江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年3月6日説教(列王記下22:1-13、主の言葉は滅びない)

投稿日:2011年3月6日 更新日:

1.歴史に翻弄される王たち
・列王記を読んでいます。今日与えられた個所は列王記下22章ですが、ここにはユダ王国最後の改革を行ったヨシヤ王の記事が記されています。ヒゼキヤ王の時代、ユダ王国はアッシリアの侵略を食い止め、なんとか独立を保ちましたが、ヒゼキヤの子マナセの時代に入ると、アッシリアはその勢力を増し、ユダは再びアッシリアの属国となり、マナセはアッシリアの国家祭儀を再びユダに導入します。列王記下21章は記します「マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった・・・ 彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。彼は父ヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し、イスラエルの王アハブが行ったようにバアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った」(列王記下21:1-4)。列王記はマナセほどの悪王はいず、彼の主に対する背信が、ユダ王国滅亡の原因となったさえ述べています。
・しかし、この世的に見れば、マナセはむしろ名君だったのではないかと思えます。彼の在位は55年に及び、ユダ王としては最長です。愚かな王であればこれほどの長い支配は難しい。マナセの時代、アッシリアの勢力は進展し、エジプトまで及ぶ大帝国を形成しています。小国ユダはこの大帝国に従わなければ生き残ることはできませんでした。そしてアッシリアに従うとは、必然的にアッシリアの国家祭儀を受け入れることであり、父ヒゼキヤとは違う生き方を選択するしかなかったのです。こうしてマナセの時代には、国内で親アッシリア派が台頭し、イザヤたち預言者は迫害されていきます。列王記は記します「マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させた。彼はその罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たした」(21:16)。伝承では預言者イザヤはこのマナセの時代に殺されたと言われています。先に述べましたように、列王記はこのマナセの背信がユダ王国を滅亡に追いやったとみています(21:11-13参照)。マナセが死んだ後、子のアモンが王位につきますが、彼はわずか2年の治世の後、宮殿内で暗殺されます。父マナセ以来の宗教政策に対する反発が国民の間にあったからだと言われています。その後、人々はまだ八歳であったアモンの子のヨシヤを王にします。

2.ヨシヤの登場と申命記の発見
・ヨシヤは、少年時代、祭司たちの教育を受けて育ち、成年に達した時に、いわゆる「宗教改革」を断行し、列王紀および歴代誌記者から高く評価されています。歴代誌は記します「その治世の第八年、彼がまだ若かったときに、父祖ダビデの神を求めることを始め、第十二年に聖なる高台、アシェラ像、彫像、鋳物の像を取り除き、ユダとエルサレムを清め始めた」(歴代誌下34:3)。ヨシヤの即位8年(ヨシヤ16歳、紀元前632年)はアッシリア王アッシュルバニパルが死んで、帝国の分裂が始まった時です。またヨシヤ即位12年(ヨシヤ20歳、前628年)はバビロニアやメディアがアッシリアへ侵略を始めた時です。つまりヨシヤの改革はアッシリアの国力衰退に呼応するようにして為されています。それは宗教改革であると同時に、アッシリアからの独立運動であったのです。古代社会において政治と宗教は不可分のものであり、アッシリアからの独立、民族国家の再生の運動が、主の神殿の改革になって行きました。そして治世18年(ヨシヤ26歳、前622年)に、律法の書の発見がありました。
・列王記は記します「ヨシヤ王の治世第十八年に、王は・・・書記官シャファンを主の神殿に遣わして言った。『大祭司ヒルキヤのもとに上り、主の神殿に納められた献金・・・を集計させなさい。それを主の神殿の責任を負っている工事担当者の手に渡し、更に神殿の破損を修理するために主の神殿にいる工事担当者に渡しなさい』」(22:1-5)。ヨシヤ王はエルサレム神殿の大がかりの改修工事を始めました。その時、大祭司ヒルキヤは神殿で律法の書を見つけたとしてヨシヤ王に差し出します。列王記は記します「大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに『私は主の神殿で律法の書を見つけました』と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。書記官シャファンは王のもとに来て、王に報告した『僕どもは神殿にあった献金を取り出して、主の神殿の責任を負っている工事担当者の手に渡しました・・・祭司ヒルキヤが私に一つの書を渡しました』と告げ、王の前でその書を読み上げた」(22:8-10)。この律法の書が現在の申命記の中核をなす「原申命記」と言われています。おそらくは、イザヤの影響下に為された宗教改革が挫折し、マナセの時代に異教化した宗教を清めることによって国を再出発させようとした祭司たちが、宗教改革案をまとめるも発表できず、神殿書庫にその書を収め、その原申命記を大祭司ヒルキヤが、「時が来た」としてヨシヤ王に渡したのではないかと推測されています。
・それを読んだヨシヤ王は衝撃を受けます。列王記は記します「王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた。王は祭司ヒルキヤ・・・書記官シャファン、王の家臣アサヤにこう命じた。『この見つかった書の言葉について、私のため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ』」(22:11-13)。ヨシヤはこの律法の書を通して、父祖たちの犯した背教の罪の恐ろしさを知り、このままでは国が滅びると思ったのです。申命記は記します「もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日私が命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」(申命記28:15)。そして、「あなたが悪い行いを重ねて、私を捨てるならば、あなたの行う手の働きすべてに対して、主は呪いと混乱と懲らしめを送り、あなたは速やかに滅ぼされ、消えうせるであろう」(同28: 20)。ヨシヤ王は申命記の記述に神の怒りを感じたのです。

