江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年9月30日説教(マルコ11:12-14,20-25,いちじくの木を呪う)

投稿日:2012年10月1日 更新日:

1.いちじくの木を呪う

・マルコ福音書を読んでおります。先週、私たちはイエスが「ろばに乗って」エルサレムに入城されたという記事を読みました。「平和のメシア」、「柔和の君」の象徴行為です。ところがエルサレムに入城されたイエスが最初に行われたことは、「実のなっていないいちじくの木を呪い、枯らせた」という記事です。柔和なイエスが本当にこのようなことをされたのか、私たちは不思議に思います。それに、イエスがエルサレムに入城されたのは、過越祭の時、3月から4月にかけての時期です。その頃、いちじくは葉が繁っていても実のなる時期ではありませんので、実のないのは当然です。いかに空腹とはいえ、実のなる季節でもないのにいちじくの実を取りに行き、実がないからといちじくを呪い枯らせるのは、理不尽ではないかと、だれもが思うでしょう。この不思議な話には何か理由があるはずです。今日はこの出来事を通して聖書の使信を聞いていきます。
・イギリスの哲学者バ−トランド・ラッセルもこの物語に違和感を覚えた一人でした。彼は随筆「わたしはなぜキリスト教徒とならないか」の中で、イエスがいちじくの木を呪う箇所を取り上げ、「聡明さの点でも、徳の高さでも、他の歴史上の有名な人ほど、キリストが高いとわたしは思えない」と、イエスが理不尽な行為をされたことを、彼がキリスト教徒とならない理由の一つとしています。ラッセルは「キリストは愛と寛容の人なのに、何の罪もないいちじくの木を呪い、枯らしてしまった」ことを不信の理由としているのです。バートランド・ラッセルはアリストテレス以来の知性をもった哲学者であるとの評価をうけた人ですが、それほどの人物でも、この「いちじくの木を呪う」物語の真意を理解できなかったのです。ラッセルほどの人が誤解するような不思議さがこの物語の中にあるのです。
・「いちじくの木を呪う」出来事は、イエスがエルサレムへ入城し、十字架に架けられるまでの一週間の間に起こった出来事の一つでした。マルコの「いちじくの木を呪う」記事は、15節からの「神殿清め」の話をはさんで、20節の「枯れたいちじくの木の教訓」へ続いています。マルコは「神殿から商人を追い出す」話を「いちじくの木」の話を中断して挿入しているのです。その理由は明かです。彼は、「いちじくの木を呪う」記事と、「神殿から商人を追い出す」記事を結合して、イスラエルの不信とその不信の結末を、より強調する構成にしているのです。「いちじくの木を呪う」記事では、実らなかったイスラエルの信仰を暗示し、「神殿から商人を追い出す」記事では、神に仕えるべき者が神に背いている背信の事実を示しています。両者とも「象徴預言」と呼ばれる行為です。つまり、イスラエルの不信を言葉だけでなく、行為で示すことによって、悔い改めを求める行動であり、「腹が立ったからいちじくの木を呪った」訳ではないのです。

2.神殿から商人を追い出す

・「いちじくの木を呪う」記事の直後にある、「神殿清めの記事」を読んで行きましょう。これも象徴預言としてのイエスの行動です。「それから一行はエルサレムに来た。イエスは神殿に入り、そこで売り買いをしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々にこう言われた。『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった』」(11:15-17)。
・並行のヨハネ福音書の記事はもっと過激です。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」(ヨハネ2:15-16)。神殿で贖罪に献げる動物は羊か山羊と定められていましたが、貧しい人々にはそれらは高価で買えず、代わりに値段の安い家鳩や山鳩を身代わりに献げて良いと定められていました。ただ、いずれの場合も犠牲の動物は、清く傷のないものとされていました。清く傷がないかどうかの判定は、祭司の権限に委ねられていました。そこに祭司と動物を商う業者が結託する隙間が生じていました。また両替は当時流通していたギリシャやローマの貨幣をユダヤの貨幣(シュケル)に交換するため必要で(外国の貨幣は汚れているため神殿に納めることは出来ないとされていました)、そこには大きな利ざやが生じていました。民に仕えるべき神殿祭司が犠牲獸の販売や両替という商行為を通して民から利益を貪っている、イエスはそのことを批判されたのです。
・イエスは怒りにまかせて、商人を追い払ったのではなく、商人を追い払うという象徴行為を通して、本来の神殿のありかたを示されたのです。それだけではなく、イエスはイザヤ書やエレミヤ書を引用して、聖所としての神殿のありかたを教えたのです。「『わたしの家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである』(イザヤ56:7)。『ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった』(エレミヤ7:11)」。しかし、この行為は命がけのものでした。神殿体制を批判することは当時の最高権力を否定する行為だったからです。事実、イエスはこの後に捕らえられ、裁判にかけられますが、その主たる罪状は「神殿冒涜罪」でした。
・いちじくの木の呪いは、いつまでも信仰の実を結ばないイスラエルに対する裁きを象徴する行為でした。神殿から商人を追い出したのも、本来なら信仰の指導者であるべき祭司が神殿を利用して利益を貪り、本来のあり方から逸脱していることを批判する象徴行為でした。実を結ばないいちじくの木を呪うことを通して不信仰の結末は神の裁きによる滅びであることをイエスは預言し、神殿崩壊の預言はたとえエルサレムに主の神殿があったとしても信仰がなければそれは崩れるとの預言でした。
・イスラエルの滅びの預言にいちじくの木が用いられたのは、いちじくがイスラエルを象徴する果物だからです。いちじくとぶどうは神の祝福の象徴でした。しかしその祝福に応答しない時、祝福は取り去れます。エレミヤもいちじくの木の滅びを預言しています「わたしは彼らを集めようとしたがと、主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは、彼らから失われていた」(エレミヤ8:13)。エレミヤの預言に続くものはバビロニア帝国によるイスラエルの滅びでした。有名なバビロン捕囚、紀元前587年の出来事です。

