江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年12月2日説教(マタイ16:13-23、信仰告白とは何か)

投稿日:2012年12月2日 更新日:

1.ペテロの信仰告白

・今日から私たちはマタイ福音書を読み始めます。今日、与えられた聖書箇所はマタイ16:13-23です。イエスが「あなたがたは私を何者だと言うのか」と弟子たちに問われ、弟子を代表してペテロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白する場面です。この出来事を通して、信仰告白とは何か、その告白の上に立てられる私たちの信仰生活とは何かを考えていきます。
・イエスはガリラヤで伝道されていましたが、いよいよエルサレムに行くことを決意され、その前に、休息のために、少数の弟子たちと北方の地ピリポ・カイザリアに向かわれます。ガリラヤの北端、ヨルダン川はここから流れ出し,ガリラヤ湖に注ぎます。この小旅行の後、イエスはエルサレムに向かわれますが、そこはイエスに敵意を持つ祭司長や律法学者の本拠地であり、イエスは神殿体制の秩序を乱す者として、捕らえられ、殺される危険性がありました。しかし、イエスはエルサレムに向かわれます。神の都と呼ばれたエルサレムにこそ迫り来る神の支配を宣教し,悔い改めを求めなければ、活動は完成しないという使命感を持たれておられたからです。
・イエスは待ち受けている受難を弟子たちにあらかじめ伝え、彼らにも覚悟を求めたいと思われました。受難の決意を話される前に、イエスはまず弟子たちに、人々はイエスのことを何者だと言っているのかと尋ねられます。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だなどと言っている」と答えました。イエスの力ある言葉と行いを見て、人々はイエスが「天から遣わされた者」と思っていたからです。その弟子たちに、イエスはさらに問われます「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」(16:15)。その問いに弟子たちを代表する形でペテロが答えます「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)。
・ペテロの告白した、「メシア」という言葉の背景には、旧約聖書的な「栄光のメシア」待望があります。当時の人々は、自分たちをローマ帝国の支配から解放し、ダビデ・ソロモン時代の栄光を再び取り戻してくれるメシアを待望しており、ペテロの告白もその方向性の中にあります。そのペテロの告白に対して、マタイは17節以降でイエスの祝福の言葉を記します。「シモン・バルヨナ,あなたは幸いだ・・・あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(16:17-19)。
・この箇所はマタイが基本としたマルコ福音書にはなく、またマタイと並列するルカ福音書にもないことから、マタイが独自に編集して挿入したのではないかと多くの聖書学者は指摘します。イエスはすべての人の悔い改めを求められましたが,それは自らの教団(私の教会)を形成するためではなかったと思われます。教団を発足させるためには、教団の内の者と外の者を区別するために何らかの制度化が必要であり、イエスがそのような閉ざされた教団を形成するとは考えられないからです。ではマタイは何故そのような記事を掲載したのでしょうか、とりあえずその疑問は残したままで、今は20節以下を読みます。20節でイエスは言われます「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(16:20)。イエスはご自身が人々の期待する「栄光のメシア」ではないことを自覚しておられましたので、誤解を招かないように、「御自分がメシアであることをだれにも話さないように」と命じられます。

