江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年11月11日説教(マルコ14:32-42、私たちのゲツセマネ)

投稿日:2012年11月11日 更新日:

1.ゲツセマネにて

・今日はマルコ14章を読みますが、14章を最初から読んでいきますとまず気がつくのは、イスカリオテのユダが既にイエスを裏切る行動を始めていることです。マルコは記します「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った・・・ユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(14:10-11)。木曜日にイエスは弟子たちと過ぎ越しの食事を持たれますが、この最後の晩餐においても、ユダの裏切りが暗い影を及ぼしています。席上でイエスは語られます「あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)。食事を終えた一行はオリーブ山に向かいますが、途上でイエスは弟子たちに「あなたがたは皆私につまずく」と預言されます(14:27)。ユダはすでに一行から離脱しています。イエスはユダの行動を見て、今夜にも捕り手たちが来て、その時に他の弟子たちも逃げ出すであろうと予期されています。そのような重苦しさの中で、一行はオリーブ山に到着しました。
・オリーブ山はエルサレム郊外の小高い丘で、そのふもとにゲッセマネ(油絞り)の園がありました。オリーブの油を絞る設備があったところからその名がつけられましたが、イエスは以前にもよくこの場所に来ておられました。イエスは三人の弟子を連れて、園の奥深くに進んで行かれます。マルコはその時の情況を次のように記します「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『私が祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」(14:32-34)。これから起こるであろう受難を前に、「イエスはひどく恐れてもだえ始められた」とマルコは記します。
・エルサレム入城後、ユダヤ教指導者たちとの対立は日に日に強まり、その結果殺されるかも知れないとイエスは感じておられました。しかしいざその時が近づいた時、イエスはたじろがれ、不安になられ、もだえ苦しまれました。私たちが驚くのは、イエスが自分の弱さを弟子たちにお隠しにならなかったことと、聖書がそれを隠さずに記していることです。私たちが苦しみの中にある時、普通はその苦しみを人に知られまいと隠し、自分の力で何とかしようと思います。人は他者に対して弱さを見せることを嫌がり、自分を閉じるのです。しかし、苦しみを解決できない時、その苦しみは人を押しつぶします。イエスは自分の苦しみをありのままに弟子たちに示され、共に祈ってほしいと言われます。他者に対してその苦しみを見せることは、他者に自分を開くことです。人に対して開かれた苦しみは絶望を生みません。宮沢賢治「アメニモマケズ」の中に次のような一節があります「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」。どうしようもない時は、もだえ、おろおろすれば良いのです。人間の業が終わったそこから、神の業が始まります。
・「私は死ぬばかりに悲しい」、この言葉を弟子たちも聞き、彼らも共に祈り始めます。イエスは祈られます「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください」(14:36a)。「死の杯を取り去って下さい、今死ぬことの意味が理解出来ません」とイエスは祈られたのです。しかし、父なる神は何の応答もされません。イエスは神の沈黙の中に、その御心を見られました。だから彼は続けて祈られます「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36b)。理解できないことであっても、御心であれば受け入れていく、この祈りを導かれたのは父なる神です。救いは始まっているのです。
・イエスは死を受け入れる決心をされると弟子たちの所に戻られます。しかし、イエスと祈りを共にするはずだった弟子たちは、睡魔に負けて眠り込んでいます。人は自分のためであれば、徹夜で祈ることができます。しかし他者の苦しみや悲しみのためには徹夜できない。イエスはその人間の弱さを知っておられるゆえに、ペテロを叱責されません。イエスはペテロに言われます「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(14:37-38)。
・「心は燃えても、肉体は弱い」、ここにイエスの赦しがあります。イエスは再び奥の方に進み、祈られます。イエスは苦闘の末、十字架を受け入れられたのです。見ると、弟子たちはまた眠り込んでいます。イエスは弟子たちを起こさないように、祈りを続けられます。三度目の祈りを終えて帰ってきても、弟子たちはまだ眠り込んだままです。イエスは弟子たちを起こして言われます「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」(14:41-42)。下の方から、ユダに率いられた捕り手が来るのが見えたのでしょう。もうイエスには迷いはありません。三度の祈りを通してイエスは神の御心を受け入れられた、誰かが苦しまなければ救いはないのであれば、私が苦しんでいこう。その決意が「立て、行こう」という言葉の中に現れています。

