江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年5月23日説教(マタイ16:13-20、教会の使命)

投稿日:2010年5月23日 更新日:

1.ペテロの信仰告白

・教会は三つの時を大事な時として覚えます。キリストが生まれられたクリスマス、キリストが復活されたイースター、そしてキリストの霊である聖霊が弟子たちに与えられたペンテコステの三つです。今日はペンテコステをお祝いする礼拝を皆さんと共に持ちます。ペンテコステとは50の意味です。イエスが復活されてから50日目に弟子たちに聖霊が降り、それまで人を怖れて逃げ隠れしていた弟子たちが、公衆の前に出て、「イエスこそ神の子であった」と宣教を始めました。その言葉を聞いた人々が心動かされてバプテスマを受け、以後その日が教会の誕生日として祝われるようになりました。初代教会では、この日に人々が白い衣を着てバプテスマを受けましたので、この日はWhite・Sunday (白衣の日曜日)とも呼ばれます。
・私たちの教会でも、今日のペンテコステ礼拝で一人の男性がバプテスマを受けました。今日バプテスマを受けたK兄は最初に信仰告白をされました。この告白は人間的に見ればK兄の決断ですが、信仰的に見れば、聖霊の働きです。聖霊はK兄弟の上に働いて、「今までの人生でイエスがいつも共にいてくれた」ことを思い起こさせ、「もう一度やり直すために、イエスを信じていきたい」との願いを与えてくれました。これは2000年前のペンテコステの日に起こった出来事と同じです。ペテロは言いました「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2:36)。それに対して人々は答えます「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」(使徒2:37)。人々はペテロの勧めに応じてバプテスマを受けました。K兄も教会の勧めに従って再バプテスマを受けられました。
・今日私たちはマタイ16:13-20を読みます。イエスが「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われ、それに対してペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白する場面です。バプテスマ式にふさわしい聖書箇所であり、このことを通して、信仰告白とは何か、その告白の上に立てられる教会とは何かを考えていきます。
・さて、イエスは残された時が少ないことを思い、ガリラヤでの宣教活動から退き、少数の弟子たちと北方の地を旅されます。イエスはこの短い休息の後に、エルサレムに向う決意をされています。そのエルサレムでイエスは捕らえられ、殺されるでしょう。イエスは待ち受けている受難を弟子たちにあらかじめ伝え、彼らにも決意を求めたいと思われました。受難の決意を話される前に、イエスはまず弟子たちが自分をどう理解しているのかと尋ねられます。人々はイエスを「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」などと言っています。イエスの力ある言葉と行いを見て、人々はイエスが「天から遣わされた者」、もしかしたら「メシアではないか」と思っていました。弟子たちもそう思っていました。その弟子たちに、イエスは「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」(16:15)と尋ねられます。そのイエスの問いに弟子たちを代表する形でペテロが答えます「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)。
・ペテロの告白した、「メシア」という言葉の背景には、旧約聖書的な理解、すなわち、イスラエルを異教徒の支配から解放し、栄光を与える救済者が来るという期待が含まれています。当時の人々は、自分たちをローマ帝国の支配から解放し、ダビデ・ソロモンの栄光の時代を再び建ててくれるメシアを待望しており、ペテロの告白もその方向性の中にあります。そのペテロの告白に対して、マタイは17節以降でイエスの祝福の言葉を記します。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。・・・あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる」(16:17-18)。
・しかし私たちはこのイエスの祝福に違和感を覚えます。何故ならば、イエスがこれから向かわれるのは十字架の道、苦難の僕の道であり、ペテロの期待する栄光のメシアの道ではないからです。イエスが、ペテロの誤解を承知の上でペテロを祝福されるはずはありません。この16章17−19節をどう理解するかが、今日の課題になりますが、とりあえず素通りして、20節以下を読みます。20節でイエスは言われます「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(16:20)。イエスはご自身が人々の期待する栄光のメシアではないことを自覚しておられましたので、誤解を招かないように、「御自分がメシアであることをだれにも話さないように」と命じられます。

