江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年10月7日説教(マルコ12:1-12、神と共に生きる生活)

投稿日:2012年10月7日 更新日:

1.ぶどう園と農夫の例え

・マルコ福音書を読んでいます。今日のテキストとして与えられたのは、マルコ12:1-12,「不実なぶどう園の労働者」の喩えです。イエスはガリラヤでの活動を終えられ、エルサレムに来られました。イエスがエルサレムに入城された時、民衆は歓呼して迎えました。「この方はメシヤ(救い主)」かもしれない、この方の力で自分たちの苦しい生活も良くなるかもしれない」と期待したからです。イエスがエルサレムで最初に行かれた場所は神殿でした。神殿では商人たちが犠牲として捧げる動物を売り、流通していたギリシャ・ローマの貨幣を献金用のユダヤ貨幣に両替する店を開いていました。イエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(11:17)として、商売をしていた人々を神殿から追われます。神殿を管理する祭司長たちは、イエスの行為に怒ります「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」(11:28)。それに答えてイエスが話されたのが「ぶどう園と農夫の喩え」です。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(12:1-5)。
・旧約聖書では、イスラエルはぶどう園に例えられます。この喩えでは、ぶどう園はイスラエルを、主人は神を、農夫たちはイスラエルの指導者を指します。神はイスラエルをご自分の民として選ばれ、契約を結ばれ、指導者たちに管理を委ねられました。時が経ち、イスラエルがどのように実を結んだのか、その収穫を求めて、神は僕=預言者たちを送られました。しかし、指導者たちは預言者の言葉を聞かず、これを追い出し、次には侮辱してたたき出し、最後には傷を負わせて放り出します。イザヤやエレミヤが預言者として送られ、悔い改めを求めたのに、人々は従わず、彼らを迫害したとイエスはここで言っておられます。
・ぶどう園の主人である神は考えられます。「今までは僕を送ったので、彼らが私の使いであることに人々は気づかなかったのだ。今度は私の一人息子を送ろう、この子なら彼らもよく知っているから、敬ってくれるに違いない」。そして、神はイエスを地上に送られました。しかし、農夫たちはイエスを見て、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」としてこれを殺そうとします。当時のユダヤでは農地のほとんどは大地主が所有し、農民は小作人として働いていました。小作人は収穫の一定割合を地主に支払う義務がありますが、農民たちは考えました「主人は不在だ。小作料を払わなくとも処罰されないだろう。主人はもしかしたら死んだのか知れない。そうであれば跡取り息子を殺せば、ぶどう園は自分たちのものになる」。そして彼らは「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか」(12:8-9a)とイエスは喩えを締めくくられます。この喩えは神殿祭司に向けて語られています。「あなたがた、神から委託された管理人であるあなたがたは今、神から遣わされた私を捕らえて殺そうとしているではないか」とイエスは言われているのです。

2.神なき世界の暴力

・指導者たちは「神が不在である、何も干渉されない」のを見て、自分たちの利益を貪っていました。神がいなければ中心になるのは人間です。そこではむき出しの自己利益追求がなされ、強い者はますます強く、弱い者は切り捨てられていきます。この喩えは2000年前のユダヤ教指導者たちに言われていますが、実は私たちに向けても語られています。今日の文脈で言えば、次のようになるでしょう。「あなたがたは食べ飽きて多くの食物を捨てているが、世界の他の半分は飢えている。シリアやイラクの人々が爆弾で死んでいる今日、あなたは何を食べようかと悩んでいる。働いても生活が出来ない人々がいてもあなたは無関心だ。東京には人があふれても、地方の商店街が消滅している事実を、気にかけようともしない」。そしてあなたはうそぶく「彼らは働かないから貧しいのだ、町が寂れるのは復興のための努力をしないからだ。彼らは怠け者なのだ」。しかし神は言われます「でもそうか、本当はあなたが彼らのことを配慮しないからではないのか。あなたもこの農夫たちと同じく、自分のことしか考えていないからではないのか」と問われているのです。
・そうです。私たちも神を見失っています。神の不在を良いことに、自分が主人公になろうとしています。自分が主人公になる時、私たちは他人のものを貪ります。その貪りが他者を傷つけ、争いを起こしています。ヤコブは言います「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(ヤコブ書4:1)。ぶどう園で働く農夫たちはぶどう園の所有者ではないのに、それを自分のものにしたいと願い、主人が送ってきた僕を袋だたきにして追い返し、最後には主人の一人息子を殺してぶどう園を自分のものにしようとします。これが罪です。罪とは自分が主人公になろうとすることです。その時、他者が見えなくなります。

