江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年11月20日説教(ヨシュア記6:1-21、エリコの城壁が崩れた)

投稿日:2011年11月20日 更新日:

1.エリコ攻略

・先週私たちは、ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って約束の地に入ったことを学びました。新しい地に入った彼らが最初に行ったのは礼拝です。ヨシュア記は記します「イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた」(5:10-11)。その日を境に、「荒野でイスラエルの民を養ったマナは絶え、なくなった」(5:12)、荒野の旅は終り、定住してその地の作物を食べる生活が始まったのです。この過ぎ越しの祭りはイスラエルの民の収穫感謝祭です。私たちの教会も40年間の荒野放浪の後、新しい教会堂が与えられ、新しい教会形成を目指すこととなりました。本日午後に行われます献堂式は、私たちにとって一つの節目、約束の地での生活の始め、収穫感謝祭です。
・その献堂式当日の主日礼拝に読むように、ヨシュア記6章が与えられました。イスラエルが約束の地でエリコという町を攻略した記事です。準備が整った民は約束の地に進みゆきますが、約束の地は無人の荒野ではありません。そこは豊かな土地であり、先住の民がいます。約束の地に入るとは、先住の民と戦い、その土地を奪い取ることです。いよいよ戦いが始まります。その最初の戦いが行われた場所がエリコです。ヨルダン川を渡ったイスラエルはエリコ攻略に向かいますが、町は攻撃を予想して、城門を閉じていました。高い城壁が目の前にあります。どのように攻略すべきか、強行突破をすれば多くの犠牲が出ます、ヨシュアは迷いました。その時、ヨシュアに主の命令が下ります「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい」(6:3-5)。
・城壁の周りを回っても壁が崩れるとは考えられません。私たちの目から見ると、非合理的な命令です。それでもヨシュアは命令に従いました。雄羊の角笛を携えて、神の箱を先導しながら城壁を回ることが6日間行われました。エリコの守備隊はイスラエルの民を嘲笑したに違いありません「そんなことをして何になる」。しかし、イスラエルの民は行進を続けます「祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、更にその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返した」(6:12-14)。ヨシュアは民に「口から言葉を発してはならない」(6:12)と緘口令を強います。もし、民に自由に語らせたらなら、不満の声が出て、作戦は失敗したでしょう、「こんな事をして何になる、馬鹿らしい」、そのようなつぶやきが出かねない作戦でした。七日目にヨシュアは町を七たび回るように命じ、その後で、民に鬨の声を上げさせました。その時、エリコの城壁は崩れたとヨシュア記は記します「角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した」(6:20)。

2.神の命に従う時、何かが起きる

・何が起きたのでしょうか、考えられることはヨシュアと部下は6日の行軍中に、城壁の構造を観察し、弱い部分の漆喰やれんがをはずす等の下工作を密かに行い、7日目にその部分を集中攻撃したのではないかということです。奇跡はただ待っていても起こらない。私たちが主の命令に従って行動する時、主が力を与えて下さる、それが奇跡です。パウロはコリント教会の人々に言いました「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(�コリント3:6)。神がコリント教会を造って下さった、しかしパウロやアポロの努力なしにはコリント教会は生まれなかったのも事実です。私たちの新会堂も同じです。「主がこの会堂を建てて下さった」と私たちは信じます。しかし同時に私たちが精一杯の献金をし、畑先生が設計で工夫をこらし、福田組や中山工務店が汗を流してくれたから建ったのです。「主は私たちの力を用いてその業を為される」、ヨシュアも主の命令を真正面から受け止め、やるべきことをやったからエリコの城壁は崩れた。それが信仰だと新約記者も述べています「信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました」(ヘブル11:30)。
・エリコの攻略はヨシュアたちの努力によって生じましたが、それ以上に神の出来事であったとヨシュア記は記します。物語には七の数字が繰り返し現れます「七人の祭司が七つの角笛を吹き、七日間にわたって七回城壁の周りを回る」、ヨシュア記6章には七という数字が14回も出てきます。七は聖なる数字、ここに描かれているのは実際の戦闘場面というよりも、宗教的な祭儀行為なのです。その視点で記事を読む必要があります。
・ヨシュア記6章にあります「滅ぼし尽くせ」という記事は多くの人を困惑させてきました。17節は言います「町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主に捧げよ」。また21節には「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」とあります。ヨシュアたちは町の住民を皆殺しにしたのでしょうか。イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:44-45)と言われました。その同じ神が、「町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして捧げよ」と命じられるのだろうかと言う疑問です。
・ヨシュア記が歴史書ではなく、信仰的な視点から戦いを描いたものである事を知る時、解釈は異なってきます。「滅ぼし尽くせ」という言葉はヘブル語「ヘーレム」ですが、これは元来「捧げ物」をするという意味です。捧げ物の最たるものは「焼き尽くす捧げ物」です。「惜しむな、すべてを捧げよ」という意味です。「エリコの町を約束の地での最初の捧げ物として捧げなさい。住民を奴隷にしたり、家畜を自分のために取っておくな。主は必要なものを与えてくださるから、惜しむな」という命令がヘーレム=滅ぼし尽くせという意味です。実際の歴史において、エリコの町の住民全てが殺し尽くされたわけではないことを銘記すべきです。