3.イスラエルの滅亡と復興

・今日の招詞にマタイ7:13-14を選びました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。祭司長や律法学者たちは自分たちの権威を保つことに汲々として、イエスの教えは耳にいれようともせず、ついには邪魔になるイエスを十字架にかけて殺しました。イエスの教えは彼らにとって狭き門でした。祭司長や律法学者たちは神の前に自らを低く謙虚になれなかった、ゆえにイエスの言葉は彼らの心に達しなかった、祭司長や律法学者たちは滅びにいたる広い門を選んだのです。
・やがてユダヤ人たちは武力で国土を解放するローマへの抵抗戦争(ユダヤ戦争)を始め、ユダヤ人は神殿に立て籠り、ロ−マ軍に抵抗したものの、紀元70年、ロ−マ軍に火を放たれて神殿は炎上し、数万人が犠牲として死にました。他方砂漠のマサダ要塞に立て籠って抵抗した1000名の強硬派も、74年に集団自決に追い込まれ、その後ユダヤ人はディアスポラ、離散の民となります。イエスが世を去ってわずか40年後のこと、「いちじくの木の滅び」と「神殿崩壊」の預言は現実となったのです。
・ユダヤ人にとって、この紀元70年の神殿崩壊は、1940年代に起きたホロコースト(民族の大量虐殺)と並び称される、忘れがたい歴史になっています。ユダヤ滅亡の地であるマサダは、今日ではイスラエルの永遠を祈る聖地になっています。イスラエル国防軍の入隊宣誓式はこのマサダで行われます。徴兵された男女が(イスラエルは男女徴兵制です)、訓練期間を終え、部隊毎に配属される時、次のような儀式が行われるそうです。「マサダが夕闇に包まれるころ、数百名の新兵がマサダ頂上広場に整列、周囲の松明が燃え上がる中、純白を下地にしたダビデの星を中心においた国旗を掲揚、続いて聖書ヨシュア記第一章の朗読(ヨシュアがモ−セの後継者として立てられる)、続いて一人一人が隊長の前に出て、右手に銃、左手に聖書を受け取り、胸に手を当て忠誠を宣誓します。終わると、全員不動の姿勢で軍楽隊に合わせ、国歌『ハテイクヴァ』(希望)を歌います。それとともに暗闇の中に火文字が浮かびあがります『マサダを繰り返すな』」。ユダヤ人は今もこのようにして、神から見捨てられた歴史を繰り返さないように記念しています。それは、二度と離散の民とならないためです。
・イエスはいちじくの木を枯らせて、実のならない信仰が滅びに至ることを教えました。しかしこれが象徴預言であることを忘れてはいけません。聖書にはもう一つの「実のならないいちじくの喩え」があります。次のような物語です「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(ルカ13:6-9)。私たちの信じるイエスは「実がならないいちじくの木を呪う」方ではなく、「何とか実がなるように取りなしの祈りをされる」方です。福音は呪いではなく、祝福なのです。バートランド・ラッセルが、このもう一つの「実のならないいちじくの物語」を知っていたら、彼はクリスチャンになったかも知れません。私たちは「呪いではなく、祝福を運ぶ」ために、今日ここに集められていることを、マルコ11章の記事を通して覚えたいと願います。

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