30-31)を歌って死んでいかれたと解釈しますが、それは福音書が示す事実とは異なります。マタイは、「イエスは父なる神からも見捨てられて」、「全くの孤独の中で死んでいかれた」とここで記録しています。

2.神殿の崩壊

・マタイは、イエスが十字架上で息を引き取られ、父なる神から託された使命を果たされた時、神殿はその役割を終えたと記します。イエスが息を引き取られると同時に神殿の垂れ幕が、上から下まで真二つに裂けたと報告するのです。この幕は年に一度だけ大祭司が贖罪の血を捧げる時にのみ入るのを許されている至聖所と、一般の聖所を隔てる幕でした。神殿の幕がイエスの死と同時に裂けたのは、もはや、人は神殿に関わる祭儀制度に、縛られることなく、イエス・キリストの仲立ちにより、父なる神との交わりに入れる時代が始まったことを象徴的に示しています。イエスの死と復活から四十年後の紀元七十年に、エルサレム神殿はローマ兵により破壊され、役割を終えた神殿が再建されることはありませんでした。
・イエスの死と同時に奇跡が起こったとマタイは伝えます。地震で岩が裂け、墓が開き、死んでいた信者たちの多くが生き返ったと彼は記します。イエスの十字架の死が贖いとなり、死を打ち破り、人を新しく生かすことを象徴的に示すためです。それはまた、私たちが、死の力に支配されることなく、新しい命に生かされることを示しています。イエスの復活の恵みがすでに十字架死の場面で語られているのです。イエスの十字架死は、人を新たに生かす恵みの出来事だったと、次の54節で印象的に語られています。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。百人隊長はローマ軍の隊長で、彼と、彼の指揮下でイエスを十字架に架けた側の人々が、イエスの死とそれに続く一連の奇跡を目のあたりにして、変えられたのです。
・彼らは、イエスの十字架死を第三者として眺めていたのではありません。彼らはイエスを十字架につけた者たち、イエスにとって加害者なのです。総督官邸においてイエスに暴行を加えた者たちの仲間であり、十字架の下で主イエスから剥ぎ取った服をくじ引きにした兵士の仲間なのです。イエスの死はその彼らに、「本当に、この人は神の子だった」と言わしめたのです。十字架につけ、嘲っていた者たちが、最初の信仰告白をしていたのです。思いもよらなかった、全く新しい変化が、彼らの内に起こったのです。
・マルコ、ルカ、ヨハネ福音書では、この信仰告白をしたのは百人隊長一人となっていますが、マタイ福音書はこれを、「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」と複数の人々の言葉としています。そこには広い意味を感じます。イエスを十字架につけた人々、それは今ここに居る私たちも含まれるとマタイが言っているようにさえ思えます。彼らが、イエスの十字架の死を目の当たりにしたことによって、信仰告白へと導かれたように、私たちもイエスが、「私たちの罪のために、私たちの身代わりに、私たちの罪を背負い、十字架に架かられた」ことを知る必要があるからです。そして、この十字架につけられたイエスこそ、まことの神の子、救い主であると告白する者の群れが教会なのです。

3.東日本大震災と私たちの十字架
 
・今日、聖歌隊によって歌われた聖歌397番「とおきくにや」を思い起こします。この歌は、1923年(大正12年)9月1日11時58分に起こった大震災で被災した、アメリカ人宣教師J・�・マ−チンによって作られました。大震災の震源は相模湾中央海底で、震度はマグニチュ−ド7・9、関東全域と静岡、山梨に地震と火災の被害がありました。地震そのものは東日本大震災より小規模でしたが、東京市内では大火災が発生、約10万人が焼死、大きな被害となりました。聖歌397番に臨場感があるのは、この歌が大地震の余震が続く中で作られたからです。マーチンは避難所の明かりとして立てられた無数の蝋燭の火を見て、それが主の十字架のように見え、歌いました「遠き国や、海の果て、いずこに住む民も見よ、慰めもて変わらざる、主の十字架は輝けり。慰めもて汝がために、慰めもて我がために、揺れ動く地に立ちて、なお十字架は輝けり」。この歌は時代を経て歌い継がれ、東日本大震災の後も歌い継がれ、今日もこの場所で歌われました。歌が呼び起こす「十字架の光景」が人の心を動かすのです。
・東日本大震災から二年経ちました。この二年間に、私たちは地震から多くを学び、経験しました。その中で立ち止まり考えるのは、あのような災害に対しては、人間の存在は小さく、力は弱いということです。特に原子力発電所の事故については、当事者である発電所関係者さえそれを制御出来ないということがよく分かりました。人間は能力以上のものを造り出し、為す術なく行き詰まっているのです。私たちは快適な生活を維持するために原子力発電に頼り、それを人口過疎地である東北に造りました。万一の事故の時の被害の量を抑えるためです。東北の犠牲の上に首都圏の電力が供給され、しかもそれが万一の時には制御不能のモンスターであることがわかった以上、私たちは従来の考え方を転換する必要があります。イエスは弟子の条件を、「自分の十字架を背負って私について来る者でなければ、だれであれ私の弟子ではありえない」(ルカ14:27)と言われました。もし、その十字架が原子力を使わないことによる不自由な生活であるなら、私たちは従わなければならないでしょう。神は私たちを、破局を通して導かれます。今回の震災もまた神の導きです。震災の意味を、聖書を通して考えることの大事さを、今日の受難日礼拝の中で覚えたいと思います。

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