江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年5月16日説教(マタイ8:23-27、何故怖がるのか)

投稿日:2010年5月16日 更新日:

1.マタイは自分の教会へのメッセージとして語る

・私たちは聖書教育に従ってマタイ福音書を読んでおります。本日の聖書箇所は、イエスと弟子たちが向こう岸に行こうとして舟に乗り込まれた所、激しい嵐に見舞われ、舟が沈みそうになりますが、イエスが風と湖を叱られた所、凪になり、弟子たちが「一体この方はどなたなのか」と驚き畏れる物語です。「嵐を静めるイエス」、あるいは「嵐の中の弟子たち」と題する説教を、みなさんもお聞きになったことがあるかもしれません。聖書教育は8章18節から読むように指示していますが、私たちは23節からに範囲を限定して、細かく内容を見ていきます。といいますのは、この物語の原型はマルコ福音書にあり、ルカ福音書はほぼマルコの内容を踏襲していますが、マタイはその内容を大きく変えて、別の物語にしているからです。ですから、今日は、少し煩雑になりますが、マタイの記述と他の福音書の記述を比較しながら、この物語を詳しく見ていきます。
・イエスはガリラヤ湖のほとりで人々を教えておられましたが、夕方になりましたので、人々を解散させ、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」(8:23)、12人の弟子たちは舟を漕ぎ出し始めました。舟を漕ぎ出してまもなく、突然強い風が吹き始め、波が激しくなりました。マタイは記します「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」(8:24)、マルコやルカは「突風」という言葉を用いますが、マタイは嵐=ギリシャ語では地震を示すセイスモスという言葉を用います。単なる突風ではなく、足元が揺れ動かされるような、大地震のような大きな揺れが起こったとマタイは報告します。ペテロやアンデレはガリラヤの漁師であり、湖の暴風雨には慣れているはずです。しかし、その彼らでさえどうしようもないほどの激しい嵐が起こり、「舟は波にのまれそうに」なります。沈没して死ぬかもしれないという危機に襲われたのです。
・しかし、「イエスは眠っておられた」(8:24b)。イエスは一日の活動の疲れのためか、深い眠りに落ちておられました。弟子たちは慌てます。彼らはイエスに近寄り、訴えます「主よ、助けてください。おぼれそうです」(8:25)。原文を直訳しますと「主よ、救い給え、滅ぼされそうです」になります。並行箇所のマルコでは「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4:38)とあり、またルカでは「先生、先生、おぼれそうです」(ルカ8:24)になっています。嵐の中で舟が沈みそうになっている状況下では、マルコやルカのように「先生、溺れそうです。助けてください」と叫ぶのが普通なのに、マタイでは「主よ、救い給え、滅ぼされそうです」とまるで祈りのような言葉に変えられています。実際にマタイの言葉は、初代教会の祈祷文の中に見いだせます。おそらく、マルコやルカは伝承をそのまま物語っているのに対し、マタイは伝承を一部変えて、自分の教会へのメッセージとしているのです。
・ここで私たちは福音書の二重構造という問題に留意する必要があります。イエスと弟子たちが湖で嵐にあったのは紀元30年頃です。その話を伝承として継承したマタイが、それから50年後の紀元80年頃に、自分たちの教会が置かれている状況の中で語り直しています。マタイの教会はユダヤ教からの激しい迫害の中にありました。マタイ23章には「あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」(23:34)という言葉があります。マタイの教会の人々はこのような迫害の嵐の前で怖れおののき、震えていたのです。その状況の中で、マタイは「主よ、救い給え、滅ぼされそうです」と叫んでいるのです。
・その叫びを聞いたイエスは、弟子たちに「何故怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われます(8:26)。弟子たちはイエスの説教を聞き、その癒しの業を見て驚き、この人こそメシヤ、救い主だと思い、従ってきました。しかし、現実の困難に出会うとその信仰は吹き飛んでしまいます。彼らに信仰がないわけではありません。しかし、その信仰は嵐の前では何の役にも立たないものだったのです。
・イエスは弟子たちを放置されません。マタイは記します「そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった」(8:26b)。お叱りになる、エピティモーという言葉ですが、通常は悪霊=サタンを追い出す時に用いる言葉です。マタイは暴風雨の背後にはサタンがおり、イエスがサタンをお叱りになると、湖は静まったと表現しています。つまり、自分たちを迫害するユダヤ教会の背後に悪霊=サタンがいても、イエスはかつてサタンを追い出された、だからユダヤ教会からの迫害に屈するな、私たちの教会(舟)にはこの天地を支配されるイエスが共におられるではないかと。初代教会は自分たちのシンボルとして、「舟」を用いていました。
・マタイは記します「人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った」(8:27)。ここでまたマタイ特有の表現、「人々」が出てきます。並行箇所のマルコやルカは素直に「弟子たちは驚いた」と記しますが、マタイは「人々は驚いた」と伝承の一部を変えています。マタイは教会の会衆に対してこの言葉を語っています。「人々」とは、「此の話を聞いている人々」教会の人々なのです。マタイの教会は迫害の中にあり、人々は恐れまどっていました。その人々が驚いた、「主イエスは生きておられる、生きて私たちと共におられる」、それを知った驚きがここにあるのです。

