1.キリストを受入れない同胞への悲しみ
・ローマ書を読んでおります。パウロは異邦人伝道者として召命を受け、多くの異邦人をキリストに導きました。それはパウロには大きな喜びでしたが、同時にパウロには忘れることの出来ない問題がありました。それは同胞であるユダヤ人が今なおキリストを拒絶し続けていることでした。「キリストの十字架を通して神と和解し、救われる」と信じるパウロにとって、キリストを拒絶することは神を拒絶することであり、それは滅びを意味しました。神はユダヤ人を御自分の民として選ばれたのに、今は捨てられたのか、私の同胞は滅びに至るのか、その問題を述べた箇所が今日のテキスト、ローマ書11章です。ただ議論は9章から始まっていますので、折に触れて9-10章も見てみます。
・さて、ユダヤ人は神の民として選ばれた民族です。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記12:3)。ユダヤ人を通して、神は人類を救おうとされ、その約束はユダヤ人として生まれられたキリストの来臨により成就しました。クリスマスはそのことを祝う時です。しかし、ユダヤ人たちはこのキリストを殺し、今なおキリストの教会を迫害しています。何故彼らは神の憐れみであるキリストを受入れることが出来ないのか。彼らは神に捨てられたままで、永遠の滅びの中に入ってしまうのか。それはパウロにとって耐えられない悲しみでした。彼は言います「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9:3)。神を知らない者は、自分の不幸や欠陥を悲しみます。しかし、神を知った者は、他人の不幸や欠陥に無関心ではいられないのです。
・このパウロの悲しみを私たちも持ちます。日本に福音が伝えられて100年以上も経ちますが、まだほとんどの日本人はキリストを受入れようともしません。私たちの家族でさえ、福音を信じようとしません。日本では妻がクリスチャンになっても、夫は聖書の教えに無関心である場合が多くあります。教会に行き始めた子供たちも、大きくなって教会を離れることが多いのが現実です。また一度は洗礼を受けた人がやがて信仰から離れることもあります。「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)と私たちは信じますが、それでは、キリストを信じることなしに死んでいくかも知れない、私たちの夫や妻、子供たち、あるいは教会を離れた人たちは滅びるしかないのでしょうか。パウロの歎きは私たちも真剣に考えるべき問題を迫ってきます。
・パウロは言います「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(11:1)。パウロは今、当時の世界の中心地ローマに行こうとして、その準備のためにローマ教会に手紙を書いています。異邦人に福音を伝えているパウロはユダヤ人であり、同じ働きをしているペテロもまたユダヤ人です。しかしユダヤ人の多くは福音に心を閉ざし、むしろ福音に敵対し、これを迫害しています。しかし、パウロは神の経綸を信じ、ユダヤ人がキリストを拒絶するのもまた神の計画の中にあると信じます。ではなぜ神はユダヤ人の心を福音に対して閉ざされたのか、そこまで考えて行った時、パウロは驚くべき逆説に気づきます。すなわち神は「異邦人を先ず救うことを通してユダヤ人を救おうとされているのではないか」との逆説です。それが今日のテキスト11:11の箇所です「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」。
・パウロ自身最初はユダヤ人同胞に伝道しましたが、彼らが受け入れなかったため、進路を異邦人の方に向けました。使徒行伝13:46はパウロの言葉を伝えます「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」。もしユダヤ人がイエスを受け入れてこの福音を信じたならば、キリスト教はおそらくユダヤの民族宗教に留まり、全世界に述べ伝えられることはなかったでしょう。しかし神の民イスラエルの反逆によって、キリスト教は民族を超え、今ローマにまで伝えられて行きました。まさにユダヤ人の背信が神の経綸の中で決定的な役割を果たしたのです。それだけではなく、救いが異邦人に及ぶことを通して、一度は福音を捨てたユダヤ人がまた神の下に帰るという幻をパウロは与えられました。それが11:12の言葉です「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。私たちもまた、たとえ家族や友人が今は福音に心を閉ざしているとしても、それは神のご計画の中にあるのであり、いつの日家族もまた受け入れるという希望を持つことが許されているのです。
2.先に救われた者の役割
・では先に救われた異邦人の役割は何でしょうか。それはユダヤ人に妬みを起させることだとパウロは言います「あなたがた異邦人に言います。私は異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(11:13-14)。あなたがたの救いを通してユダヤ人に妬みを起させ、彼らをもう一度神のもとに連れ帰ることこそ、あなた方の使命なのだとパウロはここで言います。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」(11:15-16)。私たちの経験では、妻の信仰を見て夫が変えられて行く、あるいは子の生活の変化を見て親が信仰に入ることがあります。まさにそのような出来事が起こるとパウロは言います。
