江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年11月27日説教(ヨシュア記20:1-9、過って罪を犯した者の赦し)

投稿日:2011年11月27日 更新日:

1.過って罪を犯した者の赦し

・私たちは聖書教育を基本に毎週の説教をおこなっていますが、聖書教育ではこの半年間、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記とエジプトを解放された後のイスラエルの歴史をたどりながら、人々が約束の地に導き入れられたことの意味を学んでいます。今日は一連の旧約聖書の学びの最終回です。ヨルダン川を渡って約束の地に入ったイスラエルは、エリコを攻略し、他の町々をも征服して、獲得した土地を12部族で分配します。ヨシュア記13~19章はその土地の分配の記事です。土地の分配が終わった後、新たな命令がヨシュアに与えられました。「過って人を殺したものを保護するために逃れの町を制定せよ」との命令です。「イスラエルの人々に告げなさい。モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、意図してではなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる」(ヨシュア記20:2-3)。今日はこの「逃れの町」の規定を通して、主の御心を聞きたいと思います。
・主なる神はかつてモーセに、約束の地で土地が与えられたならば、その土地の一部を「逃れの町として制定せよ」と命令されました。そして土地の割り当てが完了した今、かつての命令を具体化せよとの指示がヨシュアに下ったのです。その命令とは次のようなものでした「主はモーセに仰せになった『イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがヨルダン川を渡って、カナンの土地に入る時、自分たちのために幾つかの町を選んで逃れの町とし、過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい。町は、復讐する者からの逃れのために、あなたたちに用いられるであろう。人を殺した者が共同体の前に立って裁きを受ける前に、殺されることのないためである』」(民数記35:9-15)。
・「人を殺した者は殺されなければならない」、これが旧約の大原則です。創世記は記します「あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する・・・人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」(創世記9:5-6)。しかし、過って人を殺した者を裁判の前に復讐者の前に差し出してはいけない、彼は殺されねばならない罪を犯していないから保護せよというのが逃れの町の規定です。「これらの町のいずれかに逃げ込む場合、その人は町の門の入り口に立ち、その町の長老たちの聞いている前でその訳を申し立てねばならない。彼らが彼を町に受け入れるなら、彼は場所を与えられ、共に住むことが許される。たとえ血の復讐をする者が追って来ても、殺害者を引き渡してはならない。彼がその隣人を殺したのは意図的なものではなく、以前からの恨みによるものでもなかったからである」(ヨシュア記20:4-5)。
・罪が故意であるか、過失であるかが、町の長老によって裁かれます。そして過失者の罪は軽減され、復讐者から保護されます。彼は、裁判が終わるか、大祭司が死ねば、自分の町に帰ることが出来ました。「彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、自分の家、自分が逃げ出して来た町に帰ることができる」(20:6)。20章7-8節を見ますと、逃れの町が設置されたのは、いずれも聖所のある町でした。「過って人を殺したものが神の救済を求めたらそれを赦し、保護せよ」という規定が今から3千年前に設けられていたのです。

2.犯罪と刑罰の歴史から導かれるもの

・人間は自分を攻撃した相手に対して無限の報復を求めます。それが人の本性でしょう。創世記に出てきますレメクという男は「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(創世記4:24)とうそぶきました。しかし、それでは正義が保たれない。無限報復を禁じるために、同害報復法(目には目を)が生まれてきました。「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」(出エジプト記21:23-25)。その中で、過失者に対する救済として「逃れの町」の規定が生まれて来ました。「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、私はあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる」(出エジプト記21:12-13)。しかし救済されるのはあくまでも過失致死の場合であり、故意に人を殺したものは救済対象にはなりません。出エジプト記は続けます「しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼を私の祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる」(出エジプト記21:14)。
・「罪なき者の血を流してはならない」。しかし、「罪は購わなければならず、有罪者を憐れんではいけない」と旧約は教えます。復讐者(ゴーエール)という言葉は、贖う(ガーアール)という言葉から来ます。レビ記は記します「生き物の命は血の中にある・・・血はその中の命によって贖いをする」(レビ17:11)。また人間の血が流されるということは地を汚す行為であり、「土地に流された血は、それを流した者の血によらなければ、贖うことができない」(民数記35:33)と規定されていました。赦されるのは過失者だけであり、故意に人を殺した者は赦されないというのが旧約の規定であり、これは現代の私たちの刑法も全く同じです。日本では刑法第199条に殺人罪の規定があり「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する」となっていますが、過失致死については刑法210条「過失により人を死亡させた者は、50万円以下の罰金に処する」とかなりの刑の軽減があります。もっとも業務上過失あるいは重過失の場合は懲役5年以下と重くなります(刑法211条)。ヨシュア記に現代の刑法と同じ規定が既に書かれていたことは驚くべきことです。