2.ペテロを叱責されるイエス

・イスラエルの宗教指導者たちはイエスに敵対し、迫害の度を強めています。エルサレムに行けば受難は避けられないでしょう。しかしそれが父なる神の御心であればあえて受けようとイエスは決心しておられます。だからイエスは「自分はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されるだろう」(16:21)と弟子たちに受難を告示されます。弟子たちは自分たちの耳を疑いました。神から遣わされたメシアが殺されて死ぬ、そんなことがありえようか。マタイは「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(16:22)と記します。ペテロは言います「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」それに対してイエスは「サタン、引き下がれ」とペテロを激しく叱りつけます。
・人はいつも栄光のメシアを求めます。自分もその栄光に預かりたいからです。イエスはガリラヤで多くの癒しを行い、力強い言葉で神の国の福音を説かれました。イエスの行く所、どこでも大勢の民衆が押し寄せました。ペテロたちは民衆に絶大な人気を博されているイエスが、自分たちに声をかけてくれたから従ったのです。「この人に従っていけば、自分たちも人から賞賛される存在になるだろう」と期待したからこそ、彼らは漁師の職を捨て、家族も財産も捨てたのです。しかし今その計算が崩れようとしています。イエスがエルサレムで王位につかれて自分たちも相応の地位を与えられると期待していたのに、「死ぬためにエルサレムに行く」とイエスは言われます。「冗談ではない。私たちは何のためにあなたに従って来たのか」という思いが、ペテロの激しい言葉を引き出しています。そのペテロにイエスは「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しく叱責されました。
・この出来事からわかることは、イエスの生前、弟子たちは本当にはイエスに従わなかったし、本当には信仰告白もできなかったという事実です。ですから、彼らは、イエスが捕らえられた時、逃げ去ります。しかし弟子たちはイエスを愛し、慕っていました。イエスが逮捕されて大祭司の屋敷に連行された時、ペテロは心配になって、その屋敷に忍び込みます。しかしそこで人々に、「お前はイエスの仲間だ」と告発され、ペテロは三度、「そんな人は知らない」と否定します。彼はイエスに従い続けることができなかったのです。その彼が復活のイエスとの出会いを通して変えられていきます。ヨハネ21章は、イエスの十字架死の後、失望した弟子たちがガリラヤに帰り、もとの漁師に戻った事を伝えますが、その彼らに復活のイエスが現れ、共に食事をされます。食事の後で、イエスはペテロに三度聞かれます「あなたは私を愛するか」(ヨハネ21:15~17)。ペテロは三度イエスが「私を愛するか」と問われたことで、悲しくなりました。その悲しみの中でペテロは告白します「私はあなたを裏切りました。あなたに従うことが出来ませんでした。でも心からあなたを愛しています。そのことをわかって下さい」。ここに初めて真実の信仰告白がなされました。悔い改めたペテロにイエスは言われます「私の羊を飼いなさい」。イエスは挫折した者を捨てられず、むしろ挫折によって自分の無力を知った者に、神の業を託されます。

3.その委託の言葉がマタイ16:17−19にある。

・今日の招詞にヨハネ20:22-23を選びました。次のような言葉です「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。復活されたイエスが弟子たちに命じられた宣教命令の言葉です。この言葉を読む時、私たちはそこにマタイ16:19と同じ言葉が語られていることに気付きます。マタイは記しました「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:19)。そうです、マタイ福音書に書かれているイエスの祝福の言葉は、実は弟子たちが復活のイエスからいただいた委託の言葉なのです。
・生前のイエスは、「神の国は来た」と宣教されました。そのイエスが十字架で死なれ、復活して弟子たちに現れ、弟子たちはイエスが神の子であったことを知りました。そして弟子たちは告白します「あなたこそキリスト、生ける神の子です」(16:16)。その告白に対して、復活のイエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(16:17-18)と祝福しておられるのです。すなわち、マタイは地上のイエスの口を通して、自分たちの教会に与えられた使命をここに書いているのです。
・復活のイエスは弟子たちに言われます「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。天の国の鍵が教会に与えられている、それは教会が権力を握って、ある人を天国に入れ、ある人を入れないということではありません。すべての人に天の国は解放されています。教会は人々にイエスの言葉を伝え、信仰に導くことによって、天の国の門を開ける役割を持つということです。それを信じるゆえに、私たちは教会で信仰を告白し、そのしるしとしてバプテスマを受けます。
・ただ問題があります。それは地上を生きる私たちは、本当の意味での信仰告白をすることが難しいという事実です。ペテロの信仰告白にしても最初は間違った信仰告白であり、「サタンよ、退け」とイエスに叱責されています。ペテロは、その後長い時間をかけて、本当の信仰告白にたどり着きました。私たちも同じです。信仰告白をしてバプテスマを受けても、多くの人々は数年もすれば教会から離れ、信仰をなくしていきます。しかし、教会はいつでも彼らの立ち返りを待ちます。そして帰ってきた人々に対し、「あなたの罪は赦された」と宣言します。それが「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」ということなのです。今日、信仰告白をしてバプテスマを受けられたK兄も、これからのいろいろな出来事の中で、「神は本当におられるのか」、「神は本当に自分を愛してくださるのか」と思い悩む時があるでしょう。教会を離れ、信仰を無くすこともあるかもしれません。しかし、人生はいつでもやり直しが出来ます。キリストはいつでも帰還を待っておられ、教会はいつでも赦しの準備をしています。そのことを信じて、私たちは信仰を告白し、バプテスマを受けるのです。

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