江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年4月8日説教(ルカ24:1-12、主は生きておられる)

投稿日:2012年4月8日 更新日:

1.空の墓の前で戸惑う婦人たち

・イースター(復活日)を迎えました。今日はルカ福音書からイエスの復活の出来事を見ていきたいと思います。イエスは金曜日の午後3時に十字架上で亡くなられました(23:46)。ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から始まります。後、数時間で聖なる日が始まる、十字架にかけられた死体は呪われたものであり、そのまま安息日を迎えることは出来ません。イエスの遺体はあわただしく十字架から降ろされ、墓に入れられました。当時は、遺体を洗い、香料を塗って、亜麻布に包んで、墓に納めことが一般的でしたが、イエスの場合は時間が切迫し、とりあえず葬られたのです。イエスの十字架刑を見守っていたのは、ガリラヤからイエスに従って来た婦人たちでした。彼女たちは、愛するイエスが十字架で殺され、しかも十分な清めなしに墓に葬られたのを目撃し、何とかイエスを丁重に葬りたいと願いました。だから、「婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(23:55-56)。翌土曜日は安息日で動けません。婦人たちは家で待機しました。つらい沈黙の一日、服喪の日を過ごしました。男の弟子たちはみな逃げていませんでしたが、婦人たちはイエスのために、待機しました。
・安息日が明けた日曜日の朝早く、まだ暗い中を、婦人たちは香料を持って墓に急ぎました。墓には大きな石のふたがしてあり、番兵もついています。墓に行っても、中に入れるかどうかわかりません。それでも婦人たちは急ぎました。ところが墓に行くと、石のふたは既に開けられてあり、番兵もいず、中には遺体もありませんでした。婦人たちは途方にくれました。彼女たちは愛する者を奪われた悲しみの中で、せめて遺体を洗い清めることによって、愛する者を慰めたいと願って墓に来ましたが、その遺体が見当たらないのです。イエスを十字架にかけたユダヤ当局者が遺体をどこかに移したのかもしれない、十字架で死なれたことさえ耐え難いのに、遺体さえも侮辱されてしまうかもしれない。婦人たちは困惑し、途方にくれていました。その婦人たちの前に、輝く衣を着た二人が現れました。新共同訳では訳されていませんが、ギリシャ語原文には「見よ=イドウ」という言葉が挟まれています「途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着た二人の者が、彼らに現れた」(24:4)。「見よ」、あなたたちの当惑を超えた出来事が今起こったとルカは示唆しています。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言います「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(24:5-6)。「死んだ者を納めるためには墓が必要だ。しかしイエスは復活された。生きている者には墓はいらない」と天使たちは告げました。婦人たちは何のことかわかりません。天使は続けます「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(24:6-7)。
・「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とルカは続けます。空の墓を見て、途方にくれていた婦人たちが、「人の子は十字架につけられ、三日目に復活する」という生前のイエスの言葉を思い起こすことを通して、イエスが復活されたことを知ったのです。イエスの復活を知った婦人たちは、もはや途方にくれてはいません。喜びにあふれ、この知らせを弟子たちに知らせるために、急ぎました。

2.弟子たちは信じることが出来なかった

・しかし、その知らせを聞いた弟子たちは、「この話がたわ言のように思えたので信じなかった」(24:11)とルカは書きます。イエスの復活について、四福音書は共通して、復活を信じることがいかに困難であったかについて伝えています。マルコはイエスの復活を告げ知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失った」と書き(マルコ16:8)、マタイでは、復活のイエスに出会った弟子たちが「疑った」(マタイ28:17)とあり、ヨハネでは、報告を受けたペテロが墓に急ぎますが、イエスの復活を信じなかったとあります(ヨハネ20:10)。復活はその出来事を目撃した人でさえ、信じることが難しい出来事だったのです。
・イエスの遺体を清めるために墓に急いだ婦人たちが見たものは、墓の石が取り去られ、イエスの遺体がなくなっているという現実でした。その現実に戸惑う婦人たちに、「何故生きておられる方を死者の中に探すのか」という天使の言葉が与えられました。「イエスは復活された」、「イエスは生きておられる」、婦人たちは喜びの知らせを持って、弟子たちのところに急ぎましたが、弟子たちは信じませんでした。イエスを神の子と信じ、従って来た弟子たちにさえ、復活の知らせは「たわ言」のように聞こえたのです。復活は自らが経験しない限り「たわ言」です。復活が「たわ言」である時、十字架は惨めな敗北です。パウロが言う通りです「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリント15:14)。弟子たちはイエスを神の子と信じて従ってきたこれまでの人生は虚しかったと絶望の中にあるのです。絶望の中にある時は、どのような言葉も「たわ言」になります。しかし、神はその不信仰者を信仰者に回復するために、復活のイエスとの出会いを計画されます。それが今日の物語の続き、24章後半の「エマオ途上でのイエスとの出会い」です。