3.申命記は生きている
・ヨシヤは見出された申命記に従い、徹底した宗教改革を進めます。列王記は彼を高く評価し、「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(23:25)と最大限の賛辞を捧げます。しかし、ヨシヤ王はやがてアッシリア亡き後の覇権を争うバビロニアとエジプトの戦いに巻き込まれて戦死し、改革は挫折します(前609年)。そしてヨシヤの死後、10年後(前598年)にはユダ王国はバビロニアに占領され(第一次バビロン捕囚)、20年後(前587年)にはバビロニア軍の侵攻でエルサレムは破壊され、王宮や神殿も炎上し、ユダ王国は滅びました。そのことを列王記は次のように評価します「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった」(23:26)。マナセの悪が大きすぎて、ヨシヤの悔い改めも国の滅亡を防ぐことが出来なかったと列王記は判断しています。これはどういうことでしょう。先にヒゼキヤ王の悔い改めによってユダをアッシリアから救われた主は、何故今回は歴史に介入されなかったのでしょうか。
・ヨシヤ王と同じころ召命を受けて預言者となったエレミヤは、その間の事情を次のように述べます「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日に至るまで二十三年の間、主の言葉は私に臨み、私は倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった」(エレミヤ25:3-4)。指導者であるヨシヤ王は悔い改めて改革を行ったが、その改革は表面的なものに留まり、国全体の悔い改めがなかったことが問題であるとしています。だから主は「お前たちが私の言葉に聞き従わなかったので、私は私の僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる」(同25:8-9)と言われると。
・申命記の発見もヨシヤの改革も全ては無駄に終わったかに見えました。申命記を編集した祭司たちの努力も報いられないと思われました。しかし主の御業はそこから働いて行ったのです。全ては滅びましたが、主はその滅びの中から、新しい命を起こされていきます。列王記は、捕らえられてバビロンで37年間獄中にあったエヨヤキン王がバビロン王の恩赦で釈放され、王の食卓につく者となったことで筆を置きます「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた」(25:27)。この出来事の中に列王記は未来への望みを託しています。そして、このエヨヤキン(エコンヤ)の末としてイエスが生まれられたとマタイは記述します「バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを・・・マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:12-16)。マタイは「神は滅ぼしても再び生かされる方だ」とその系図を通して証言しています。
・今日の招詞にマタイ22:35-38を選びました。次のような言葉です「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか』。イエスは言われた『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である』」。イエスが回答された「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言う言葉は、申命記6:4-5にあります。先に申しましたように、申命記はマナセ王時代に主への信仰が迫害された時、異教化した宗教を清めて国の再出発を図った祭司たちが密かにまとめた宗教改革案であり、それを渡されたマナセの孫ヨシヤの宗教改革の原動力になった書です。しかし、ヨシヤ王は志半ばで戦死し、改革は挫折し、それから20年後にはユダ王国は滅びます。申命記の発見もヨシヤの改革も全ては無駄に終わったかに見えました。しかし、ユダ王国が滅んだあと、600年を経過してイエスが来られました。そしてイエスはこの申命記の精神を生きられました。イエスは最も大事な戒めとして、申命記の言葉を引用され、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である」と言われました。またイエスは伝道を始める前に荒野で試練を受けられましたが、「石をパンに変えよ」との悪魔の誘惑に対して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある」(申命記8:3)と答えられます。「神殿の屋根から飛び降りたらどうか」との悪魔の誘いには、「あなたの神である主を試してはならないとも書いてある」(申命記6:16)と答えられました。「私を拝めば世の全てを与えよう」との誘惑には「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある」(申命記6:13)と答えられました。イエスの福音宣教の基本は600年前に与えられた申命記の新しい解釈によるものです。無駄に見えた申命記の編集がイエスによってよみがえり、今日の私たちに伝えられています。主の御言葉は滅びない、まさにかつて預言者イザヤが歌ったように「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)。この御言葉に立って、私たちは教会を形成して行きます。

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