江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年8月12日説教(マルコ8:14-21、分かち合いの豊かさ)

投稿日:2012年8月12日 更新日:

1.パンの奇跡の後で

・マルコ福音書を読み進めています。今日の箇所は「四千人に食べ物を与える」というパンの奇跡の後の出来事を伝えています。マルコでは8章1節から「パンの奇跡」と呼ばれる出来事が記されています。それによると、イエスの下に集まった群衆が食べるものもない悲惨な状況であるのを見て、イエスは彼らを座らせ、「七つのパンと魚」で彼らに食事を与えたとあります。これと似た出来事は前にも収録されています。マルコ6章に記されている「五千人の養い」です。マルコとマタイはパンの奇跡を二回記していますが、これは、マルコの手元には二つの伝承があり、マルコは、それは別個の出来事であったとして二回収録し、マタイもこれに準じて二つを別の物語として記述したのでしょう(マタイ14:3以下、15:32以下)。他方ルカは同じ話と思ったのか一回だけ報告します(ルカ9:10以下)。さらにヨハネ福音書にも同じ話が伝わっています(ヨハネ6:1以下)。イエスが広野で多くの群衆にパンを与えて養われたたという伝承は、印象的で広い範囲に伝わっていたのでしょう。
・今日、私たちが読みますのは、そのパンの奇跡の後の出来事です。パンの奇跡の後、イエスと弟子たちはガリラヤに戻る為に舟に乗られました。その時、イエスが「ファイリサイ派のパン種とヘロデのパン種に警戒しなさい」と言われました。弟子たちはパンを持ってくることを忘れ、「残りが一つしかなかったので、それではみんなの分としては足らないではないか」(8:16)とイエスがお叱りになったのだと思いました。それに対しイエスは、「まだわからないのか、まだ悟らないのか」とお嘆きになったという記事です。
・イエスが「旅をするのに必要なパンを何故忘れたのか」と弟子たちを叱られたのではないことは明かです。なぜなら舟に乗り込む直前に、イエスは七つのパンで四千人の人たちに食事をお与えになっています。七つのパンで四千人が食べることが可能であれば、一つのパンでイエスと弟子たちが食べるには十分です。イエスがお嘆きになったのは、七つのパンで四千人が養われる奇跡を目の前に見たにも関わらず、まだ一つのパンでは一行には不十分だと考える弟子たちの無理解でした。
・だからイエスは言われます「私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」(8:19)。弟子たちは「十二です」と答えます。またイエスはたずねられます「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」(8:20)。弟子たちは「七つです」と答えます。イエスは弟子たちに言われました「神は五つのパンで五千人を養い、七つのパンで四千人を養うことがお出来になるのに、まだパンが一つしかないと騒いでいるのか。愚か者よ、まだ悟らないのか」。

2.ファリサイのパン種とヘロデのパン種

・ここでイエスはファイリサイ派やヘロデ派のパン種に気をつけなさいと言われています。パン種(イースト)はユダヤでは悪の象徴として用いられます。わずかのパン種が全体を膨らませるように、人間の内部にあるわずかな邪悪な精神や誤った考え方が、共同体全体を壊してしまう、その危険性が指摘されているのです。ですからユダヤ教では献げものにするパンは種入れぬパン(パン種を用いないパン)を用い(レビ記2:11)、過ぎ越しの祭りの前には家の中から古いパン種を一掃することが求められていました。
・ファイリサイ派のパン種とは何でしょうか。ファイリサイ派もイエスが七つのパンで四千人を養われる場にいました。彼らは不可能を可能にされる神の業を今見たのに、更なるしるしを求めます。「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」(8:11)。その彼らにイエスは答えられます「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのか」(8:12)。ファイリサイ派の人々は律法、モーセから伝えられた神の戒めを守れば救われると考えました。そのため彼らは律法の規定を細かく定め、その規定を守らないものを「罪人」として排除しました。彼らは律法を守る自分たちを正しいとし、律法を守らない、あるいは守ることの出来ない貧しい人々や病人を救いから排除していました。自分を正しいとする者は、「罪人」として切り捨てた人たちが空腹であっても心を動かしません。イエスが食べるものも無い人々を見て「この群衆がかわいそうだ」(8:2)と憐れまれて、手元にあったパンを裂いて、四千人を養われても、彼らはそれを天からのしるしと見ていません。自分たちの神学を頑なに信じている人々は、神の業を見ても心を動かされないのです。何故なら彼らが信じているのは、実は神ではなく彼ら自身だからです。ここに宗教的傲慢の罪があります。
・私たちの中にもこのファイリサイ派のパン種があります。教会の中でも、人は他者を裁きがちです。自分を正しいとする者はそうでない人の存在に我慢できないのです。ですから私たちも往々にして言います「洗礼を受けない者は天国に行けない」、「礼拝を守らない者は救われることはない」、私たちがそのように言い始める時、私たちもファイリサイ派になっています。イエスは私たちに「父は裁かれる方ではなく、憐れまれる方だ」と教えられました。父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)方です。それなのに、私たちは「人々の前で天の国を閉ざし・・・入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:13)行為をしています。その私たちに、イエスは言われるでしょう「私に向かって、主よ、主』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21-22)。
・「ヘロデのパン種」とはガリラヤ領主ヘロデ・アンテイパスのような生き方を指します。彼はローマから任命されたガリラヤ領主であり、多くのものを持ちながら、それ以上のものを欲しました。兄ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤの美しさに惹かれ、自分の妻を離別し、兄からヘロデヤを奪います。それを「正しくない」と批判した洗礼者ヨハネを捕え、その首をはねました。自己の権力を維持し、欲望を満たすためであれば、いつでも反対派を抹殺するような生き方です。今、日本の国会では解散と総選挙の時期を巡って権力闘争が繰り広げられています。民主党も自民党も選挙後に自分たちが権力を握れるかどうかを争い、国民が求めている政策についての議論はおざなりにされています。所有と権力を争うこのような生き方こそがヘロデのパン種の典型です。ここにあるのは神なき世界の有様です。
・パウロは言います「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです・・・だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(1コリント5:6-8)。イエスが私たちに求めておられるのは、教会から「ファイリサイ派のパン種やヘロデのパン種」を取り除きなさいということです。

