江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年9月8日説教(マルコ14:12-21、弟子たちの裏切りと赦し)

投稿日:2013年9月8日 更新日:

1.まさか、私では

・マルコ福音書の受難物語を読んでおります。イエスは過越祭を前にした日曜日にエルサレムに入られ、昼は神殿の境内で教え、夜は郊外のベタニア村のマルタとマリアの家にお帰りになっていました。木曜日、イエスは弟子たちとエルサレム市内に出かけられ、過越の食事を共に取られます。最後の晩餐として有名になった食事です。前日水曜日にはベタニア村で会食中のイエスに女性が香油を注ぐという出来事がありました(14:3)。その後、イスカリオテのユダはイエスを引き渡すために祭司長たちの所に出かけて行きます(14:10)。いよいよイエスの逮捕・捕縛が近づいている、そのような中で持たれたのが「最後の晩餐」です。
・マルコは最後の晩餐の物語を書き始めます「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った」(14:12)。過越祭の最初の日に、ユダヤ人たちは神がイスラエルをエジプトから解放して下さった記念として、「種無しのパンを食べ、子羊を屠って食べる」慣わしでした。弟子たちにイエスは謎のような言葉で答えられます「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい『先生が、弟子たちと一緒に過越の食事をする私の部屋はどこかと言っています』。すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために準備をしておきなさい」(14:13-15)。
・おそらくイエスは弟子たちと食事をとる準備をあらかじめされたものと思われます。イエスを捕らえようとするユダヤ当局の動きは活発化し、弟子の一人ユダがそれに呼応する動きをしていることをイエスは察し、残された時間は少ないと思っておられたからです。ですから、最後の時を迎える前に、今まで自分に従ってきた弟子たちに今後のことを話しておきたいと願われたのでしょう。ルカはイエスが「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」と言われたと記しています(ルカ22:15)。弟子たちはイエスが言われたに過越の食事を準備し、夕刻にイエスは12人弟子たちと共に食事の席につかれます。
・その最期の晩餐の席上でイエスは衝撃的な発言をされます「あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)。弟子たちは心を痛めて「まさか、私のことでは」(14:19)と代わる代わる言い始めたとマルコは記します。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「最期の晩餐」で有名な場面です。私たちはイエスを裏切って祭司長たちに引き渡したのはイスカリオテのユダだと知っていますので、弟子たちの言葉は異様に聞こえます。何故弟子たちは「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」とイエスが言われた時に、うろたえて「まさか、私では」とお互いに顔を見合わせたのでしょうか。やましいところがなければ憤慨して「私ではありません」と言うのではないでしょうか。

2.弟子たち全てはイエスを裏切った

・マルコはこの最後の晩餐の記事の直前に、「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」と記しています(14:10-11)。他の弟子たちもイエスの最期の時が近づいていることに薄々気付き始めています。しかし、彼らはユダと違いイエスを裏切る行為をしているわけではありません。それなのに何故、心を騒がせて「まさか、私では」と問い掛けるのでしょうか。それは彼ら自身もイエスを裏切りかねないと心のどこかで気付いているからです。
・事実彼らはこの後、イエスを裏切ります。晩餐を終えた後、一行は祈る為にオリーブ山に行きますが、そこでイエスは「あなた方は皆私につまずく」と言われます(14:27)。つまずく、イエスを見捨てて逃げるという意味です。それに対して弟子たちは憤慨して言います「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14:31)。やがて神殿兵士たちが来て、イエスを捕まえようとして来た時、弟子たちは皆「イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)。イスカリオテのユダはイエスを既に裏切る決意を決めていますが、ペテロやヨハネもこれからイエスを裏切るのです。弟子たちは、イエスから問われて、自分たちの中にイエスを裏切りかねない弱さを持っていることに気付きました。だから心が動揺して、「まさか私では」と問い掛けたのです。
・歴史的に言えば、イエスを十字架にかけたのはユダヤ教指導者たちであり、ローマの軍隊です。ユダヤの祭司長たちは彼らの宗教的権威に従わず、民衆に新しい教えを説くイエスを異端者として排除しようとしました。ローマ人たちは占領地ユダヤの民衆を惑わし、治安を乱す者としてイエスを排除しようとしました。イスカリオテのユダはその動きに積極的に関与しました。他の弟子たちはイエスを見捨てて逃げることで消極的に関与しました。イエスを十字架につけたのはユダであると同時に、ペテロやヨハネであり、彼らもユダと同罪なのです。最後の晩餐の記事はそれを私たちに告げます。

