1.マルタとマリア
・今週の聖書箇所「マルタとマリア」の物語は、先週の「善きサマリア人の例え」同様、ルカ福音書だけが伝える物語です。客をもてなすために忙しく働くマルタが、ただ座ってイエスの話を聞いているマリアを「叱って下さい」とイエスに呼びかけ、それに対してイエスが「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタをたしなめられる場面です。今日の聖書箇所は私たちに何を求めているのでしょうか、考えてみます。
・物語はイエスが旅の途中にマルタの家にお入りになることから始まります。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(10:38)。マルタ、マリアの姉妹はエルサレム近郊のベタニア村の住人であることがヨハネ福音書から知られています(11:1)。マルタにはラザロという兄弟もいて、イエスはこのマルタ、マリア、ラザロの兄弟たちと親しくされていたようです。ヨハネ福音書によればイエスは活動期間中、祭りの度ごとにエルサレムに上っておられますから、何度かベタニアのマルタの家に立ち寄っておられ、その中の一回で起こったことを、ルカはここに置いたと考えられます。
・彼女にはマリアという姉妹がいました。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10:39)とルカは記します。マリアはマルタの姉妹とあるだけで、姉か妹かは分かりません。しかし、ヨハネ11章に描かれている様子から、マルタは長女で、マリアはその妹、ラザロはその弟と推察されます。マリアはイエスの足もとに座って、イエスの言葉に耳を傾けていました。姉のマルタは、一行のもてなしのためせわしく立ち働いていましたが、イエスのそばに近寄って言いました「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(10:40)。マルタは長女で、おそらく既に両親が亡くなっていた家を取り仕切っていたのでしょう。彼女は一行をもてなすために台所で忙しく立ち働らいています。そのマルタが、イエスの足もとに座って話を聴いているマリアを見て、こう言ったのは当然の感情として理解できます。マルタは、「女は客が来たらもてなすのが仕事だ、姉の自分がこんなに忙しくしているのに手伝おうともしない」とマリアを批判したのでしょう。もしイエスの足元に座って話を聞いていたのが弟のラザロであれば、マルタは何も言わなかったかも知れません。「男は台所仕事をする必要はない、しかし女であれば手伝うべきだ」とマルタは考えたのでしょう。
・それに対してイエスは答えられました「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:41-42)。イエスが「マルタ、マルタ」と名を繰り返して呼んでおられるところに、マルタに対する思いやりが感じられます。イエスはマルタの働きを評価しながら、同時に彼女に大事なことを教えようとされます。イエスの答えの中心は「多くのこと」と「ただ一つ」の対照です。この世界での生活が要求する「多くのこと」と、神が求められる「ただ一つ」のことの対照です。私たちは世で生きていく限り、生活するための多くの思い煩いがあり、心を乱すことが山ほどあります。しかし、私たちが神から恵みと祝福を受けるために必要なことは「ただ一つ」、神の言葉を聴くことだけなのです。イエスは、この神の言葉を語る者として、生活の中での思い煩いの中にいるマルタを優しく諭されます。
・イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているわけではありません。問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない姿勢だと言えます。当時の社会では、男女の役割には明確な区別がありました。宗教的な勤めは第一に男性がすべきことであり、女性は神に仕える男性に奉仕することが要求されたのです。このようなことを考えると、マルタは当時の女性として当然の役割を果たしていたのに、マリアのように座ってラビの話を聞くことは女性としては普通ではないことになります。イエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護しています。このイエスの自由さが男女の役割分担に縛られ、人との比較の中でしか自分や妹を見ることのできなかったマルタにとって、解放されるための「福音」だったのではないでしょうか。
2.必要なことはただひとつ
・福音書の二重構造に私たちは注目する必要があります。ルカはこのマルタの記事を通して、当時の教会のあり方を批判していると思われます。マルタは「イエスを家に迎え入れた」、マルタの家はイエスを迎え入れたことによって、救いが来ているのです。今ルカを通してイエスの言葉を聴いている人たちは、福音の使者を迎え入れることによって復活者イエスを迎え入れ、キリストの救いを体験し、「家の集会」に集まっている人たちです。この家の人たちにイエスは言葉を語られます。「家の集会」は、「主の食卓」と「御言葉を聴く」営みから成っています。当時の「主の晩餐式」は単にパンとぶどう酒をいただくだけでなく、実際の食事をしました。ところが、集会の一部の人は、「食卓」の準備に忙殺され御言葉を聞くことが出来なかった。食事の支度をするのは多くは女性です。女性がもてなしのために御言葉を聞くことができない、それは教会の在り方としておかしいとルカはここで警告しています。無くてならぬものはただ一つ、神の言葉を聴くことですから、誰からもその機会を取り上げてはなりません。女性を含むすべての人が十分に御言葉を聴く機会が与えられた上で、飲食のことが準備され、交わりが楽しまれなくてはなりません。私たちの教会でも食事の支度はほとんど女性が行い、男性はそれを当然のように受け入れていますが、本当はどこかおかしいのです。
