1.荒野へ
・出エジプト記を読んでいます。イスラエルの民はエジプトで奴隷とされ、強制労働を強いられ、苦難にあえいでいました。彼らは神に叫び、神はモーセを派遣し、「過ぎ越しの奇跡」を通して、彼らをエジプトから解放されました。エジプト軍は逃亡したイスラエル共同体を追跡してきましたが、神は「葦の海の奇跡」を通して、イスラエルの民を救われます。こうして、いよいよイスラエルの民の約束の地への旅が始まりました。しかし神がイスラエルを導かれたのは海沿いの道ではなく、荒野の道でした。荒野ですから水は乏しく、食べ物もありません。その旅の中で民のつぶやきが始まります。それが今日読みます出エジプト記16章の記事です。
・物語は15章22節から始まります「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。 民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った」(15:22-24)。聖書巻末に出エジプトの地図がありますが、彼らはスエズ湾に沿ってシナイ半島の奥深くまで進んで行きました。家畜を連れた数千人の群が荒野を旅していますので、水の蓄えもすぐに無くなり、人々は渇きに苦しめられます。マラという泉のある所に辿り着きますが、その水は苦くて飲めなかった。おそらくは塩分を多く含んでいたのでしょう。人々の不満が高まり、彼らは「何を飲んだら良いのか」とつぶやき始めます。
・葦の海の奇跡で人々は目の前に神の救済の業を見ました。その時から3日しか経っていないのに、もう不満が出る、それが人間だと聖書は冷静に見つめます。しかし神はこのような人間のつぶやきにも答えて下さいます「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった」(15:25)。何らかの中和作用を持つ木を神は与えてくれたのでしょう。やがて彼らは泉となつめやしのあるエリムに着き、そこでしばらくの休息の時が与えられました。
・エジプトを出て1ヶ月、一行はシンの荒野に導かれます。エジプトから用意してきた食べ物も底をつきはじめたのでしょう、人々の不満が再び高まります。「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている』」(16:2-3)。
・「エジプトを出て来たばかりに苦しい目に遭う、エジプトにいた方が幸せだった」と彼らはつぶやきます。しかし彼らは、エジプトで本当に幸せだったのでしょうか。「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた」と言っていますが、彼らは奴隷であり、過酷労働を強いられ、食べ物も十分に与えられず、ひもじい思いをしていたはずです。そのエジプト時代がなぜ懐かしくなるのか。それは、責任とリスクの伴う自由が重荷になり始めているのです。奴隷は言われた通りにしていれば自分に責任はなく、全てを人のせいにすることができます。長年の間、奴隷だったイスラエルの民は、自由の厳しさの中で、奴隷時代をなつかしく思い出しているのです。
・つぶやく=ヘブル語ルーン、新共同訳では「不平を言う」と訳されていますが、この言葉が16章1−12節の短い文章の中に7回出ていることから、彼らのつぶやきが如何に激しかったかを知ることが出来ます。このイスラエル人のつぶやきは私たちのつぶやきでもあります。失業中の人が教会に来て祈っても職が与えられるわけではありません。病気で苦しめられている人が信仰を持てば病気が治るわけでもありません。「信仰しても何の甲斐もない」、教会に来る多くの人々は失望して教会を去ります。神との出会いの喜びや感動も、予想しない困難の前では失望に変わって行きます。イエスは言われました「求めよ、そうすれば与えられる、たたけ、そうすれば開けられる」(ルカ11:9-10)。榎本保郎先生は注解されます「開かれるかも知れないから門をたたくのではない、必ず開かれるからたたく」。ただ、その開かれ方が私たちの求めるものとは往々にして違います。イスラエル人は海沿いの道ではなく、荒野に導かれました。荒野である故に、水や食べ物が不足し、不平や不満が出ます。しかしその不平や不満を通して、私たちは神の偉大な業を見ることになります。それが「マナの奇跡」です。
2.食料の危機と信仰の危機
・出エジプト記は記します「私は、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であることを知るようになる』と」(16:12)。与えられた食べ物はうずらとマナでした。「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った」(16:13−15)。「夕方になると、うずらが飛んで来た」、うずらは4月頃アフリカからヨーロッパに渡り、その途中にシナイ半島に飛来します。紅海を超える時、体力を消耗した鳥たちは、休むために陸に舞い降り、そこを人々に捕えられたのでしょう。平行個所の民数記は記します「主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上二アンマほどの高さに積もった。民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも十ホメルは集めた」(民数記11:31-32)。
