江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年1月22日永眠者記念礼拝説教(ヨハネ11:17-27、死後の生命)

投稿日:2012年1月25日 更新日:

・今、日本では人口の高齢化が進行し、そのために多くの問題が生じています。60歳問題、70歳問題、80歳問題です。60歳問題とは、老後を支える年金や医療をどうするのかという問題で、各種年金の統合や医療費の抑制等、社会保障が中心議題になっています。次の問題は70歳問題で、長生きに伴って発生する寝たきりや痴呆の問題をどうするのか、誰が介護し誰が費用を負担するのかという問題です。この二つに比し、80歳問題はあまり騒がれていません。80歳問題とは、死をどのように受容するかという問題です。60歳問題、70歳問題はお金で解決可能であり、何とかなります。しかし、最後の80歳問題は、解決の方法が人間の知恵では見つからないという意味で深刻です。
・人間は必ず死にますが、死んだ後どうなるのかは誰にもわかりません。誰も経験したことがなく、死んだ人は戻ってこないからです。わからないけれども、避けて通れない問題であり、また現在をどう生きるかを左右する問題でもあります。死で全てが終わると考える時、私たちは現在を楽しむしかないですが、死は必ずきますから、いつかの時点でそれは重い課題となります。他方、地上の生が終わっても、新しい生が始まるのだと信じる時、死を超えた人生のあり方、現在を生かされているとの希望を持ちます。誰もが、肉体の死を超えた永遠の命を求めていますが、それがあるのかどうか、信じきることが出来ません。それが問題です。死後の命はあるのか、聖書の語る永遠の命を私たちは信じることが出来るのか。ヨハネ福音書「ラザロの復活」の話を通して、それを学んでみたいと思います。
・イエスはエルサレムから離れたヨルダン川のほとりで、人々を教えておられました。そこに、ベタニア村のマルタ、マリアの姉妹から「弟ラザロが重い病気で死にそうだから、すぐに来て欲しい」との連絡があります。ベタニア村はエルサレムの近郊にあり、移動に時間がかかり、イエスがベタニアに着かれた時、ラザロは死んで4日が経っていました。マルタはイエスが来られたと聞き、迎えに行きますが、会うなり恨み言を言います「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)。この言葉には、イエスがいたら治してもらえたという素朴な信仰と、死んだ以上はこの方も何も出来ないという絶望の、双方の気持ちが混じっています。そのマリアにイエスは言われました「あなたの兄弟は復活する」。旧約聖書には「終末の時に神の審きがあり、正しい者はよみがえる」との信仰がありますから、マルタは言います「終わりの日に復活することは存じております」。私たちも、親しい人が亡くなった時、その人は天にいて私たちをも守ってくれており、自分が死ねば、天国で再び会えると漠然と信じています。この未来の終末論はどの宗教にもあり、その意味で、復活や死後の命を信じることはそう難しくありません。
・しかし、イエスが言われたのは、今、現在のよみがえりです。イエスは言われます「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる」(11:25)。死もまた神の支配下にあることを信じるかと問われています。マルタは応えます「あなたが神の子、メシアであることは信じています」。マルタはイエスの問いに真正面から向き合っていません。彼女は兄弟ラザロが、今ここでよみがえることを信じていません。私たちも、死んだ者が生き返ることを信じることが出来ません。ここに死が私たちにとって大きな束縛、絶望として、立ちはだかる壁になります。
・「4日前に死んだラザロが生き返ることを信じるか、信じきれるか」とイエスは問われました。マルタは「はい」と答えますが、彼女は信じていません。イエスがラザロの墓の所に行き、「墓を覆っていた石を取り除きなさい」と言われた時、マルタは答えます「主よ、4日も経っていますから、もうにおいます」。ラザロの遺体は腐敗を始めています。「いくらあなたでも死んだラザロを生き返らせることは出来ない」とマルタは言いました。それに対してイエスは言われます「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」。イエスは墓に向かって叫ばれました「ラザロ、出てきなさい」。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきたとヨハネ福音書は伝えます(11:44)。
・多くの人はベタニア村で起こった出来事を、歴史的出来事と信じることが出来ません。現代の私たちは復活を信じることが難しくなっています。理由の一つは命についての理解に混乱があるかです。「私を信じる者は死んでも生きる」とイエスが言われた生命は、肉体的な命のことではありません。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指します。復活をビオス、生物学的命の問題と考えるゆえに、人は混乱します。ラザロが生物学的によみがえってもたいした問題ではありません。彼は再び死ぬからです。しかし、大事なことはラザロが生き返ったことではなく、ラザロのよみがえりを通じて、マルタが命である神に出会ったことです。復活はゾーエー、人格的な命の問題です。私たちはこの地上を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えていますが、真実は違います。全ての人が死にますから、この地上は「死につつある者の地」なのです。しかし、イエスを信じる時、状況は変わります。何故ならば、死んだラザロがよみがえったことを通して、神は死者をも生かされることが示されたからです。そのことを通して、私たちも死んでも生きる存在に変えられる希望を持つことが許されました。イエスを信じる時、この地上が「生ける者の地、死に支配されない者の地」に変わるのです。そして、死は地上の生を終えた後の休息の場、新しい人生の始まりと変わるのです。

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