1.イエスのエルサレム入城
・イエスはユダヤの過越祭りの時に、エルサレムに入城されました。紀元30年春の頃です。その時、イエスはろばに乗ってエルサレムに入られたと福音書は伝えます。かつて多くの王や将軍たちが軍隊に先導され、軍馬に乗ってエルサレムに入城しました。しかし、イエスは馬ではなく、ろばに乗って進み行かれます。イエスが馬ではなくろばを選ばれた、このことが私たちの人生とどのように関わってくるのかを、今日はご一緒に考えたいと思います。
・ルカはイエスのエルサレム入城の模様を19章で描きます。エルサレムを目指して、旅を続けて来られたイエス一行は、エルサレム郊外のオリーブ山のふもとまで進んで来られました。近くにベトファゲとベタニアの村が見えます。イエスはエルサレム入城にあたってろばに乗って入ることを決意されており、二人の弟子に「向こうの村へ行って子ろばを借りて来なさい」と言われました。ベタニアであれば、イエスと親しかったマリアとマルタが住んでいますから、イエスの為に子ろばを用立ててくれるに違いありません。イエスは弟子たちに注意を与えて、遣わされました。「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と(19:31)。
・弟子たちが村に行くと、子ろばがつないでありました。弟子たちは村人に断った上で、子ろばを借り、イエスの元に連れてきました。イエスはその子ろばに乗られて、エルサレムに入城されます。エルサレムでは、高名な預言者が来るとして、人々が集まって来ました。不思議な力で病を治し、悪霊を追い出されるイエスの評判は都まで伝わっていました。もしかしたら、この人がモーセの預言したメシアかも知れない、人々は期待を込めてイエスを歓迎しました。「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」(19:36)。これは王を迎える時の慣習です。人々は叫びます「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(19:38)。イエスのエルサレム入城は四福音書全てに記事がありますが、群衆の叫ぶ声は微妙に異なります。しかし「主の名によって来られる王」という部分は共通しています。人々はイエスを「メシア=救い主」として迎え入れたのです。当時のユダヤはローマの植民地であり、人々はユダヤをローマから開放してくれるメシアを求めていました。これまで多くの不思議な業を行なってきたイエスこそ、そのメシアではないかと人々は期待したのです。
・イエスは政治的解放者としてのメシアを求める、人々の期待を知っておられました。その期待に応えるにはどのようにしたら良いのか、馬に乗って、威風堂々と入城する方法が普通です。ローマの将軍は4頭立ての戦車に乗って都に入りました。イエスがメシア=王であられるならば、その方がふさわしい。王は軍馬に乗って堂々と入城すべきです。しかし、イエスは馬を選ばれず、ろばを選んで、エルサレムに入られました。ろばは風采の上がらない、愚鈍と卑しめられ、戦いの役に立たない動物です。王にふさわしい乗り物ではありません。しかし、イエスはあえて、ろばを選んで、エルサレムに入られました。
2.ろばの子に乗って入城された主
・イエスがろばに乗って入城された背景には、ゼカリヤ書の預言があります。ゼカリヤは預言しました「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」(9:9)。イエスはガリラヤからエルサレム近郊まで歩いて旅をして来られました。しかし、このたびのエルサレム入城においては、あえてろばを調達され、ろばに乗って、エルサレムに入られました。それは、イエスが、ゼカリヤ書に象徴されるような平和のメシアである事を、人々に示されるためでした。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に、都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、ろばの子に乗って、あなたがたのところに来た」。イエスはこの行為を通して人々に語られます「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。ろばは人の重荷を負う。私はあなた方の罪を背負うためにろばに乗って来た」と。
・ろばは愚直な動物で、戦いの役に立ちません。しかし、ろばは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。イエスも重荷を担うために来たと言われます。しかし、人々が求めていたのは、栄光に輝くメシア、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、自分たちを敵から解放し、幸いをもたらしてくれる強いメシアです。重荷を代わりに負ってくれる、ろばに乗る柔和なメシアではありません。人々は、イエスが自分たちの求めていたメシアではないことがわかると、一転して「イエスを十字架につけろ」と叫びはじめます。それがイエスを受難へと導きます。
3.ろばの子に乗る方に従っていく