・パウロはユダヤ人と異邦人の関係を根と接木という例えで説明します。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11:17-18)。あなたがた異邦人の救いは、ユダヤ人という幹に野生のオリーブが接木されたようなものであり、接木された枝が根であるユダヤ人に対して、誇る所は何もないとパウロは言います。しかし、異邦人は、神はユダヤ人を捨てられ、自分たちを選ばれたのだと誇りました。「あなたは『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(11:19-20)。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」というパウロの言葉は2000年の歴史を振り返る時、大きな意味を持っています。パウロの時代、ユダヤ人がキリスト教徒を迫害していました。しかしキリスト教がローマの国教となってくると立場が逆転し、今度はキリスト教徒がユダヤ人を、「キリストの殺害者」として迫害するようになります。まさに「枝が根を迫害する」ようになったのです。中世のヨーロッパでは至る所でユダヤ人は迫害され、殺され、その反ユダヤ主義が現代にも継承され、やがてナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺を生んでいきます。キリスト教徒によるユダヤ人迫害の歴史は、人々がパウロの言葉を真剣に聞かなかったことを示しています。アウシュヴィッツ強制収容所の忌まわしい出来事は、ある日突然起こったものではなく、2000年の歴史の中で起こったのです。
・神はユダヤ人をその不信仰の故に裁かれますが、それは彼らを滅ぼすためではなく、救うためです。パウロは語ります「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです・・・福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(11:25-29)。「神の賜物と招きとは取り消されない」、神は福音を世界に伝えるために一時的にユダヤ人の心を閉ざされたが、それは彼らを捨てられたからではない。同じように、神は今私たちの家族や友人の心を「一時的に」閉ざしておられる。しかし、閉ざされたものは開けられる、そこに私たちの希望があります。
3.私たちはローマ11章をどう読むのか
・今日の招詞にローマ11:31-32を選びました。次のような言葉です「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。ユダヤ人は行いによる義を追い求めることによって、神の義からそれてしまいました。パウロは指摘します「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(10:2-3)。人が行いを追い求める時、信仰は自己主張になりがちです。他の誰よりも熱心に祈り、戒めを守ったのだから、救われて当然だと考え、そのように行わない人を裁くようになります。しかし、それは自分の義であって、神の義ではありません。私たちが自分の力で救われようと努める時、私たちは傲慢になって、救いからもれるのです。ユダヤ人も福音を聞いたのに、これを拒絶しました。自分の正しさに固執したからです。
・先に言いましたように、パウロにとってのユダヤ人は私たちにとっての家族や、教会を離れて行った友のことです。私たちは信仰を与えられ、礼拝することを許されていますが、家族の中で信仰を持っているのは自分一人の方もいます。自分は救われるかも知れないが、家族はどうなるのか。存命中であればいつかはキリストに出会うと望みを持つこともできますが、キリストを知らないまま死んでしまった家族はどうなるのか。彼らは、地獄に堕ちてしまうのか。教会から離れていった人たちは捨てられるのだろうか。しかしパウロは言います「もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(11:24)。
・神の知恵は人間の思いを超えます。誰が救われたとか、救われていないとかいうことは神の領分であり、私たちは、ただ神が私たちを選んでくれたことに感謝するだけでよいのです。パウロは賛美しました「神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう.いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」(11:33-35)。アウシュヴィッツは人間の罪により起こされましたが、神はその悲惨な出来事を通して世界中の関心をユダヤ人に集中させ、イスラエルの地に彼らが国を建てることを許されました。2000年間国を無くして放浪していた民族が、国を再建したことは歴史上ありえない出来事です。その出来事を神は起こされた、そうであればキリストを信じないで死んでいった家族も、今でも福音を拒む友の救いも神が為してくださることを私たちは信じ、そのために私たちを用いられるように祈っていくのです。