1.自分を養う牧者を罷免される主
・エゼキエル書を読んでいます。エゼキエルは捕囚地バビロニアに立てられた預言者です。エゼキエルが預言者になった時(捕囚第5年、紀元前593年)、ユダ王国はバビロニアの支配下にありましたが、なおダビデ王の系統を継ぐゼデキヤが王位を継承し、エルサレム神殿も無傷で残されました。王と神殿がある限り、人々は国の回復を期待することが出来ます。故国ではバビロニアからの解放運動が盛り上がり、捕囚地の人々もエルサレムに帰れるのではないかと期待していました。その彼らにエゼキエルは「この地で落ち着いて暮らせ、それこそが神の御旨ではないか」と説きますが、捕囚民は聞かず、祖国に残った人たちと手を組んでバビロニアに反乱を起こし、その結果、前587年にはエレサレムの町は再度占領され、イスラエルは完全に滅ぼされました。エゼキエルはその知らせを捕囚地で聞きます「我々の捕囚の第十二年十月五日に、エルサレムから逃れた者が私のもとに来て言った『都は陥落した』と」(33:21)。エルサレムの陥落は、捕囚民にとって最後の望みの綱が切れたことを意味します。もう帰る場所が無くなったのです。その絶望する民に、エゼキエルは再び語り始めます。それが34章の羊飼いの預言です。
・エゼキエルは語ります「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」(34:2-4)。イスラエルが何故滅んだのか、それは民族の罪のためですが、より具体的には「自分を養う羊飼い」たち、すなわち国の指導者たる歴代の王たちが民のことを考慮せずに保身に走ったことに原因があったと預言者は語ります。王国末期のエホヤキム王はエジプトに朝貢するために民に重税を課しながら、自分の王宮は建て増しています(列王下23:35)。最後の王ゼデキヤはエレミヤの警告を無視し、エジプトと軍事同盟に走り、それが契機で王国の滅亡を招きしました。
・このような強欲な、あるいは無能な王のためにユダ王国は滅亡し、その民は散らされていきました。エゼキエルは語ります「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。私の群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、私の群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない」(34:5-6)。王は民を治めるために神によってその業を委任されています。しかし王たちがその務めを果たさず、民を散らした時、神は王たちに「お前たちを解任し、私自身が群れを養う」と宣言されたとエゼキエルは報告します「私は生きている・・・私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている・・・私は牧者たちに立ち向かう。私の群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。私が彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ」(34:7-10)。
・主は「自ら群れを探し出し、諸国から集め、世話をする」と言われます。具体的には散らされた民が再び集められる、すなわち捕囚からの解放がここに預言されています「牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。私は彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。私はイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。私は良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる」(34:12-14)。
2.主自らが牧者になられる
・エゼキエルは預言を続けます「私が私の群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。私は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公平をもって彼らを養う」(34:15-16)。国の滅亡をもたらしたものは王や指導者だけの問題ではなく、国民の問題でもありました。従って国民である羊自身も同時に裁かれます。肥えた羊は痩せた羊を、山羊は羊を圧迫し、自分たちのみが食べ飲み、仲間に分け与えようとしませんでした。その罪もまた裁かれなければいけないとエゼキエルは警告します。「私は羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く」(22:17)と言われます。何故ならば強い者たちは「牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回していた」、その結果「私の群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる」(22:19)。
・これは具体的にはエルサレム滅亡後の政治状況を示しています。バビロニア王は「シャパンの孫、アヒカムの子、ゲダルヤ」を総督に任命し、戦後のユダヤを委ねましたが、反対派の人々はゲダルヤや駐留していたバビロニアの兵士たちを暗殺し、ここにバビロニアとユダヤの信頼関係は完全に崩れ、ユダヤ本土回復の希望は砕かれ、捕囚民の帰還はそれから50年後にまで延ばされていきます。
