江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年5月22日説教(創世記4:1-16、カインの末裔)

投稿日:2011年5月22日 更新日:

1.弟を殺したカインの罪
・先週、私たちは創世記3章からアダムとエバの楽園からの追放物語を読みました。アダムはエバが与えられた時、「これこそ私の骨の骨、肉の肉」(創世記2:23)と喜びますが、罪を犯して責任を問われると彼の態度は一変します。「私が悪いのではない、妻が悪いのです」とアダムは自分の責任を引き受けようとしません。人は最も親しい隣人である妻でさえいざとなれば裏切る存在であることが明らかになり、神は人の罪を問い、彼らをエデンの園から追放されました。しかし、その時、皮の衣を作って彼らに着せられます。人間の罪にも関らず、神は人を見捨てず、人を見守り続ける方であることを先週学びました。今日読みます創世記4章では、追放されたアダムとエバが子を持つことを赦されて、カインとアベルが生まれます。ところが兄のカインは弟アベルを殺してしまい、夫婦関係を破綻させた人間の罪が今度は親子関係、兄弟関係の破壊へと拡大していく記事を読みます。
・アダムとエバは二人の息子を持ちますが、兄のカインは土を耕す者(農耕者)に、弟アベルは羊を飼う者(牧羊者)となります。収穫の時が来て、カインは土の実りを、アベルは羊の初子を献げ物として持ってきました。ところが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(4:4-5)と創世記は記します。主が何故そうされたかについての記述はありません。新約聖書記者は「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです」(ヘブル11:4)として、アベルは最上のものを捧げ(肥えた初子)、カインはそうではなかった(ただの土の実り)からだと理解しましたが、文脈から見ればそうではないことは明らかです。創世記4章の中心テーマはアベルの正しさではなく、カインの罪なのです。
・創世記記者がここで語っているのは、「主が何故カインの捧げ物を拒否され、アベルの捧げ物を受け入れられたか」について、人にはわからないということです。「神の思いは人間の理解を超える」、人は全てを知ることができないことを受け入れよと彼は言います。それを「神が不公平をされるわけはない。カインの捧げ物が受け入れられなかったのはカインが悪いからだ」と人の考えで合理化してはいけないのです。そうではなく、人の世には理由のつかない不条理や不公平があるという現実を見つめることが大切です。ある人は生まれながらに貧しく学校にも行けないのに、別の人は裕福な家に生まれ、十分な教育を受けることができます。不公平です。ある人は健康に生まれ、別の人は病弱に生まれ、病弱故に人生の選択肢が制限されます。不条理です。人生は不公平で不条理なのです。では私たちが、この不公平、不条理に直面した時、どうするのか。カインのように怒って相手を殺すのか、あるいはあきらめるのか、さらには神に意義申し立てをするのか、創世記記者は「あなたはどうするのか」と問いかけます。ここでアベルは善人でカインは悪人だったからだと決めつけてしまうと、この大事な問いかけが失われ、物語が私たちと無縁なものになります。
・創世記は書きます「カインは激しく怒って顔を伏せた」(4:5)。カインは不当としか思えない神の不条理に怒り、顔を伏せたのです。彼の怒りは神の選びの不公平に対する怒りです。ですからカインは顔を伏せて神の顔を見ようともしません。そのカインに主は問われます「どうして怒るのか、どうして顔を伏せるのか」(4:6)。神はカインの応答を待たれます。信仰の偉人たちは神に正面から向き合いました。エレミヤもダビデも主に激しく迫っています「主よ、何故ですか。何故このようなことをされるのですか」。神への怒りであれば神に問えばよいのに、カインは何も言わず「顔を伏せた」ままです。そのことによって、神に向くべき憤慨が弟アベルに向かいます。カインは弟を野に誘い、彼を襲って殺しました。
・主はカインに問われます「お前の弟アベルはどこにいるのか」(4:9)。カインの両親アダムとエバは罪を犯した後、神から身を隠し、「あなたはどこにいるのか」と問われました(3:9)。今、子のカインが主から問われます「あなたの兄弟はどこにいるのか」と。あなたは誰を隣人とするのか、誰に責任を持つのかが問われています。神は私たちの罪に対して責任を追求されます。罪が罪として明らかにならなければ、罪の赦し=救いはないからです。神は赦すために私たちを裁かれる、聖書が繰り返し述べる福音です。
・神の問いにカインは答えます「知りません。私は弟の番人でしょうか」(3:9)。神はそのカインに問われます「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」(3:10)。血が叫ぶ、アベルの血が大地に流れ、その血はカインを告発します。妬みは怒りとなり、怒りは人を死に導きました。カインは自分がないがしろにされたと怒りました。この怒り、自分は不当に扱われているとの怒りは、私たちも経験する怒りです。そして、怒りは神の前に持ち出さない時、人を殺人にさえ追い込みます。私たちもカインと同じ罪、殺人者になりかねない怒りという暗黒を内に秘めているのです。私たちもまたカインの末裔なのです。