2.この物語を私たちの物語として聞く

・先に申しましたように、この物語はマルコにもルカにもあり、マルコとルカは伝えられた伝承をそのまま記しました。しかし、マタイはその伝承を一部編集して、自分の教会へのメッセージとして記録しました。教会が危急存亡の時にあったからです。マタイはイエスの言葉を、教会へのメッセージとして、聞き直しました。ですから、私たちもこの物語を現在の私たちへのメッセージとして聞き直します。その時、どのようなメッセージが聞こえてくるのでしょうか。
・イエスは弟子たちを叱られました。それは、イエスが共におられたのに、彼らが恐れおののき、慌てふためいたためです。「どうして怖がるのか、まだ確信を持てないのか」とイエスは私たちに語りかけられます。私たちもこの弟子たちと同じように、毎日聖書を読み、毎週説教を聞き、神の不思議な業を体験してきたのに、一度嵐になると、あたかも神がおられないかのように慌てふためきます。イエスは嵐の中で熟睡されておられました。神に対する信頼の故です。イエスは言われました「一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(10:29)。天地は父なる神の御手の中にある。雀さえも神の許しなしには死ぬことはない。ましてやあなたがたは神の子とされているではないか、それなのに何故怖れるのかとイエスは言われています。赤子はどのような嵐の中にあっても母親が抱いていれば安眠する、あなたがたもそのように安心して父に全てを委ねればよいのだと言われているのです。しかし、私たちは、自分の安全を神に委ねきることは出来ません。
・私たちは、順調な時には、神が共にいてくださるという事実を、感謝をもって承認します。しかし、危急存亡の時には慌てふためきます。神がおられるという事実が何の意味もないように思えます。神が沈黙されている、主は眠っておられるように思えるからです。人生には必ず嵐があります。その嵐は私たちの存在基盤を揺り動かします。勤め先の人員整理で職を失う人はこれからの経済生活をどうしたら良いか戸惑うばかりです。健康診断で癌が宣告され、恐怖に震える時もあります。愛する人が亡くなって悲嘆に暮れ、あるいは離婚を余儀なくされて孤独に追い込まれる人もいます。誰かに起きている出来事が自分に起こる時、私たちは絶望の淵に追い込まれます。いくら祈っても新しい職は与えられず、いくら祈っても病の癒しはない。私たちは救いを求めて叫びます。しかし、目に見える助けがすぐに来ない時、私たちは信仰を保てるのか、叫んでも応答がない神に自己を委ね続けることが出来るのか。そのことが今日、問われています。
・マタイは、信仰が揺らいだ時には、イエスが起きられるまで、叫び続けよと教えます。イエスは、必ず起きて下さり、「黙れ、静まれ」(マルコ4:39)と嵐を静めて下さる。その後で、私たちは叱られるかもしれない。しかし、その叱りを通して、私たちは成長していきます。人は順調な時には自分の欠けているところや足らないものが見えません。イエスの弟子たちも、主に従う者として、信仰と信頼にあふれて舟に乗り込みましたが、一旦嵐にあうと、今まで信じていたものはどこかに飛び去り、慌てふためきます。彼らがイエスに言った言葉を思い起こして見ましょう。「主よ、救って下さい。滅ぼされそうです」(8:25)。弟子たちは、「自分たちは死にそうになっているのに、あなたは私たちをほったらかしして平気なのですか」とイエスを責めているのです。それが人間なのです。苦難に会うと人は信仰をなくしてしまう存在なのです。今この時、神の国の喜ばしい知らせなどは弟子たちの頭からすっかり消えうせています。彼らの頭にあるのは溺れる、死ぬ、滅ぼされる、その恐怖だけです。
・福音は聞いただけでは人を変える力を持ちません。福音を生きるようになって、人は変わり始めます。福音を生きる、信仰を持つことの第一歩は、自分が無信仰である事を知ることから始まります。私たちは苦難を通して、自分の真実の姿を示され、自分に頼る事が出来ない事を知らされ、神を求め始めます。その時始めて、神は応えて下さいます。病気、苦難、天災、その他全ての不幸には意味があります。神はそれぞれの苦難を通して、私たちを導かれます。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(ヨブ記36:15)。嵐もまた神からの祝福なのです。

3.この方に信頼して生きる

今日の招詞に�コリント1:10を選びました。次のような言葉です「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」。
・パウロはアジア州で死ぬような目にあったといっています。重い病気にかかって、生死をさまよったのかもしれません。牢獄にとらえられ、死刑を覚悟したのかもしれません。余りの苦しさに生きる望みを失い、心中密かに死を覚悟したのでしょう。しかし、神はその苦難からパウロを救って下さった。この事を通して、パウロは問題を自力で解決しようとしていた誤りがわかったと言っています。今日の招詞の前に彼は書きます。「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて・・・死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。
・信仰は生きた体験の中から生まれてきます。「もう駄目だという時に神が救って下さった」、このような体験をした者は、今後も来るであろう苦難の中にあっても、神を信頼して生きていくことが出来ます。イエスは信じる者は病気をしないとか、愛する者を奪われることはないとか、苦難は臨まないとかは約束されませんでした。私たちも病気にかかり、愛する者が死に、苦難は臨むであろうと言われています。舟が沈むこともありうるのです。ただ、イエスは約束されました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。
・私たちの人生は海を航海する舟のようです。海の上を航海しますから、常に不安定です。戸板一枚の下には、底知れない闇があります。嵐が来れば、木の葉のように翻弄されます。しかし、私たちの舟にはイエスが乗っておられる。「風と波を叱り、静める力をお持ちの方が、私たちと共におられる」、その事を私たちは信じることが許されている、これが福音です。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださった・・・これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」、こう言える人こそ、人生における宝物を獲得した人なのです。

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