江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年9月15日説教(マルコ14:22-26,主の晩餐を共に)

投稿日:2013年9月15日 更新日:

1.主の晩餐式の起源

・マルコ福音書の「受難物語」を読んでいます。イエスと弟子たちは、最後の晩餐を「過越しの食事」として祝いました。それはエジプトからの救済を祝って犠牲の子羊を屠って食する時です。最後の晩餐において、イエスはパンを取り、感謝してそれを裂き、弟子たちに与えられました。また杯も同じように弟子たちに与えられました。この最後の晩餐でのイエスの言葉「取りなさい、これは私の体である。飲みなさい、これは私の血である」を後の教会は深く覚えて、礼拝の中で唱和するようになり、それが今日の教会においても祝われる主の晩餐式となりました。今日は、最後の晩餐においてイエスが語られた言葉の意味を考えていきます。
・マルコは記します「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた『取りなさい。これは私の体である』」(14:22)。ヨハネによれば、イスカリオテのユダは食事半ばに既に席を立っています(ヨハネ13:30)。イエスは会食の席上でユダが悔い改めるように努力されましたが、ユダは聞かず、席を去ります。その悲しみの中でイエスは弟子たちのためにパンを裂きます。
・パンが配られた後、イエスは「杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた『これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である』」(14:23-24)。ユダヤでは「血」は契約の徴です。古代の契約は動物を二つに裂いて、当事者がその間を通ることによって成立しました。「契約を結ぶ」はヘブル語=カーラトですが、この動詞は、本来、「切る、切り裂く」という意味を持ちます。アブラハムは主と契約を結ぶ時、雌牛と雌山羊を二つに切り裂きました(創世記15:17)。切り裂かれた動物の間を通ることによって、もし契約を破るなら二つに切り裂かれてもかまいませんという同意を表わすためでした。血は契約の徴なのです。だからイエスは、「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」で言われたのです。
・この箇所はわずかに3節しかありませんが、そこにはイエスの万感の思いが込められています。聖書学者の加山宏路先生はこの箇所を次のように言い換えられます「私は私自身をあなた方に与える。今、私がここで裂いてあなた方に渡すパンのように、ほどなく十字架で引き裂かれようとする私の体を、いや私自身をあなた方に与える。これを私と思って受け取りなさい。私は十字架につけられて血を流そうとしている。イスラエルの先祖たちが裂かれた動物の間で血の契約を立てたように、私の流す血、それが私の契約の徴だ。あなた方に与えるこのぶどう酒のように、私は私のいのちをあなた方に与える」。
・「私自身をあなた方に与える」、イエスの言葉を弟子たちは忘れることが出来ませんでした。ですからイエス復活後の教会においては、最後の晩餐を記念する「主の晩餐式」が礼拝の中心になっていきました。原崎百子というキリスト者がおられます。1978年、肺癌のため43歳で亡くなられましたが、死後彼女の日記が公開され、「わが涙よ、わが歌となれ」として刊行されました。彼女は4人の子の母でしたが、幼い子どもたちに書き送ります「お母さんを、お母さん自身を、あなた方にあげます」。子の成長を見ることなく死んでいく無念さ、しかし神はこの子たちを見守ってくださるという信仰がそこにあふれています。イエスも志半ばで死んでいかなければいけない無念さと、それでも父なる神は弟子たちを守ってくださるという信仰の中に、「私は私自身をあなた方に与える」と言われました。この言葉はイエスが私たちに残された遺書なのです。

