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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年4月14日説教(マルコ2:23-3:6,安息日は人のために定められた)

投稿日:2013年4月14日 更新日:

1.安息日論争

・4月はマルコ福音書を読んでいきます。今日読みますマルコ2章後半では、イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだためにファリサイ人たち咎められ、論争が起きたことを記しています。さらにマルコ3章前半では、イエスが安息日に障害のある人を癒したことで論争になります。中心主題はいずれも「安息日」です。当時のユダヤ人にとっては律法を守る、特に「安息日を守る」ことは大事な戒めとなっていました。しかし、イエスはあえてその安息日の戒めを破られた。それは何故か、そのことは現代の私たちに何を教えるのかについて、今日は学んでいきたいと思います。
・マルコ2章を読んで行きます。物語は、イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通って行かれた時、弟子たちが麦の穂を摘み、もんで食べ始めたことを、ファリサイ派の人々が咎めたことから始まります(2:23-24)。お腹がすいていたのでしょうか。当時の律法では他人の畑の麦の穂を摘んで食べることは許されていました(申命記23: 26)。「しかし、安息日には許されない」とファリサイ人は主張します。何故ならば麦の穂を摘むことは刈入れ、仕事をする事であり、「安息日には仕事をしてはいけない」という律法の規定に反するからです。
・安息日は、元来はイスラエルの農耕生活における休息日として設けられました。農耕は過酷な労働であり、休まないと体力を回復できない。だから「6日間働いて7日目には休みなさい」という、祝福としての安息日が与えられていました。出エジプト記は記します「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」(出エジプト記23:12)。安息日は「休んで元気を回復する」ための規定でした。しかし、規定が十戒に取り入れられると、次第に「守らなければいけない」規定となります。特にバビロン捕囚以降はユダヤ民族としてのアイデンティティを維持するために安息日と割礼が重視され、やがては「安息日を犯す者は殺されなければならない」(出エジプト記31:15)という厳格規定に変わっていきます。「休むことができる」規定が、「休まなければいけない」と意味を変え始めたのです。イエス時代の律法学者たちはこれを受けて、「安息日には仕事を一切してはいけない、麦の穂を摘むことも刈入れに当たるから禁止されている」と考えました。だから、ファリサイ人たちは、イエスの弟子たちが安息日に禁じられている仕事をしたと非難したのです。
・それに対してイエスは言われました「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(2:27)。イエスの時代、人々は安息日の戒めを厳格に守るために細かい規則を作りました。例えば,火をおこすこと,薪を集めること,食事を用意することさえも禁じられるようになります。ここに至って、安息日が安息ではなく、人を束縛するものになっていきました。イエスは「恵みとして与えられた安息日を、束縛と苦痛の日にしてしまった」ファリサイ人や律法学者の偽善を追求されているのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、これは当時の人々がびっくりする教えでした。「必要があれば安息日を破っても良い」とイエスは言われたのです。マルコはイエスの言葉をそのまま残していますが、後代のマタイやルカはこの言葉を削っています。あまりにも過激(ラディカル)と判断したためです。律法を守らせることを自分たちの使命と考えるファリサイ派の人々には、イエスの言葉は律法を軽視した、許すことの出来ない言葉でした。

2.イエスはあえて安息日に癒しをされる

・安息日破りはファリサイ派の人々にとっては許しがたい冒涜であり、彼等はイエスを背教者、異端の教師と見始めています。そのため、彼等はイエスが異端者である証拠をつかむために、安息日に片手の萎えた人を会堂に連れてきて、イエスがどうされるか見ようとします。マルコは記します「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」(3:1-2)。イエスはそれが罠であることを承知の上で、片手の萎えた人に言われます「真ん中に立ちなさい」(3:3)。そしてファリサイ人たちに言われました「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(3:4)。人々は何も答えません。ユダヤ教でも緊急の場合、例えば誰かが川に落ちた時に助けるとか、怪我をした人を介抱する等は許されていました。例外規定はあったのです。しかし、ここで「善を行うことか、悪を行うことか」と言われていますのは、例外規定ではなく一般規定でした。それはファリサイ人にとっては受け入れがたい、しかし反論もできない、だから彼等は黙り込んだのです。
・彼等にとって、片手の萎えた人の障害が癒されるかどうかはどうでも良いことでした。彼等はイエスがここでも安息日破りをされるかどうかに注目していました。人々の頑なな気持ちにイエスは怒り、また悲しみながら、手の萎えた人に言われます「手を伸ばしなさい」(3:5)。もしこの人が神を信じないで、またイエスに信頼しなかったなら、彼は手を延ばすことなく、その結果、彼の障害は癒されなかったでしょう。しかし彼は異様な雰囲気の中であえて手を伸ばし、彼の手は癒されました。会堂の中に感動と讃美の声が流れたと思われます。しかしファリサイ人は感動することなく、その場を去ります。マルコは記します「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(3:6)。彼等はイエスの律法破りの証拠を掴みました。これでイエスを大祭司に異端者として告発できると彼等は考えました。イエスは癒しが行われてざわめく会堂の中で、パリサイ派の人々の頑なさにため息をつかれたかもしれません。