・もう一つの食べ物はマナでした。同じく民数記に説明があります「マナは、コエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった。民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、濃くのあるクリームのような味であった。夜、宿営に露が降りると、マナも降った」(民数記11:7-9)。このマナはある種の樹木に寄生する虫の分泌物で、夜間に分泌され朝の冷気がこれを結晶させ、白色の粒子となるそうで、今日でも食されているとのことです。日本語では「甘露」と訳され、イスラエルの民が見て、「これは何だろう=(ヘブル語)マン・フー」といった故にマナと名付けられたといいます。モーセは言いました「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである」(16:15)。そしてこのマナが、イスラエルの40年にも及ぶ荒野の旅を支える「命のパン」(16:35)になっていくのです。
・神は民に一日分だけのマナを集めよと言われました「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい」(16:16)。しかし、民の一部はそれ以上に集めようとしたところ、それは腐ったと出エジプト記は記します(16:20-21)。一日一オメル、神は必要なものを必要なだけ与えて下り、必要以上に集めたものは腐った。ここに神の養いの基本があります。私たちが主の祈りで「必要な糧を今日与えてください」(マタイ6:11)と祈るのも、このマナの奇跡から来ます。神は必要なものを与えて下さる。民はマナとうずらで、毎日を養われながらもそれを信じ切ることが出来なかった。私たちもそれを信じきれないから、私たちにも平安はないのです。「二日分のマナを集めるな」、大事な教えです。イエスは言われました「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31-33)。
3.マナの奇跡と私たち
・今日の招詞に申命記8:3を選びました。次のような言葉です「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。申命記はエジプトを出て40年間の荒野放浪の後に、約束の地に入ろうとしている民にモーセが語った告別説教です。モーセは今その役割を終え、死の床に在ります。彼は民を集め、神が何をして下さったかを覚えて、新しい地での生活を始めるように言います「主が何故、あなたたちを40年間も荒野に導かれたのか。それは、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるためであった」とモーセは言います。パンは人が生きるために必要ですが、そのパンは父なる神から来ることを知るために、あなたたちは荒野に導かれたのだとモーセは言います。
・荒野を旅するイスラエルの民は、どのような思いを胸に抱いて、40年を過ごしたのでしょうか。今を我慢すれば、「乳と蜜の流れる地に暮らすことが出来る」ことを目指して、荒野を歩いたのでしょうか。しかし、主が民を約束の地に導きいれたのは、40年の荒野放浪の後でした。エジプトを出た人々の大半は荒野で死んでいます。約束の地に入ることが救いであるとすれば、大半の人は救われなかった事になります。救いとは何なのでしょうか。
・ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスは生物学的命を指し、ゾーエーは魂の命、人格的な命を指します。人間が生きるには生きがいが必要です。誰かに必要とされている、誰かが自分のことを気にかけてくれると思うから生きていけます。老人ホームに入居した人々が、衣食住に不自由がないのに、いつの間にかホームを牢獄のように思うようになるのは、生きがいの喪失から来ます。「生きていてもしょうがない」という時、動物としての命(ビオス)は生きていても、人格としての命(ゾーエー)は死んでいるのです。私たちはビオスを養う「地上のパン」と共に、ゾーエーを養う「天上のパン」が必要なのです。そしてこの天上のパンはしばしば荒野で、苦難の中で与えられます。そして本当のパンとは、地上の命を養うパンではなく、魂を養うパンなのです。モーセが言っている「神の言葉」とは魂を養うパンのことです。このことを知った人は、「信仰しても何の甲斐もない」といって、教会を去ることはありません。何故なら教会が与えるものはビオスを養う「地上のパン」ではなく、魂(ゾーエー)を養う「命のパン」なのです。そして「命のパンを与えて下さった方は、地上のパンをも与えて下さる」と信じる故に、地上の生に不安はないのです。
・「神が養ってくださる」との信仰が、私たちの信仰です。神が養ってくださるのであれば、私たちが苦難にある時も神は共にいてくださる。失業して不安を感じている人の傍らに神は共にいてくださる。病気に苦しむ時にも神はいてくださる。絶望して泣いている人の涙を神は知っておられる。私たちは地上の命を支えるパンを得るために週の6日を働きますが、同時に魂の命を支えるためのパンを求めて、毎週の礼拝に集うのです。