協力牧師 水口仁平
1.昔の人の言い伝え
・今日はマルコ7章から、「本当に人を汚すものは何か」を学びます。7章初めに、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来てイエスのもとに集った」(7:1)とありますが、彼らは、イエスを監視し、イエスに何か落ち度があれば、落とし入れようとして、わざわざエルサレムから来たのです。それまで彼らがイエスにしかけた論争では、ことごとくイエスによって誤りを正されています。第2章には「中風の人の癒やしに伴う罪論争」「レビを弟子にする際の徴税人論争」「断食についての問答」「安息日論争」が記され、第3章には「手の萎えた人を癒す際の安息日の件」や「ベルゼブル論争」などがありました。ファリサイ人らはその度イエスによって誤りを指摘されています。面目を失った彼らはイエスを監視し、一気に態勢を挽回しょうと謀っていました。彼らは神の戒め(律法)を守って生きるよう民衆に教える指導者でしたから、その言動をことごとく、しかも民衆の目の前で正されていたのでは、指導者としての立場がないのです。
・その彼らが、イエスの弟子たちが汚れた手、洗わない手で食事をする者がいるのを見たのですから、今度こそイエスを遣り込めることができると意気込んだのも無理はありません。そのころ、ファリサイ派の人々を初めユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしませんでした。また市場から帰った後など、沐浴して身を清めてでなければ食事をしません。市場で不浄な人やものに触れたかもしれないからです。ユダヤの律法は不浄なものに触れることを禁じ、一定の食物については汚れているから食べるなと命じています。ファリサイ人らはそれらの規定を厳格に守り、守らない人々を罪人と批判していました。従って食事の前に手を洗うことは、単なる衛生上の問題ではなく、宗教的な儀式であり、イエスと弟子たちはその宗教的な戒めを破ったとして非難されているのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(7:5)
・「昔の人の言い伝えを守らなかった」、とイエスの弟子達が非難されました。これに対しイエスは「イザヤはあなたたち偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを戒めとしておしえ、むなしくわたしを崇めている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の掟を固く守っている」(7:6-8)と反論されます。当時は「食事の前には手を洗いなさい」というだけの掟ではなくて、どういう順序で、どうやって洗うかまで細かく規定されていたようです。ファリサイ派の人々はそういう口伝えの戒めをも律法の一部として守るように人々に強要していたのです。「衛生に気をつけて暮らしなさい」と言う神の教えが、いつの間にか、「食前に手を洗わないものは罪人だ」と言う人間の戒律になっていたのです。
・「ファリサイ」という言葉は「分離する」と言う言葉から来ています。彼らは「罪や汚れから分離した者」と自分たちを考えていたようです。当時のファリサイ人や律法学者たちは意地の悪い風紀取締官、歩く律法のようになっていて、少しでも律法を破るものがいればそれを非難し、自分たちは律法や儀式を厳格に守ることで神に奉仕していると信じ込んでいました。だからイエスは別の所でこのように彼らを批判されています「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:13)。
2.人の中から出たものが人を汚す
・イエスは当時の人々の常識を覆すような思想を群衆に話します。すべての食べ物は「人の心に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。イエスは、更に言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな(人の)中から出てきて、人を汚すのである。」(7:20-23)
・「外から入ってくるものは人を汚さない」、何故ならば「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」からです。ここで食物のことが言われています。食物は口から入り、消化器官を通ってやがて排出されていきます。その間に消化がなされ、栄養分が体に吸収されます。食物、つまり外から入ってくるものは、体を通ってまた外に出ていく。それは私たちの中を通過していくだけです。食物は命を維持するために欠かすことのできないものですが、人間の本質、神が人間を何のためにお造りになったか、ということにおいては、二次的なものなのです。