3.私たちと逃れの町

・しかしイエスは「過失者を赦すだけでは十分ではない。そこから、もう一歩踏み出せ」と私たちに命じられます。今日の招詞として選びましたのが、マタイ5:38-39です。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。イエスは「兄弟を憎む者は兄弟を殺したのと同じだ」と言われます(マタイ5:21-22)。人を憎んだことのない者はいません、人はみな潜在的な殺人者なのです。その中で私たちは主に赦されて生きています。「赦されて生きているのであればあなたも赦せ」とイエスは言われます。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7:1-2)。
・人を裁き、自分の手で報復をしようとする時、何が起きるのか。私たちはその具体例を9.11以降のアメリカの事例で学ぶことが出来ます。2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊され3000人が死んだ時、米国のブッシュ大統領は被災現場に立ち、演説しました「アメリカはテロリストを赦さない。彼らにアメリカの力を見せよう」。群集は熱狂し、ブッシュはテロリストたちの本拠地と目されたアフガニスタンを空爆し、テロ支援国家としてイラクに攻め込みました。そのアフガン・イラク戦争開始から10年が経ちました。戦争は泥沼化し、死者は米軍だけで6千人を超え、アフガン人やイラク人を含めると死者は10万人を超えます。人を赦さない者は自分も赦されず、受けた被害以上の報復を受ける。まさにイエスが言われた通りの出来事がここにあります。
・「目には目を」の報復が当然とされた時代にあって、過失者を赦せという規定が設けられました。今日の逃れの町は教会です。教会こそ、赦しの中に立てられているからです。今日の教会が何をなしうるか、一つの事例を考えてみたいと思います。自殺志願者保護を行なっている白浜バプテスト教会の働きです。現代の日本では年間自殺者数が3万人を越えていますが、自殺の名所となっている場所の一つが和歌山県南紀白浜の三段壁です。そこには自殺の場所を求めて多くの人が訪れますが、彼らは心の底では自殺に踏み切れず逡巡しています。本音は生き続けたいけれども、ここまで追い詰められてしまった、どうしよう。そんな人々を白浜バプテスト教会は「シェルター」として教会の建物や牧師宅で保護して来ました。この12年で保護した人の数は430人に達したそうです。当初は保護した後、帰る場所のない人を自宅や教会に泊めていましたが、次第に人数が増え、長期化するようになってきたため、近くのアパートを借りて共同生活の場を作り、NPO法人を立ち上げて,支援体制を整えています。希望すれば3食、無料で食事できる、職業訓練を受けに行く人も、仕事が見つかったが自活できるまで、ここから通っている人もいるとのことです。このような働きにより、自殺志願者たちの中から、自立して、新たな人生の出発に踏み切る人も出ています(朝日新聞2011/12/20夕刊から)。
・「シェルター」、これが「逃れの町」の現代的な呼び名です。避難所と言って良いでしょう。私たちの江戸川区にも生きる目標を失い、どうして良いかわからずに家に閉じこもっている人が大勢居ます。老人ホームや病院では多くの方たちが孤独地獄の中に苦しんでいます。私たちはこれからの教会の目標に、「新しい会堂に新しい働きを」を掲げました。立派な建物が与えられ、ここに教会があるという旗印を挙げることは出来ました。これから大勢の人々が教会を訪ねてくると思います。その人々に、この教会こそは、社会の荒波からの「逃れの町」であり、ここには平安があることを、身を持って示していき、待ち望んでいる人々に出来る限りの救援を行うことが必要です。それこそが今日、ヨシュア記の「逃れの町」の記事を与えられた理由だと思います。ヤコブは言いました「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:15-17)。「生きた信仰を持て」と励まされています。

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