3.主は生きておられる

・今日の招詞にルカ24:32を選びました。次のような言葉です「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」。イエスが十字架で死なれて三日目の午後、二人の弟子がエルサレムから故郷のエマオに向けて歩いていました。二人は歩きながら、エルサレムで起こった出来事について話し合っていました。彼らは「イエスこそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」、しかし、イエスは十字架上で無力に死なれ、神も救いの手を差し伸べることはされなかった。「この人は救い主ではなかった」、「私たちの希望は砕けた」、二人の弟子たちは、今は一時の興奮がさめ、失望して、故郷の家に戻ろうとしています。その二人にイエスが近づいて来られ、一緒に歩き始められましたが、二人は「目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24:16)。
・弟子たちは目的地に着いても、この旅人がイエスであることはわかりません。家に着いた彼らは旅人を招き入れ、一緒に食卓につきます。旅人がパンを取り、それを祝福された時、二人はその方がイエスだとわかりました。ルカは書きます「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」(24:30-31)。二人の弟子は、自分たちの悲しみで心がふさがれている時にはイエスがわかりませんでした。二人がわかったのは、イエスがパンを裂いて祝福された時、すなわちイエスが彼らの信仰の回復をとりなして祈られた時です。やがてイエスの姿は見えなくなりましたが、二人はイエスが生きておられることを知り、心が燃やされました。その時の言葉が今日の招詞です「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」。二人はすぐにエルサレムに引き返します。夜は更け、体は疲れていましたが、引き返しました。自分たちの知った喜びを、他の人たちと語り合わずにはおられなかったからです。悲しみで始まった道が、喜びと讃美の道に変わりました。
・復活とは「再び生きる」ことです。私たちが絶望し、出口の見えないどん底の中で、神の働きが始まる事を知ることです。その時、死は終わりではなくなります。不慮の事故で死んだ人の過去も無駄ではなく、中絶で闇に葬り去られた胎児の命も無駄ではありません。復活信仰を持つ者には、失敗の生涯はありません。何故なら、死が終わりではないからです。悲しむ人は人生の半分しか見ていません。イエスの十字架を見て「もう終わりだ」と嘆く二人の旅人も、人生の半分しか見ていません。しかし、人生にはもう半分があります。神が私たちを愛し、私たちが絶望の中に苦しむ時に、再び立ち上がることができるように手を貸して下さるという事実です。そのしるしとしてキリストが復活されました。そのことを知った時、私たちは変えられるのです。
・復活とは死んだ人が生き返る、蘇生ではありません。復活とは「死を超えた命」が示される出来事です。それは、「神がこの世界を支配されておられることを信じるか、どうか」という出来事なのです。私たちの人生にとっては、「私はたまたま生まれ、たまたまここにいる」のか、それとも「私の人生には意味があり、私は生かされている」のかの分かれ道になるものが「復活を信じるか」という問いかけです。「人は死んだら終わりだ」とニヒルに生きるのか、「死を超えた命を現在生きるのか」を問うものこそ「復活の信仰」です。
・二人の旅人は十字架のあるエルサレムから逃げて来ました。現実から逃げていく時、そこには悲しみしかありません。しかし、その悲しみにイエスが同行されます。そして力を与えられ、彼らはまた、エルサレムに、十字架の待つ危険な場所に喜んで帰って行きます。私たちも、このエマオの弟子たちの経験を自分自身で経験する時、復活を信じる者に変えられていきます。私たちに苦しみや悲しみが与えられているのは、私たちが絶望して自分に死に、そこから神を求めるためです。その象徴がバプテスマです。パウロは語ります「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(ローマ6:4-5)。バプテスマこそ、イエスの生と死を象徴するしるしなのです。今日奏楽を担当して下さるY兄は5年前の2007年4月8日にバプテスマを受けられました。そして今日、2012年4月8日にO姉がバプテスマを受けられます。イエスは生きておられ、私たちに働きかけて、「人生は死で終わる虚しいもの」ではなく、人生は「神から使命を与えられて生きるもの」であることを悟らせて下さいます。バプテスマを受ける方が与えられ続ける、その事こそが「イエスが復活された」ことの証明なのです。

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