江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年11月25日説教(マルコ16:1-8、イエスは復活された)

投稿日:2012年11月25日 更新日:

1.空の墓

・マルコ福音書を読んできましたが、今日が最終回です。マルコはイエスの復活の出来事を、「空の墓」として私たちに提示します。マルコ16章には「イエスが十字架につかれて三日目に婦人たちが墓に行ったが、墓は空であった」という短い記述があるだけです。他の福音書では、婦人たちが復活のイエスと出会い、弟子たちも復活者に顕現したという記事がありますが、マルコは「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)で唐突に福音書が終わります。このマルコの記事は何を物語るのでしょうか。
・イエスは金曜日の午後3時に亡くなられたとマルコは記します。弟子たちは逃げていなくなっており、婦人たちだけが十字架を遠くから見ていました。金曜日の日没と共に、安息日が始まり、安息日を汚さないために、遺体はあわただしく葬られました。婦人たちは何も出来ず、ただ遺体が納められた墓を見つめていました(15:47)。安息日が終わった日曜日の夜明けと共に、、婦人たちはイエスの遺体に塗るための香料を買い整え、墓に向かいます。あわただしく葬られたイエスの体に香油を塗って、ふさわしく葬りたいと願ったからです。
・婦人たちは墓に急ぎます。しかし、墓の入り口には大きな石のふたが置かれており、どうすれば石を取り除くことが出来るか、婦人たちにはわかりません。ところが、墓に着くと、石は既に転がしてありました。マルコは「どのようにしてそうなったのか」を記しません。ユダヤの墓は岩をくりぬいて作る横穴式の墓です。婦人たちが中に入りますと、右側に天使が座っているのを見て、婦人たちは驚き、怖れたとマルコは伝えます。婦人たちは天使の声を聞きます「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(16:6-7)。イエスの墓は空でした。マルコは記します「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)。その終わり方があまりにも唐突のため、後代の人々はマルコ福音書の一部が失われたのではないかと思い、16章に9−20節の顕現物語を付け加えました。しかしあくまでもマルコの本文は8節までです。

2.ガリラヤへ

・マルコの物語では、天使が現れ、婦人たちに語ります「あの方は復活なさって、ここにはおられない・・・さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:6-7)。天使が現れたどうかは別にして、このマルコの記事は二つの事実を私たちに知らせます。一つはイエスの遺体を納めた墓が空になっていたという伝承があり、二つ目は弟子たちがガリラヤで復活のイエスと出会ったという伝承があることです。
・最初に「空の墓の伝承」を見てみましょう。マルコでは「婦人たちは墓を出て逃げ去った・・・そして、だれにも何も言わなかった」とありますが、その後の消息を伝えると思われる記事がルカ福音書24章にあります。ルカは述べます「婦人たちは・・・墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた・・・婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」(ルカ 24:8-12)。婦人たちは「イエスの遺体がなくなっている」と弟子たちに伝え、弟子たちは墓が空であることは確認しましたが、「まさかイエスが復活されたとは考えもしなかった」とルカは報告しています。
・その後、弟子たちはどうしたのでしょうか。おそらくは故郷のガリラヤに戻ったと思われます。その間の事情を伝えると思われる記事がヨハネ福音書にあります。ヨハネ21章によりますと、弟子たちはエルサレムを去ってガリラヤに戻り、元の漁師として働いていた時に、復活のイエスと出会ったとあります。ヨハネは書きます「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが『私は漁に行く』と言うと、彼らは『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった・・・イエスは言われた『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ』。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(ヨハネ21:2-7)。
・このヨハネ21章とほぼ同じ記事がルカ5章にもあります。それに依りますと、漁をしたが何もとれずに網を洗っていたペテロたちにイエスが近づき、「もう一度沖に出て網を降ろしなさい」と言われ、ペテロたちがそうしたところ大漁になったので、ペテロがイエスの前に跪くという内容です。ルカは書きます「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して『主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです』と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』。そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ 5:8-11)。この記事は復活顕現伝承が一般の記事に中に混入したのではないかと思われています。