・イエスの言葉は、現代の私たちに語りかける「主」の言葉です。主は、多忙な生活の中で、「多くのことに思い悩み、心を乱している」私たちに語りかけておられます。主は言われます「本当に必要なことはただ一つだけである」。マリアがイエスの足もとに座って、イエスが語られる言葉にじっと耳を傾けたように、私たちも、すべての営みに優先してただ一つの「無くてならぬもの」、すなわち神の言葉に耳を傾け、言葉に生きることを学ばなければなりません。どのように忙しくても、やるべきことがどれほど多くても、それを理由に御言葉を聴く機会を取り上げてはなりません。すべての人が、イエスを通して語られる神の言葉を聴いて、その言葉に生かされるようになることが、この多忙な現代社会に生きる人たちに必要なことなのです。
3.幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人たちだ
・今日の招詞にルカ11:28を選びました。次のような言葉です「しかし、イエスは言われた『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」。イエスが病人をいやされるのを見たり、神の国の奥義を語られるのを聞いたりしたガリラヤの民衆は、イエスの存在に圧倒されて賞賛を惜しまなかったことでしょう。その中から一人の女性が感動のあまり、賛嘆の声を上げました「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(11:27)。胎と乳房は子を宿し、産み、育てる、女性だけの器官です。偉大な人物を産み、育て、世に送り出すことは、女性の誇りです。イエスのような人物を産み、育て、世に送り出した母親に対して、女性としての幸せを賛嘆する声が、女性の中から湧き上がります。しかし、そのような女性の幸いに対する賛嘆の叫びに対して、イエスは別の幸いを指し示されます。それが今日の招詞の言葉です。
・すべての女性に胎と乳房はあります。しかし、それがあるからといって、すべての女性が幸いであるとは限りません。イエスはどの女性でも幸いであるうる道を指し示されます。「神の言葉を聞き、それを守る人」です。それはどのような境遇の女性にもできます。子がない女性、子の反抗に苦しむ母親、不幸な結婚に苦しむ女性、結婚していない女性、その境遇や状況にかかわらず、「神の言葉を聞き、それを守る」ことはだれにでもできます。そのことがイエスは幸せだと言われたのです。
・私たちはなぜ、日曜日、せっかくの休日に教会に集まるのでしょうか。神の言葉を聞く為です。そして教会では神の言葉が語られます「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。それにもかかわらず、社会の中では男女間に差別があります。教会も伝統的に牧師は男性で、彼は御言葉の学びに専念し、教会の雑事は女性である牧師夫人が行うことが暗黙の了解になって来ました。私たちの教会の現実もそうです。でも実はそれはおかしいのです。また日本には女性牧師は少ないという現実があります。女性が御言葉を語ることに拒否感を持つ人々が多いからです。私たちもまた、主の足元に座って御言葉を聞くマリアを排除しているのです。
・その排除が極端になれば、「女性教職は認めない」という南部バプテスト連盟のようになります。南部バプテスト連盟では2000年発表された新しい信仰告白で、「女性教職の任職禁止」を打ち出しました。根拠となった聖書箇所は第一テモテ2:11-15です「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」。このような言葉が聖書の中にあることに私たちはどう考えるべきでしょうか。テモテ書はパウロの弟子が書いたと言われていますが、イエスの時代から二世代、三世代と下るに従い、教会が保守化し、その中で書かれた言葉です。私たちは聖書が神の言葉であることを信じます。同時に聖書は人間によって書かれたものであり、それゆえに時代の制約を受けることを認識して読むべきです。その解釈において、イエスの言葉、イエスの教えのフィルターの中で御言葉を聞く必要があります。その時、マルタに「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われたイエスの言葉が浮かび上がってきます。イエスは男女の伝統的分業意識から自由でした。だから私たちも自由である必要があります。パウロは「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。そこではもはや・・・男も女もありません」と言いました。だから私たちも伝統的役割分担から解放されて、男女の新しい在り方を模索する必要があることを、「マルタとマリア」の物語は教えているのです。