2.罪を犯したものを捨てられない神
・カインの罪によりアベルの血が流れ、それが地を不毛にし、人の生存を脅かすようになります。主はカインに言われました「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(4:11-12)。大地は人の罪を通して呪われます。古代では気候不順があれば飢饉が生じ、大地の不毛が人々をその住む所から追い立てました。古代の人々は、大地の不毛を「人の罪により地が呪われた」と理解したのでしょう。現代の私たちも大地の不毛を知っています。チエルノヴィリの原発事故によりウクライナの農地は汚染され、呪われた不毛の地になりました。今回の福島原発事故による大地の汚染状況はまだ不明ですが、最悪の場合、多くの村や町が廃墟になる可能性を秘めています。「地はあなたの故に呪われる」、「人間の罪が地を汚している」状況は現在も続いているのです。
・カインは罪の宣告を通して、自分の犯した罪の重さを知りました。彼は恐れおののきます「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでしょう」(4:13-14)。自分も殺されるかもしれないという恐怖を通して、カインはアベルの苦しみを知り、神に助けを懇願します。神はカインのような殺人者の叫びさえ聞かれます。主はカインに言われます「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」(4:15)。誰かがあなたを傷つけようとしても私が許さない、私はあなたを保護し守る。そして神はカインにしるしをつけられました。神は殺人者さえも生きることを許されるのに、後代の人間は「人を殺した者は殺されなければならない」として、死刑制度を作りました。死刑制度は神の御心ではないことを銘記すべきでしょう。
・この「カインのしるし」をめぐって物語が展開するのが、ジョン・スタインベック「エデンの東」です。創世記では弟を殺して追放されたカインは、「主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」(4:16)とあります。「エデンの東」という小説のタイトルはここから来ています。この小説は、ある家族の「愛と憎しみの葛藤」を描いた物語です。父アダムは農園を経営していますが新事業に手を出して失敗し、全財産を失います。母ケイトは家庭を棄てて出奔し、今は娼婦宿の主人になっています。兄息子アロンは真面目な男で、恋人もおり、父に信頼されています。弟息子キャルは難しい性格で、家族の中で孤立しています。キャルは父親が兄だけを愛し、自分に冷たいことに怒り、兄アロンを傷つけるように仕向け、傷心の兄は戦争に行き、そこで死にます。親子関係の破綻が兄弟を死に追いやる、現代のカインとアベルの物語がそこにあります。創世記3章でアダムとエバが食べたのは「善悪を知る木の実」でした。「知る」とは「支配する」ことです。人は善悪を支配できるのか、家庭に中で、夫婦が憎しみあい、親子が対立し、兄弟が不仲である、現代のどこにもある家族像ですが、「産めよ、増えよ、地に満てよ」(1:28)と祝福された家族が何故互いに争うものになったのか、人は原罪を背負って、エデンの東に住む存在なのです。私たちもまた「カインの末裔」なのです。しかし神はカインに「しるし」を与え守ってくださった。現代の私たちにとってこの「カインのしるし」とは何なのか、それが今日知りたい事柄です。

3.しるしとしての十字架
・今日の招詞にマタイ18:21-22を選びました。次のような言葉です「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』。イエスは言われた『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。当時のユダヤ教では三度までは赦せと教えました。ペテロはその三度を七度まで拡大し、自分の寛容をイエスにほめてもらおうとしています。しかし、ペテロはまだ回数を数えています。イエスは七の七十倍赦せと回答されます。七の七十倍、無限に赦せという意味です。何故ならば、あなたも神によって無限に赦されているではないか。無限に赦されている者が何故人の過ちを赦せないのか。あなたが赦さないならば、神もまたあなたを赦されないだろうとイエスは言われるのです。「兄弟を憎む者は、兄弟を殺したのと同じだ」、怒りから殺人が生まれたのを私たちはカインの物語から見ました。カインの怒り、不公平な取り扱いを受け、ないがしろにされて、人を殺したいほど憎んだことは、私たちもあります。私たちもまたカインの罪の中にあるのです。しかし神はそのカインが生きることを赦してくださった、私たちもまた同じ赦しの中にあります。自分が赦されたのであれば他者を赦せ、赦しのないところには真の人間関係は成立しないとここで言われています。
・神はカインを追放されましたが、彼にしるしをつけて保護されました。カインは妻を娶り、彼女は子を産みます。創世記4章17節以下はカインの子孫についての記事です。カインの子孫からレメクが生まれますが、そのレメクは言います「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」(4:23-24)。七倍の復讐はカインを保護するためのものでしたが、レメクが主張する七十七倍の復讐は自己の力を誇示するためのものです。カインは自分の罪を自覚して生きましたが、レメクには罪の自覚はありません。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対します。自己の力への信頼が競争と対抗を生みます。この人間中心主義の流れが現代にも継続されています。
・アダムとエバは次男を殺され、長男は追放されます。主はアダムとエバに新しい子、セトを与えられます。そして、セトの子は「主の名を呼び始めた」(4:26)と創世記は記します。人間の弱さを知り、それ故に主の名を呼び求める人々の群れが生まれたのです。この流れの中で、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」との願いが生れていきます。赦されたから赦していく、神中心主義の流れです。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきました。カインの子孫たちは「人間に不可能なものはない。出来ない者は滅びよ」という考えを形成して来ましたが、セトの子孫たちは「人間は弱い存在であり、神の赦しの下でしか生きることが出来ない」ことを知ります。キリスト者は自分たちがセトの子孫であることを自覚します。
・私たちは何故聖書を読むのでしょうか。私たちの真実の姿、罪を知るためです。私たちもまた、カインの末裔なのです。「殺されたら殺し返す」のが当たり前の環境の中で、私たちは「七の七十倍までの赦し」を求めていきます。それはイエスの十字架を見つめる時にのみ可能になります。パウロは言いました「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(ピリピ1:29)。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちもまた赦しの中にある事を知ります。十字架を仰ぐ時、私たちはカインの末裔でありながら、「主の名を呼び求める者」に変えられていくのです。

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