3.人間を取る漁師になりなさい

・マルコは直接的には、復活のイエスと弟子たちの出会いを記録しません。しかし先に見ましたように、各福音書のあちこちに復活のイエスとの出会いの痕跡が残されています。今日の招詞として選びましたマルコ1:16-18の中にもそれがあるように思えます。次のような言葉です「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」。この箇所は通常はイエスが伝道の始めに弟子たちを招かれた記事として読まれますが、常識的に考えると一つの疑問が出てきます。「人は初めて出会った人の招きに応えて、職業や家族を捨てて従うことはできない」のではないかという疑問です。では何故ペテロたちは「すぐに」捨ててイエスに従ったのでしょうか。
・この個所を復活後のイエスが弟子を招かれた記事として読む時、私たちは納得できます。先に見ましたように、ヨハネ福音書は、イエスの十字架後に弟子たちはガリラヤに帰り、元の漁師に戻っていた時に復活のイエスと出会ったと記します。ルカも類似の伝承を伝えます。ペテロたちはイエスが十字架で死なれ、埋葬された時はエルサレムに居ました。そこに婦人たちが「イエスの墓は空だった」と伝えてきました。ペテロたちは何が起きたか理解できなかった。しかしイエスが死なれた以上、エルサレムにいても仕方がない。彼らは故郷に戻り、元の職業に戻った。その彼らが再びイエスに出会った。復活のイエスは、「そんな人は知らない」とイエスを否認したペテロたちに対して一言も叱責することなく、「私に従って来なさい」と招かれました。もう迷いはありません。彼らは全てを捨ててイエスに従います。そして彼らは「人間を取る漁師になりなさい」というイエスの言葉を受けて、福音宣教のために命を捨てる者となっていくのです。復活とはイエスが「死から起こされた」出来事ですが、同時に「死んでいた弟子たちが起こされた」出来事でもあったのです。
・ガリラヤはガーリール(周辺)という意味です。中心であるエルサレムから見れば周辺の地、しかしそこで神の国の福音が述べ始められました。ガリラヤは同時にイエスが裏切った弟子たちに再び会われた場所です。復活のイエスはガリラヤで弟子たちを招かれ、弟子たちはイエスの業を継承するためにエルサレムに戻り、教会を形成します。私たちも教会で復活のイエスと出会い、召命を受け、それぞれの持ち場に遣わされていきます。教会こそ私たちのガリラヤです。私たちもまた弟子たちと同じ経験をするのです。
・八木重吉の次の詩は、そのことを表現しているようです「キリストわれによみがえれば/よみがえりにあたいするもの/すべていのちをふきかえしゆくなり/うらぶれはてしわれなりしかど/あたいなきすぎこしかたにはあらじとおもう」。代々木上原教会の村上伸牧師はこの詩を次のように解説します「きりすと/われによみがえれば」。詩人はイエスの復活を、自分とは無関係に起きた「客観的事実」としてではなく、正に「自分の中で起こった出来事」として受け入れています。それが信じられた時、自分の中で確かに息を吹き返すものがあることを、詩人は感じたのです。希望、そして生命の躍動。だから「よみがえりにあたいするもの/すべていのちをふきかえしゆくなり」とうたった。この詩人は病身でしたから、今までは時々、「死のうか」と思っていた。そのことを彼は「うらぶれはてしわれ」とか、「あたいなきすぎこしかた」と表現しました。しかし、キリストの甦りが自分の中で事実となった今は違う。「死のうか」と思っていた暗い心は、もう過去のものとなった、というのです」(2006年4月16日代々木上原教会週報から)。
・芥川龍之介や太宰治も聖書を熱心に読み、多くのキリスト教的作品を書きましたが、最後は自殺しました。復活のイエスに出会うことがなかったからでしょうか。パウロは言います「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(1コリント15:18)。主に結ばれているならば、挫折してもまたやり直すことが出来る。復活信仰こそ、私たちを本当に生かすものなのです。

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