3.神と共に生きる生活

・マルコ福音書では、イエスが人々に言われたとされる言葉が残されています「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ブドウ園を他の人たちに与えるに違いない」(12:9)。しかし、ここで疑問が出てきます。「十字架上で自分を殺す者たちのために祈られたと伝えられるイエスが、相手を裁き、その死を望まれるだろうか」との疑問です。文献学的に、聖書学者の多くは、9節後半以降はもともとのイエスの言葉にはなく、初代教会が自分たちの信仰の立場から書き加えたものであろうと考えています。「農夫たちは殺され、ぶどう園は他の者に与えられる」とは、イエスの死から40年後に起こった対ローマ武装闘争(ユダヤ戦争)でユダヤ側が敗北し、エルサレムが滅ぼされたことを暗示しています。この戦争でユダヤ側が敗北し、神殿が破壊されたのは、神のひとり子であるイエスを殺したことの報いであると教会は反論しているのです。しかしこの付加により、イエスが語られた事柄の真意が歪められています。イエスは祭司たちに悔い改めを求められましたが、その裁きは父なる神に委ねられました。しかし、弟子たちはイエスを殺したユダヤ人を裁き始めています。この教会によるイエスの言葉の書き換えが後のユダヤ人迫害(キリストを殺した民として)、そしてナチスのユダヤ人大量虐殺に繋がっていきます。イエスは福音を語られたのに、人がそれを裁きの言葉に変えたのです。
・同じく10節にあります「隅の親石」の言葉も注意して読む必要があります。今日の招詞に詩篇118篇22-25節を選びました。マルコが12:10で引用している詩篇の原文です。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを」。
・この詩篇は、元来は、バビロン捕囚を踏まえた詩です。神は罪を犯したイスラエルを罰するために、バビロニア帝国を用いて国を滅ぼされ、指導者たちを遠いバビロンに捕囚として連れ去りました。イスラエルは捨てられたように思えました。捕囚民はバビロンの地で悔い改め、涙を流しました。時が来て、神は、バビロンに囚われた人々を解放してイスラエルに戻し、新しい国の再建を任せられました。捨てられたかに見えた石を用いて、神はイスラエルを立て直されたと人々は讃美しました。先に言いましたように、マルコがこの詩篇を引用した意図は明確です。人々はイエスを役に立たない石として捨てますが、そのイエスを神は死から復活させられ、復活を通して、人々はイエスが神の子であることを知り、自分たちが神の子を殺したことに気づき、悔改めます。その時、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となる」のです。それは祝福の言葉です。
・私たちは神を見失って、むき出しの自我が対立する社会を作ってきました。私たちの社会は弱肉強食の暴力的な社会です。しかし、神はイエスの十字架を通して、「そうではない社会を造れ」と私たちに言われています。マタイ20章の「ぶどう園の労働者の例え」は印象的です。そこでは朝早くから働いた人にも、夕方から1時間だけ働いた人にも、同じ1デナリの労賃が支払われています。早朝から働いた人は文句を言います。人間の目からすれば当然の文句です。多く働いた人が多くのお金をもらうのがこの社会の原理です。しかし、農園の主人は言います「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。最後の者も家族を養うためには1デナリのお金が必要だ、私は彼にも生活できる賃金を支払ってやりたいのだと神は言われています。これが福音です。私たちはこの福音を現代社会の中で語る必要があります。今、最低賃金法の改正が国会で議論されています。現在の最低賃金法では、フルタイムで働いても月収10~12万円台にしかならず、生活保護世帯の基準以下の収入で、これでは生活が成り立ちません。神はマタイ20章を通して、あなたがた福音を聞いた者もこの問題に関与せよと言われているのです。
・私たちの生活の中に、日曜日の礼拝が差し込まれていることは、本当に恵みです。私たちは、週6日は競争社会の中で働きます。そこでは効率が優先し、弱肉強食の原理が働きます。しかし、教会に来れば、信頼を裏切った農夫あるいは祭司たちにも悔い改めの機会が与えられ、働けない労働者にも生きることが許されている社会があります。教会こそが本来の社会なのです。私たちは神なしの社会の暴力の中に身を置かざるをえませんが、日曜日には神の憐れみに接して、再び生きる力を与えられます。教会は私たちの生活の一部ではなく、私たちの本質に係わる場、どう生きるべきかを神から聞く場なのです。福音は私たちを自我あるいはエゴから解放する力を持っています。教会は、福音によって罪からの解放がなされ、自我が追放される場です。「牧師の言葉に傷ついたからもう教会に来ない」とか、「あの人は嫌いだから付き合わない」とかが議論される場ではなく、受けた恵みをどのように伝えていくのか、どうすれば私たちが相手の重荷を背負う者になることが出来るのかを聞く場所です。

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