3.分かち合いの豊かさ

・今日の招詞にイザヤ58:10-11を選びました。次のような言葉です「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」。
・私たちが幸福になりたいのであれば、今手元にあるパンを二つに割って一つを他者に与えよとイザヤは言います。ユダヤには二つの湖があります。北に位置するガリラヤ湖はヘルモン山の雪解け水を受けて満々と水をたたえ、この湖からヨルダン川が流れ出で、250キロの砂漠を越えて、最期は南の死海にまで至ります。ガリラヤ湖とヨルダン川の周囲には緑があふれ、砂漠の中のオアシスを形成します。他方、死海は海面下400メートルの低地にあり、ここから水はどこにも流れ出ず、蒸発によって水量を保っています。従って水中の塩分濃度が非常に濃く、生き物は住めず、周りには塩の塊があるだけの荒涼たる風景です。死海は他から取り込むだけですからそこには命は生まれず、魚一匹、植物一つありません。しかし、ガリラヤ湖は与えられた水を豊富に周辺に与え直しますから、そこには花が咲き乱れ、多くの生き物を生かします。人間も同じです。取り込むばかりの人は何も生まない。しかし、多く与える人は豊かな実りをもたらします。「受けるよりも与える方が幸い」なのです(使徒20:35)。
・イエスは神がお与えになった戒めは二つしかないとお教えになりました「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。(マタイ22:37-40)。神を愛するとは人を愛することであり、人を愛するとは人を貪らないということです。神は言われます「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(マラキ3:10)。私たちが「収入の十分の一を月約献金として捧げる」のはこのマラキ書の規定から来ています。収入の十分の一を捧げることは、私たちの経済生活を圧迫します。その圧迫を通して、所有=お金を自分のためだけに使いたいという気持ちから解放されるためです。私たちは十一献金を通してパリサイ派やヘロデのパン種から解放されるのです。
・同時に弟子たちの無理解は私たちの無理解です。弟子たちは七つのパンで四千人が養われる神の力を見ました。乏しいものでも分け与える時、多くの祝福が与えられるのを見ました。それにもかかわらず、弟子たちは手元にパンが一つしかなく、これではみんなが食べることが出来ないと騒いでいます。私たちも、神が私たちを養ってくださることを教えられながら、子供の教育費はどうしたらよいのか、家のローンの支払いは大丈夫か、このままでは老後が心配だ、と毎日わずらっています。だから私たちは思い切って自分のパンを裂いて他者に与えることが出来ず、「パンが一つしかない、これではみんなが食べるには足らない」と騒いでいます。人間の目から見ればパンの欠乏は大きな問題です。しかし、神の目から見れば、「必要なものは与えると約束しているのに何故信じないのか」という問いかけになります。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな・・・天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6:31-32)とイエスは教えられました。「肉のパン」は既に解決済みであり、あなた方は「命のパン」を求めよと言われているのです。その命のパンは、私たちが自分の持っているものを分け与えた時に与えられるのです。
・食べるものが無く四千人が餓えていた時、弟子たちが持っている七つのパンを差し出せばそれは四千人を養うに足るパンになります。それを自分たちだけで食べようとする時、七つのパンは七人しか養いません。私たちは「この真理を本当に知っているのか」がここで問われています。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(8:17-18)。この問いかけを今日、心に刻みたいと思います。

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