2.私たちを赦される主

・この物語を通して私たちは人間の弱さを見ます。最初の弱さはイエスの弱さです。イエスは「死を前におののかれた」。人は言うでしょう「ソクラテスは不当な判決であるのにそれを受け入れ、毒薬を飲んで死んでいった。それなのにイエスは何だ。死を前におののくとは」。しかし私たちはイエスの弱さに慰めを覚えます。私たちもまた、苦しみの杯を飲まなければいけない時があります。重い病に冒された、生涯をかけた事業が破産に追い込まれた、愛する人が亡くなった、人生には多くの波風があります。その中で私たちは必死に祈りますが、神が答えて下さらない時があります。どうして良いのか分からず、私たちは「もだえ苦しみます」。その時、私たちはイエスさえおののかれたことを知り、慰められます。私たちのために弱さを隠されなかったからこそ、この人は私たちの友となられるのです。
・二番目の弱さは弟子たちの弱さです。ペテロはイエスが「今夜、あなたがたは皆私につまずく」(14:27)と言われた時に大見得を切りました「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」(14:29)。そのペテロはイエスが血の汗を流して祈っておられた時、目を覚ましていることができずに眠りこけ、捕り手たちが来た時は恐ろしくなって逃げ出しました。イエスが大祭司の屋敷に連行された時、ペテロは後を追いますが、屋敷の人々に「おまえもイエスの仲間だ」と問い詰められると、「そんな人は知らない」と三度否認します(14:71)。イエスが十字架につかれた時も、ペテロはそこにはいませんでした。聖書はペテロが挫折したことを隠しません。

3.私たちにとってのゲツセマネ

・今日の招詞にヘブル書5:7を選びました。次のような言葉です「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。ヘブル書はイエスを大祭司という立場で書きます。イスラエルでは大祭司が民のためにとりなしの犠牲を捧げ、罪の赦しを祈ります。大祭司は、神から任命され、民のために祈ります。ヘブル書は記します「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(5:1-2)。
・このヘブル書の言葉の背景にはイエスのゲツセマネでの祈りの記憶があります。イエスはゲツセマネで、「私は死ぬばかりに悲しい」と告白されました。多くの英雄や殉教者は、相手を呪いながら、あるいは神を讃美しながら、雄々しく死んでいきます。しかし「イエスはもだえ苦しまれた」と教会は告白します。「もだえ苦しまれたからこそ私たちの救い主だ」と教会は告白するのです。また「一緒に死にます」と表明した弟子たちも、イエスの必死の祈りの時に眠り込み、「おまえたちもイエスの仲間だろう」と問い詰められた時には、「そんな人は知らない」と否認していきます。ここに弱さを隠さない信仰があります。人が弱さの中で、自分の力、信仰、確信をすべて放棄し、神を呼び求める時にこそ、神の力が働き始めるとの信仰です。「挫折を知らない信仰」は、単なる強がりであり、「弱いときにこそ強い」(�コリント12:10)といえる信仰こそ、聖書の信仰なのです。
・このゲツセマネの祈りは私たちにとって大事な祈りです。何故ならば私たちは必ず死ぬ時を迎えるからです。信仰者にとっても死は恐怖であり、その時、私たちが恐れてもだえてもよいし、おののいてもよいことは何という慰めでしょう。日本基督教団西片町教会の牧師で、教団の総会議長でした鈴木正久牧師の残した遺言テープがあります。彼は肝臓ガンのために1969年、56歳で天に召されましたが、その鈴木牧師が最後の病床から教会員にあてたテープです。鈴木牧師は語ります「この病院に入院した時、私には、「明日」というのは、治って、もう一度、今までの働きを続けることでした。そのことを前にして、明るい、命に満たされた「今日」というものが感ぜられたわけです・・・(ところが)娘からある日、「実はお父さん、もう手のつくしようがない」ということを聞いたときには、本当に一つのショックでした・・・今まで考えていた「明日」がなくなってしまった。「明日」がないと「今日」というものがなくなります。そして急にその晩は暗い気持ちになりました。寝たのですけれども胸の上に何かまっ黒いものがのしかかってくるような、そういう気持ちでした・・・ その時祈ったわけです。今までそういうことは余りなかったのですけれど、ただ「天の父よ」というだけではなく、子どもの時自分の父親を呼んだように「天のお父さん、お父さん」、何回もそういうふうに言ってみたりもしました・・・そうしたらやがて眠れました」。鈴木先生もイエスのように「天のお父さん(アッバ)」と何度も祈ったのです。
・鈴木牧師の告白は続きます「明け方までかなりよく静かに眠りました。そして目が覚めたらば不思議な力が心の中に与えられていました・・・夕方怜子にピリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら、非常に喜びにあふれてほかの信徒に語りかけているのを聞きました。聖書というものがこんなに命にあふれた力強いものだということを、私は今までの生涯で初めて感じたくらいに感じています。パウロは、生涯の目標というものを自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に輝かしい明日なのです・・・死をも越えて先に輝いているものである、その本当の明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」(鈴木正久著作集から、一部要約)。私たちも恐れおののきながら主に祈る時、やがて言葉が与えられます「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。

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