・エゼキエルはもはやイスラエルの復興と回復を人に委ねることはできません。そのため、神自身がふさわしい方を、解放者メシアを贈ってくださると預言します。それが34:23−24の預言です「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主である私が彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる」。その後のイスラエルの歴史の中で、何度も「この人こそメシアではないか」と期待させる人が起されましたが、やがてその夢は消えていきました。それでも人々は「メシアが現れてイスラエルを救う日が来る」と期待し続けました。そして500年後、人々はダビデの子孫から生まれた一人の預言者、「ナザレのイエス」こそ、その人ではないかと期待をかけます。
3.エゼキエルの預言の成就としてのキリスト
・今日の招詞にヨハネ10:11-13を選びました。次のような言葉です。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」。イエスがご自身を「神からその業を委ねられた羊飼いである」と宣言された言葉です。このヨハネ10章の「良き羊飼いの物語」は、明らかにエゼキエル34章を背景にしています。エゼキエル34章では神が「自分を養う羊飼い」を退けられ、「民を養う真の羊飼い」を起こすことが預言されています。イエスは自分こそがその預言を満たす者との認識を持って、この話を語られたのでしょう。ヨハネ10章の二種類の羊飼いはそれに対応するものです。最初は「雇い人の羊飼い」、エゼキエル書で言えば「自分を養う羊飼い」です。雇い人は報酬のために働きます。彼の関心は報酬であり、羊ではありませんから、狼=困難な情況が来ると逃げてしまいます。エゼキエルの時代、歴代の王たちが国民の方を向かずに自分たちの利害に走った故に国が滅びました。イエスの時代、指導者たるべき祭司たちは、神殿で犠牲を捧げ、祭儀を執り行っていましたが、民のための配慮はしませんでした。もう一方の指導者であるパリサイ人たちも律法を守ることの出来ない人々を「罪人」として排除することによって、自分たちの正しさを証明して自己満足していました。いずれも「自分を養う」ことには熱心でしたが、「民を養う」ことはしませんでした。そのため、民は「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いました(マタイ9:36)。
・そのような状況の中でイエスは、自分こそ「良い羊飼い」だと宣言されます。良い羊飼いは自分の羊のことを気に掛け、羊のために命を捨てます。荒野では獣が羊を狙い、襲ってきます。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守り、そのために命を落とすこともあります。良い羊飼いの最大関心は自分ではなく羊ですから、羊のために命を捨てても悔いません。そしてイエスは実際に、彼の群れのために命を捨てられました。
・イエスが十字架で死なれた時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げましたが、復活後イエスは弟子たちに現れ、弟子たちを一言も非難せずに赦し、彼らに「私の羊を飼いなさい」と業を委託されます(ヨハネ21章)。この赦しと委託を受けて、弟子たちは伝道を始め、教会を建てていきました。それから2千年が経ち、この弟子たちの業を継承するのが牧師であると理解されてきました。牧師は英悟では“パスター”といいますが、この言葉は文字通り「羊飼い」を指します。しかし牧師だけにその任が委ねられていると考える時、牧師の言動に注目が集まり、「あの牧師は十分な世話をしてくれない」、「あの牧師は羊飼いとしてふさわしくない」とかの評論家的言動が多くなり、教会が内向きになりがちです。これはイエスが望んでおられることではないでしょう。
・私たちはイエスが誰に羊の群れを委託されたのかを、もう一度問い直す必要があります。イエスは弟子たちに、すなわち教会の群れに、羊を養うことを委託されています。牧師だけでなく、私たち一人一人が羊飼いに、牧者にされる必要があります。ルターが語った「万人祭司」とはそのことを指します。教会とは自分の救いを求めてきた人たちが(ゲスト)、他者の救いのために祈る者(ホスト)に変えられて行く場所なのです。そしてイエスは言われました「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(ヨハネ10:16)。この言葉は直接には、イエスがユダヤ人だけではなく、異邦人もまたご自分の羊だとの認識を持っておられたことを示します。しかし私たちがこの言葉を自分の生活の場で聞いた時、それは私たちが教会の群れの外にいる人たち、まだ福音を聞かされていない人々への責任を与えられていることを示します。
・執事に立てられた人々は自分も牧会者であるとの認識をお持ちでしょう。しかし、執事だけではなく、全教会員が、「私もまた牧会者として立てられている」との認識を新たにされた時、この教会は「神の国」になっていきます。神の国とは「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない」国です(イザヤ65:25)。異なった経歴や習慣を持った人々が集まり、そこに「主にある平和」が成立する世界です。教会の中には嫌いな人や性格が合わない人もいるでしょうが、その人たちのためにも「キリストが死んで下さった」(ローマ14:15)ことを思う時、共に働く事ができる場所になります。私たちが「私もまた牧会者として立てられている」との共通認識をもった時、この教会は神のための救いの器となりうるのです。今日はそのことを覚えたいと思います。