・それでは、人間の本質、神がこのためにこそ人間をお造りになったというものは何か。「心」です。心こそ、人間の本質であり、汚れや罪は体ではなくて心に宿るのです。私たちの汚れや罪は、外から来て体に入るのではなく、私たちの心の中に生れ、外に現れてくるのです。心の中に湧き上がる汚れ、罪が、口から、言葉となってほとばしり出るのです。人の口から出るもの、言葉が人を傷つけるのは、言葉が心にあるものを反映しているからです。「心にもないことを言う」という言葉がありますが、それは真実ではありません。人は心にあふれてくることを語るのです。そして、人の心の中にあるのは悪い思いです。私たちが誰かを妬ましく思う時、その思いは言葉となって相手を攻撃します。私たちが誰かを嫌いだと思う時、その思いが言葉となって相手を傷つけます。私たちを本当に汚すものは口に入る食物ではなく、心で生れ、口から出て来る言葉なのです。この問答を通じてファリサイ派の人々の偽善が暴かれることとなりました。イエスによると彼らは、自分の心の汚れに気付かず、イエスの弟子の手洗いの是非をあげつらっていたことになります。イエスは彼らを「愚かな者たち」と呼んでいますが、自分たちの偽善に気付くことがないとしたら、反省の機会を失います。
・私は大学で心理療法のカウンセリングを学びました。その中で「認知療法」というのがありました。それは、一度も自分の心と対面したことがないというケ−スの報告でした。このケ−スは、人間関係のトラブルを起こしやすく、起こる度に相手の機嫌をとるなど小手先の対策を講じるものの、根本からの解決にならず、結局、関係は破綻してしまうのです。そこで、カウンセラ−の指導で数日間黙想し、自分の内面を見つめ、見えてきたことを記録します。そうして自分と対面して、過去を遡ると、学校や会社、家庭での身勝手な自分の醜さが浮かび上がり意識されるようになります。ありのままの自分自身を認知できるか、どうかがこの治療成功のポイントです。マルコ7章で、イエスは汚れの問題は人の内面の問題であると指摘しますが、その方法は「認知療法」に似ています、というより「認知療法」がイエスの教えに似ているというほうが正しいでしょう。
3.人を裁くな
・今日の招詞はルカ6:41-42を選びました。「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ。まず自分の目から丸太を取り除け。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
・この招詞は「人を裁くな」という戒めから始まっています。今日の学びは「人を本当に汚すものは何か」という課題から始まり、「人を裁くな」という命題に到着しました。この戒めは、言うに易く行うに難しいのです。なぜなら、私たちには裁き癖があるからです。私たちは他人の欠点や短所に、よく気付きます。悪口を言わなくても、心の中に溜めています。なぜそうなるのでしょうか。それは私たちが人を裁きやすい強い習性をもっているからです。自分のことは棚上げにして、すぐ他人を批判するという、罪深い性質を人が持っていることをイエスは熟知して、人が気付くことを願っているのです。人は神自分は正しいのだという自己義認から優越感をもち、人を見下す傲慢な態度になります。その傲慢が人の欠点や弱点を喜ぶ習性に結びつきます。イエスはこのような人の習性をよく知ったうえで「人を裁くな」と私たちを戒めているのです。
・日本の教会では「禁酒禁煙」の伝統があります。神から与えられた体を大事にするのは美しい信仰の行為です。しかしお酒を飲まないクリスチャンは往々にしてお酒を飲む信徒を批判します。「それでもあなたはクリスチャンですか」と彼が問う時、信仰の美しい行為がサタンの言葉になっていくのです。ファイリサイ派の人たちは「私たちは宗教的な清めのためにこんなに努力しているのにあなたたちは手も洗わない」として、イエスと弟子たちを非難しました。「私はお酒を我慢しているのに何故あなたは飲むのか」、「私はこんなに献金しているのに何故あなたは十分の一を捧げないのか」、「私は主日礼拝をいつも守っているのに、何故あなたは礼拝に出ないのか」、そのような批判を私たちが心の中で思う、あるいは思わず口にする、その時、私たちもファイリサイ派になっています。この物語は私たちの問題でもあります。
・イエスは外からの汚れを心配するユダヤ人に言われました「人の中から出て来るものが人を汚す」。内側の汚れは水でいくら洗っても、清くはなりません。「これは汚れているから食べない」と努力しても、汚れを気にして、家に清めの水がめを置いても問題は解決しません。イエスの弟子たちは、旧約の食物規定を捨てました。異邦人を教会に迎えるためには、ユダヤ人の慣習を押し付けてはいけないと思ったからです。こうして、ユダヤ人と異邦人の間に新しい交わりが生まれました。私たちも思い切って捨てる、これまでと変わる必要があります。人間関係を良くしようといくら努力しても、人間関係は改善しません。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからです。私たちの心が変えられること、復活のイエスとの出会いを通して新しく生まれる、そこにしか救いはないのです。今日はそのことを覚えたいと思います。