3.ヨシュア記と私たち

・今日の招詞に士師記1:19を選びました。次のような言葉です「主がユダと共におられたので、ユダは山地を獲得した。だが、平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった」。ヨシュア記にはヨルダン川西岸の土地はすべてヨシュアによって占領され、ヨシュアは土地を12部族に分けたという記事があります(11:16-17)。しかし実態は、ペリシテ人やカナン人の土地の大半は残り、取得できたのは山地だけであったと士師記1章は記します。士師記は、「平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった」ことを素直に認めています。考古学資料も、約束の地の占領は武力で獲得されたというよりも、長い時間をかけてイスラエルの民がその地に定着して行き、ヨシュアから数百年後のダビデ・ソロモンの時代に土地の占領が完了したことを伝えています。ヨシュアの時には、イスラエルの全地占領と聖絶(住民を滅ぼし尽くす)は実際には行われなかったのです。私たちは聖書を多面的に読む必要があります。現実は現実として受け入れ、その中に主の御心を求めていく。ヨシュア記と共に士師記が与えられている意味はそういうことだと思います。ヨシュア記のみを読んで士師記を無視することは主の御心ではありません。
・しかし同時に、「主が約束の地を与えて下さった」ことを、感謝を持って受け入れることは、それ以上に大事なことです。「ジェリコの戦い」というゴスペル曲があります(Joshua Fit The Battle O´Jerico)。次のような歌詞です「あの朝、ジョシュアはジェリコで戦った、ジェリコ、ジェリコ。ジョシュアはジェリコで戦った、すると砦の壁は崩れて落ちた・・・ジェリコで戦ったジョシュア程素晴らしい人はいない。万能の神よ、ジェリコの砦のてっぺんへ、あの人は槍を手に進軍したのだ。『さあ 羊の角を吹き鳴らせ』ジョシュアは叫んだ。『戦いはわが手中にあり』。羊の角のラッパは鳴り出した、響き出した、ジョシュアは皆に『叫べ』と命令した。叫んだ瞬間、砦の壁は崩れて落ちた。あの朝、ジョシュアはジェリコで戦った・・・ジョシュアはジェリコで戦った。すると砦の壁は崩れて落ちた」。ゴスペルはアメリカの黒人奴隷の苦難の喘ぎの中で生まれた音楽です。彼らは故郷アフリカから強制的にアメリカに連れてこられ、辛い奴隷労働を強いられました。その彼らにエリコの出来事は希望を与えました。いつの日か、自分たちを縛る奴隷の鎖が崩れる日が来る。主がエリコの城壁を崩して下さったように、私たちを縛る鎖も崩れ去る。「戦いはわが手中にあり」、その希望を彼らは「Joshua Fit The Battle O´Jerico」という歌の中に読み込んでいったのです。その熱い思いが後代のキング牧師やその他の人々に継承され、黒人たちは自由を勝ち取りました。
・私たちには現実を見つめる冷静な目と、その現実を超えて御業を行われる神への信仰の双方が必要です。それを代弁してくれるのがラインホルド・ニーバーの祈りです。前に何度かご紹介しましたが、現代の私たちを導く祈りだと思います「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」(ラインホルド・ニーバー・大木英夫訳)。 世界を知るためには冷静な知識が必要ですが、世界を変えるためには熱い信仰が必要なのです。冷静な知識と熱い思いを持って、この地に教会を形成していく、その思いを今日は確認したいと思います。

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