2.ペテロを叱責されるイエス

・イスラエルの宗教指導者たちはイエスに敵対し、迫害の度を強めています。エルサレムに行けば受難は避けられないでしょう。しかしそれが父なる神の御心であればあえて受けようとイエスは決心しておられます。だからイエスは「自分はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されるだろう」(16:21)と弟子たちに受難を告示されます。弟子たちは自分たちの耳を疑いました。神から遣わされたメシアが殺されて死ぬ、そんなことがありえようか。マタイは「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(16:22)と記します。ペテロは言います「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」それに対してイエスは「サタン、引き下がれ」とペテロを激しく叱りつけます(16:23)。
・人はいつも「栄光のメシア」を求めます。自分もその栄光に預かりたいからです。イエスはガリラヤで多くの癒しを行い、力強い言葉で神の国の福音を説かれました。イエスの行く所、どこでも大勢の民衆が押し寄せました。ペテロたちは民衆に絶大な人気を博されているイエスが、自分たちに声をかけてくれたから従ったのです。「この人に従っていけば、自分たちも人から賞賛される存在になるだろう」と期待したからこそ、彼らは漁師の職を捨て、家族も財産も捨てたのです。しかし今その計算が崩れようとしています。イエスがエルサレムで王位につかれ、自分たちも相応の地位を与えられると期待していたのに、「死ぬためにエルサレムに行く」とイエスは言われます。「冗談ではない」という思いが、ペテロの激しい言葉を引き出しています。そのペテロにイエスは「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しく叱責されました。
・この出来事からわかることは、イエスの生前、弟子たちは本当にはイエスを理解出来ず、本当の信仰告白もできなかったという事実です。ですから、彼らは、イエスが捕らえられた時に逃げ去り、「お前はイエスの仲間だ」と告発されると、「そんな人は知らない」と三度否定します。彼らはイエスに従い続けることができなかったのです。その彼らが復活のイエスとの出会いを通して変えられていきます。
・ヨハネ21章は、イエスの十字架死の後、失望した弟子たちがガリラヤに帰り、もとの漁師に戻った事を伝えますが、その彼らに復活のイエスが現れ、共に食事をされます。食事の後で、イエスはペテロに三度聞かれます「あなたは私を愛するか」(ヨハネ21:15~17)。ペテロは三度イエスが「私を愛するか」と問われたことで、悲しくなりました。その悲しみの中でペテロは告白します「私はあなたを裏切りました。あなたに従うことが出来ませんでした。でも心からあなたを愛しています。そのことをわかって下さい」。ここに初めて真実の信仰告白がなされました。悔い改めたペテロにイエスは言われます「私の羊を飼いなさい」。イエスは挫折した者を捨てられず、むしろ挫折によって自分の無力を知った者に、神の業を託されます。

3.その委託の言葉がマタイ16:17-19にある

・今日の招詞にヨハネ20:22-23を選びました。次のような言葉です「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。復活されたイエスが弟子たちに命じられた宣教命令の言葉です。この言葉を読む時、私たちはそこにマタイ16:19と同じ言葉が語られていることに気付きます。マタイは記しました「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:19)。それはヨハネが伝える「あなたがたが赦せば、その罪は赦される。あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と同じ意味です。マタイ福音書16章17−19節に挿入されていたイエスの祝福の言葉は、実は弟子たちが復活のイエスからいただいた委託の言葉なのです。
・生前のイエスは、「神の国が来る」と宣教されました。「神が新しい世をお造りになる。だから悔い改めて待て」と。そのイエスが十字架で死なれ、復活して弟子たちに現れ、弟子たちはイエスが神の子であったことを知りました。復活されたイエスに弟子たちは告白します「あなたこそメシア、キリスト、生ける神の子です」(16:16)。その告白に対して、復活のイエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」(16:17)と祝福しておられるのです。マタイはペテロの復活顕現体験をここに書いていると思われます。
・復活のイエスは弟子たちに言われます「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。天の国の鍵が教会に与えられている、それは教会が権力を握って、ある人を天の国に入れ、ある人を入れないということではありません。すべての人に天の国は解放されています。教会は人々にイエスの言葉を伝え、信仰に導くことによって、天の国の門を開ける役割を持つということです。それを信じるゆえに、私たちは信仰を告白し、バプテスマを受けて、教会に加わります。
・ただ問題があります。それは地上を生きる私たちは、本当の意味での信仰告白をすることが難しいという事実です。ペテロの信仰告白にしても最初は見当違いの信仰告白であり、「サタンよ、退け」とイエスに叱責され、裏切りと挫折を経てイエスに再会して、本当の信仰告白にたどり着きました。私たちも同じです。私たちの所属する日本バプテスト連盟には全国に326の教会があり、登録信徒数は3万5千人ですが、礼拝に参加する方の数は1万5千名ほどです。すなわち信徒の内、60%の方が礼拝に参加されていないという厳しい現実があります。かつて信仰告白して洗礼を受けられた人の半数以上の方は、今は教会から離れておられるのです。私たちは信仰告白をしても,いつまでもその信仰を維持することの出来ない弱さを持っているのです。
・しかし、教会はいつでも人々の立ち返りを待ちます。そのための努力をします。「一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行きなさい」(マタイ18:12)というイエスの言葉を知るからです。そして帰ってきた人々に対し、「あなたは赦されています」と伝えます。それが「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」という意味なのです。私たちは、信仰告白をしてバプテスマを受けても、いろいろな出来事の中で、教会を離れ、信仰を無くする存在です。しかし、キリストはいつでも帰還を待っておられ、教会はいつでも赦しの準備をしています。今教会にいる私たちも失敗し,挫折し,教会を離れたことがあるからこそ,今、教会を離れている友を「迎える」ことが出来ます。ペテロの体験は私たちの体験なのです。

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