・今日の招詞にマタイ5:5を選びました。次のような言葉です「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。有名な山上の説教の一文です。イエスはエルサレムに入城された時、これから何が起こるかをご存知でした。エルサレムはイエスに敵対する祭司やパリサイ派たちの本拠地です。ヨハネ福音書によりますと、祭司長たちとパリサイ派の人々は既にイエスを殺す計画を立てていました(11:55-57)。その人々にイエスは自身がろばに乗ることを通して、平和を呼びかけられたのです。他方、弟子たちや民衆は熱狂の渦に中にいます。彼らはイエスがエルサレムにお入りになれば神の国がすぐにも来ると考えていました(19:11)。イエスのようなカリスマ性のある預言者、メシアと評判の高い指導者が呼びかければ、人々が決起して集まり、ローマの軍隊を追放することは出来ると思っていたのです。当時の人々にとって、「神の国」とは、イスラエルが植民地支配から解放されることだったのです。
・しかしイエスは馬ではなく、ろばに乗って入城されました。軍馬は人間を支配する象徴です。他方、ろばは平和の象徴、柔和な生き物です。柔和(ギリシャ語=プラエイス)とは人々と争わず、力ずくで物事を進めないことです。主により頼む者は自らの力に頼りません。全てを主に委ねるとき、そこに憎しみも報復も生じません。力づくで自分に従わせるやり方では、遅かれ早かれ破綻するでしょう。力づくでない、「柔和な人こそが地を受け継ぐ」のです。イエスはエルサレムで死ぬことを通して、人々の罪を我が身に担おうと決意しておられたのです。ちょうど、ろばが人々の荷を担うようにです。
・同時に、私たちはろばの持つもう一つの意味、祭儀的意味をここで考える必要があります。ろばは旧約聖書の伝統の中では「汚れた動物」とされ、ろばの初子は祭壇に捧げることは出来ず、「子羊で贖え、それが出来ない時はろばの初子は首を折って殺せ」と言われています(出エジプト13:12-13)。ユダヤ教はろばの子は汚れているから神への捧げ物にはならないと規定すると同時に、徴税人や娼婦は汚れた罪人であるから救いにはあずかれないとして排除していました。しかしイエスはそうではないとして、彼らを受け入れ、彼らの回心を喜ばれました。徴税人レビを弟子として受け入れ、ザアカイの献身を喜ばれ、娼婦の回心(7:50)を喜ばれました。そして今、イエスはあえて祭儀的に汚れているとされるろばの子に乗ることを通して、疎外されていた人たちの重荷を背負うという決意を見せて下さったのです。
・私たちはこのような柔和な、しかし断固たるイエスに従うように招かれています。私たちがイエスに「神の子であれば私の病を治して欲しい、神の子であれば私を幸せにして欲しい」と願う時、イエスは言われるでしょう「私が約束するのはそのようなことではない。私が何故ろばの子に乗って入城したかをまだ理解しないのか」。イエスの気持ちを知り、自分も子ろばのようになりたいと思った人に、榎本保郎牧師がいます。ちいろば先生として有名な人です。ちいろば=小さなろばの略称です。彼はその著書『ちいろば』のあとがきで次のように述べています「ろばの子が、向こうの村につながれていたように、私もまたキリスト教とは無縁の環境に生まれ育った。知性の点でも人柄の点でもキリストに相応しいものではなかった・・・ろばは同じ馬科の動物でも、サラブレッドなどとは桁外れに、愚鈍で見栄えがしない。しかし、その名もないろばの子も、一度主の御用に召されれば、その背にイエスをお乗せする光栄に浴し、おまけに群集の歓呼に迎えられて、エルサレムに入城することが出来た。私のような者も、キリストの僕とされた日から、身に余る光栄にひたされ、不思議に導かれて、現在に至った。あのちいろばが味わったであろう喜びと感動が私にもひしひしと伝わってくる。その喜びを何とかして、お伝えしたい」。
・聖書は徹底的に、軍馬に頼る生き方を拒否します。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」(詩篇20:8)。「助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない」(イザヤ31:1)。馬は力の象徴です。馬に頼るとは、自分の力に頼り、他人を支配して生きていく人生です。しかし、馬は肉に過ぎず、倒れる、倒れるものに望みを託すなと聖書は言います。先のゼカリヤ書は言います「私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ」(9:10)。
・それに対して、ろばに乗る人生とは、ただ主にのみ依り頼んで歩いていく人生です。ろばは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。イエスも私たちの重荷を、何も言わずに負ってくれました。イエスがろばを調達されたベタニアとは、「悩む者の家」あるいは「貧しい者の家」と言う意味です。この村でラザロは死からよみがえり(ヨハネ11:44)、マリアがイエスにナルドの香油を奉げ(マタイ25:12)、イエスはこの村から昇天されました(ルカ24:50)。私たちはこの教会をベタニア村のような共同体にしたいと願います。ろばのように、忍耐強く、愚痴を言わずに、黙々と他者の荷を負っていく。そのような共同体をここに創りたいと願います。私たちはいつも自分の正しさを主張し、そうすることによって、絶えず繰り返し不正をなし、不幸を引き起こしています。それを知るゆえに、私たちもまた馬ではなく、ろばを選択するのです。