3.しかし罪人もまた赦される

・キリスト教会はユダを裏切り者として徹底的に糾弾してきました。マタイはユダが銀貨30枚でイエスを売り渡したと記します(マタイ26:15)。ヨハネはユダを「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」と書きました(ヨハネ12:6)。しかし、ユダは金ほしさにイエスを裏切ったのでしょうか。銀貨30枚、30デナリ、今日のお金で言えば20万円前後です。自分の師を裏切るほどのお金だろうかという思いが残ります。ユダはお金が欲しくてイエスを裏切ったのではないと思われます。では何故裏切ったのでしょうか。
・ベタニアの香油注ぎで女の行為を非難したのはユダだけで無く、他の弟子たちも同じでした。弟子たちは女に抗議することを通してイエスを諫めます「なぜ、こんな無駄遣いを許されるのですか」。しかしイエスは女の行為を肯定されました「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」(14:6)。この出来事から推察されるのは、弟子たちとイエスの考えの違いです。弟子たちはイエスに、「この世において、貧しい者が豊かにされ、支配者であるローマを追放してユダヤ人の理想の国」を建設するように期待していました。しかし、ベタニアでの出来事は弟子たちを失望させました。その直後からユダは積極的に動き始めています。自分たちの主張がイエスにおいてかなえられないと知った落胆が、ユダにおいては裏切りに、他の弟子たちにおいてはイエスを見捨てて逃げるという形で現れたのです。つまり、ユダも他の11人も同じなのです。それに気づいた時、このユダの裏切りと言うテーマが私たちのテーマになります。私たちも人を裏切り続ける存在なのです。だから「あなたたちの一人が私を裏切ろうとしている」と指摘された時、「まさか私では」と叫ばざるを得なかったのです。
・今日の招詞にルカ23:34を選びました。次のような言葉です「そのとき、イエスは言われた『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』。人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」。イエスが十字架上で自分を殺そうと槍を向ける人々に言われた言葉です。この言葉は信仰者にとって最後の救いとなる言葉です。人間は弱さの故に多くの過ちを犯しますが、イエスは過ちを犯さざるを得ない私たちのために十字架で祈って下さる。この祈りに支えられて人は人生をやり直すことが出来ます。
・後代の教会はユダを赦さず、「裏切り者』と罵りましたが、イエスはユダを既に赦しておられるように思えます。最後の晩餐の席上で、イエスはあえてユダの名前を特定せず、「私を裏切るものがいる」と言われました。他の弟子たちの心にも裏切りがあることを気づかせるためです。そして「人の子を裏切るその者は不幸だ」と言われました(14:21)。日本語ではこの言葉は呪いのように聞こえますが、原文のニュアンスは異なり、「ウーアイ、何と悲しい」というギリシャ語が用いられています。イエスはユダの罪を呪われたのではなく、痛みに感じておられるのです。21節後半の言葉「生まれなかった方が、その者のためによかった」という意味も、呪いではなく警告です。この言葉を聞いてユダがこれからしようとしている悪に良心のとがめを感じて欲しいとイエスは思っておられるのです。イエスはここで、「自分の無事よりも自分を殺そうとしている者の行く末を案じておられる」とマルコは伝えます。しかしユダはイエスの招きを拒み、過ちを自分で解決しようとして自殺しました。
・イエスを十字架につけたのはユダであると同時に、ペテロやヨハネであり、彼らもユダと同罪です。しかし、ペテロやヨハネはその後使徒となり、ユダは裏切り者と罵倒されるようになりました。両者の違いは裏切った後の行為です。ペテロは泣いて悔い改め、ユダは首をつって自分で清算しました。ユダの本当の罪はイエスを裏切ったことではなく、イエスの赦しを拒んだことです。
・しかしそのようなユダもまたイエスの赦しの中にあると思えます。大事なことは、ユダを裏切り者と非難することでは無く、そのユダさえもイエスの赦しの中にあることを知ることです。イエスを十字架につけたのは、ユダヤ教指導者であり、ローマ人であり、弟子のユダでしたが、同時に後に使徒と呼ばれるようになったペテロやヨハネたちでもあったのです。ペテロやヨハネがそうしたとすれば他ならぬ私たちもそうするでしょう。「まさか私では」という問いに対し、聖書は「あなただ、あなたがイエスを十字架にかけたのだ」と指し示します。聖書を自分たちに向けて語られている言葉として読む時、聖書の言葉は私たちに迫って来ます。罪ある私たちが、罪あるままに赦され、もうしてはいけないと諭された時に、私たちの生き方は変ります。教会はイエスの教えを守る正しい人たちの集まる場所ではなく、自分が罪人であることを知り、泣いて赦され、新しい生き方を探し始めた人たちが集まる場であることを、最期の晩餐の出来事は私たちに告げます。

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