2.主の晩餐を通して新しい希望へ

・最後の晩餐におけるイエスの言葉は、私たちへの遺書と申しましたが、それは同時に私たちに希望を与える言葉でもあります。イエスは最後に言われます「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(14:25)。この言葉は、この会食こそ、弟子たちと取る最後の食事であるとの悲壮な覚悟を述べられたものですが、同時に死が終わりではなく、死を越えて神の国が来る、その時に「再び共に食卓につこう」という約束の言葉でもあります。死を越えた希望がここで語られています。
・多くの現代人は、今に忙殺され、将来を考えようとしません。ルカ14章の伝える盛大な宴会の譬えでは、日常生活の多忙の中で、主人が宴席(神の国の食事)に招待しようとしても、「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言い、ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言い、別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言いました」(ルカ14:18-20)。仕事に追われて宴会どころではない、神の国の話を聞いている暇はさらにないと人々は言っています。
・しかし彼らも、人間存在の根底的問題、「死」に直面した時は平気ではいられません。1985年8月12日、日航機が群馬県上野村御巣鷹山中に墜落し520名の方々が亡くなりましたが、28年立った今も遺族の方々は慰霊登山を続けます。彼らにとって事故は終わっていないのです。2011年3月11日の東北大震災では2万人の方が亡くなられましたが、遺族にとっては10年後も20年後も忘れられない日になるでしょう。死は人間の多忙さを越えた力で迫ります。しかし現代人は不幸なことに、死を越えた命を信じることが出来なくなっています。音楽評論家・吉田秀和氏は1995年に起きた地下鉄サリン事件殉職者を悼んで語りました「TVで地下鉄サリン事件一周忌ということで、殉職した職員を弔う光景をみた。実に痛ましい事件である。あの人たちは生命を賭けて多くの人を救った。年をとって涙もろくなった私はそのまま見続けるのが難しくなり、スイッチを切った。切った後で、あの人たちの魂は浄福の天の国に行くのだろうか、そうであればいいと思う一方で、『お前は本当にそう信じるのか』という自分の一つの声を聞く。そういう一切がつくり話だったとしたら、あの死は何をもって償われるのか。この不確かさの中で、彼らがより大勢の人の危難を防いだ事実を思い、私はもう一度頭を下げる」(朝日新聞、1996年4月18日夕刊、関根清三「倫理の探索」から)。
・人はみな死後の命を求めていますが、信じることが出来なくなっています。ある牧師は述べます「21世紀に生き、科学的知識の洗礼を受けて育った私たちが、物理的な身体の復活を信じるのはもはや困難である。しかし、自らの将来、死後の状態についての恐怖心は、むしろ強まっているのではないだろうか。多くの研究にかかわらず、人間の「死」についてはいまだ克服出来ていないし、克服することは不可能であろう・・・信じる者の復活という思想は、そのような現代人にとって慰めとなりうる」(前川裕「聖書、語りの風景」から)。「再び共に食卓につこう」、イエスのこの約束は信仰者の福音です。

3.主の晩餐を通じて想起すべきこと

・教会が主の晩餐式を執り行うようになった経緯については二つの流れがあるといわれています。一つは今日見ましたように、イエスと弟子たちの最後の晩餐を記念するものです。もう一つは、イエスが群集と共に取られた荒野の食事に起源を持ちます。イエスは集まった群集が食べるものもない状況を憐れまれ、手元にあったパンと魚で5000人を養われました。大勢のものが一つのパンを食する、今日で言えば愛餐の食事が、主の晩餐式になったと考える人もいます。初代教会では、最後の晩餐と、荒野での会食が一つになって、主の晩餐式が執り行われました。人々はそれぞれが食べ物を持って教会に集まり、礼拝の後共に食事をする、それを主の晩餐として行っていたようです。
・今日の招詞に、1コリント10:16−17を選びました。次のような言葉です「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。教会は神を求める人々が一つの心で集まり、互いに良いものを分け合うところです。みんなで一つのパンをいただくから、そこに大勢の人がいても、教会は一つになります。しかしコリント教会では、金持ちは金持ちで勝手に集まって自分たちの宴会を行い、貧しい人々を食事から除外しました。それは主の晩餐でも何でもないとパウロは手紙を書いたのです。私たちの教会では洗礼を受けた人も受けてない人も全て主の晩餐に招きますが、それは「皆が一つのパンを分けて食べる」という聖書理解から来ています。
・主の晩餐はイエスの死を覚えるだけでなく、その復活を覚える時でもあります。私たちは、信仰を持ってパンとぶどう酒をいただく時、復活の主が今ここに共におられると信じます。パンとぶどう酒は奇跡の食べ物ではありません。しかし、主が私たちのために死んで下さったことを信じる時、それは私たちを生かす恵みの食物になるのです。主の晩餐式は、キリストがやがて来られる、神の国がまもなく来ることを待望する時でもあります。パウロは言います「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:26)。
・イエスと弟子たちは最後の晩餐を「過越の食事」として取りましたが、過越とは主がイスラエルをエジプトの奴隷から解放して下さったことを感謝すると共に、全世界に散らされたユダヤ人が再び集められ、神の都エルサレムで民族の回復を祝うことを待望する食事でもありました。同じように、私たちも、主の晩餐を守るたびに、キリストが再び来られて、私たちの救いを完成させて下さる時を待ち望みます。私たちはなお肉の体を持ってこの世に生きています。この世においては、悪があり、裏切りがあり、涙があり、病があり、死があります。私たちは罪の責めから救われ、罪の支配から自由になりましたが、いまだ罪の存在そのものからは救われていません。神の国は、まだこの地上には来ていないのです。ですから私たちは、「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という主の祈りを晩餐式でも待望するのです。

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