3.私たちと安息日

・今日の招詞にマルコ12:29-31を選びました。次のような言葉です「イエスはお答えになった『第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない』」。律法学者の「あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうか」との問いに対して、イエスが答えられた言葉です。「神を愛することと隣人を愛すること」、これこそが律法の核心であるとイエスは答えられたのです。
・イエスは安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちを批判するファリサイ人に対して、「安息日は、人のために定められた」と答えられました。安息日の癒しを非難する人々に対しては「安息日に律法で許されているのは、善を行うことではないのか」と問いかけられました。イエスを動かしているのは神への愛と隣人への愛です。神は人間の休息のために安息日を設けて下さった、それを人は勝手に細かい規定を作り、煩雑にして、束縛の規則に変えてしまった。それは神の御心に反するのではないかと問われたのです。ファリサイ人たちも緊急の場合は安息日規定を破ることを認めていました。当時のラビは言います「人間の命を救うことは安息日を押しやる」。しかしイエスは更に一歩を踏み込まれます「安息日に行うべきは善か悪か」、父なる神は安息日も働いておられる、そうであれば安息日に善を行うことは、何もしないことに優るのではないか」。隣人愛の要求が律法に新しい命を吹き込んだのです。しかし、これはファリサイ人や律法学者には受け入れがたい要求でした。
・イエスは律法を犯すことが死の危険を伴うことを承知の上で、安息日に人を癒されました。イエスは自分の身を削って他者の命を救われました。このことは私たちに何を教えるのでしょうか。新約学者の荒井献はその注解の中で述べます「安息日は人のためにある。この安息日を法一般に置き換えたならば、現代にも通用する普遍的原理になるであろう。つまり『法は人間のために定められたものであって、人間が法のためにあるのではない』」(荒井献「問いかけるイエス」)。
・今、東北大震災からの復興が日本にとって緊急の課題になっており、政府も多額の復興予算を組み、その財源は復興特別増税です。ところが2011年度復興予算14兆円の内、当年度に支出されたのは8兆円に過ぎず、6兆円の予算が未消化になっています。それは予算執行の規定が煩雑で、予算を得るために膨大な書類作成が必要とされ、また申請しても書類不備、あるいは要件を満たしていないとして却下される事例が続出しているからです。例えば津波で壊れた市庁舎の改修には予算は使えませんが、国の出先機関の建物再建には使えるそうです。また予算が震災とは無関係な合同庁舎補強工事や道路工事の補強等に流用されています。法律の使い勝手が悪い、それは法律が被災者の方を向いていないからです。「法は人間のために定められた、人間が法のためにあるのではない」という普遍原理が無視されている事態が生じています。今日でも多くのファリサイ人や律法学者が国や県の機関にいて、震災からの救済を阻害している実態があります。
・また、4月11日朝日新聞天声人語では憲法改正問題を取り上げています「憲法は国家権力の乱用を防ぎ、国民の権利を権力から守るものだ。憲法はこういう国をつくりたいとか、特定の価値を宣言するとか、そういう思想書的なものではない・・・ところが自民党の改正草案は何かと国民を縛りたがり、『家族は互いに助け合え』(草案24条)などと個人の領域に手を突っ込みたがる」。「休むことができる」という安息日の規定が、「休まなければいけない」という禁止規定に変化したように、「家族は助け合うことが出来る」という道徳が、「家族は助け合わなければいけない」という禁止規定に変わり、収入のある家族のいる人は生活保護を申請できないような仕組みに変わろうとしています。「律法とは何か」というイエスの問いを、「法とは何か」という視点で考えた時、今日の課題になるのです。今日、私たちがイエスの弟子になるためには、「蛇のように賢く、鳩のように素直になる」(マタイ10:16)事が求められます。
・カール・バルトはその著書「教会教義学」の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」という表題の下に記し、さらに安息日を巡る問題を「祝いと自由と喜びの日」として書き始めています。このことは安息日の戒めが、私たちに自由を与える特別な日としての性格を持つことを示しています。日曜日を「礼拝を守らなければいけない日」と考えた時、それは私たちを縛る日になります。そうではなく、日曜日を「礼拝に参加することが出来る日」と受け止めれば、私たちの人生は豊かになるでしょう。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。この言葉はイエスが命をかけて戦い取られた福音であることを覚えたいと思います。

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