江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年11月28日説教(ローマ8:31-39、だれがキリストから私たちを引き離せよう)

投稿日:2010年11月28日 更新日:

1.パウロは体験を通して確信を得た
・ローマ書を読んでいます。今日が9回目でローマ書8章の後半、ちょうど半分まで読んできたことになります。毎週の説教準備をしながら、この書簡は「難しい書」だと実感しています。おそらく、これを受け取ったローマ教会の人たちも、パウロの言わんとするところを理解できなかったかも知れません。しかし、この書には力があります。世界史をみれば、このローマ書は世界の教会を変革してきた書簡であります。ルターが「信仰のみ」の真理を見出して宗教改革を始める契機になったのはこのローマ書ですし、内村鑑三の「ロマ書の研究」は日本の教会の礎を作ってきました。また、現在でも多くの人々に影響を与えている神学者カール・バルトの出発点もこのローマ書です。ですから、私たちも挫けずにこのローマ書を読み進んでいきます。
・パウロは8章18節で言いました「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います」。キリスト者になることはイエスが十字架の苦しみを負われたように、迫害の苦しみを担っていくことだとパウロは言います。しかし一人で担うのではないと彼は言います「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか」(8:31)。ここでパウロは裁判のことを考えています。彼は三度にわたる伝道旅行中、繰り返し投獄され、鞭打たれ、法廷に引きずり出されています。法廷には告発する者と弁護する者、そして裁きを行う者がいます。もし裁く者(裁判官)が神であり、神が私たちの味方であるとすれば、何も恐れることはないではないかと彼は言うのです。
・なぜ神が私たちの味方と言いうるのか、それは神が「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(8:32)からだとパウロは言います。この「十字架による贖い」こそ、聖書信仰の中心です。福音書記者ヨハネも言います「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。十字架の贖罪の意味をパウロにならって、裁判という場面の中で考えると次のようになりましょう。まず、「ナザレのイエスが世に来られた」、これは客観的な事実です。クリスマスはそれを祝うためのものです。次に、「そのイエスが十字架で死なれた」、これも客観的な、歴史上の事実です。しかし、三番目の「イエスが死よりよみがえられた」、これは目撃証言があるという意味で状況証拠となります。新約聖書はその証人たちの供述調書です。「その死が私のためであった」、これは人間の法廷では取り上げられない主観的な事実、私たちはそれを信仰と呼びます。パウロは何故この主観的な事実を信じたのか、それは復活のキリストとの出会いという体験をしたからです。信仰とは理性で信じることのできる出来事ではなく、ただ経験を通してのみわかる体験的な出来事なのです。ですからそれは自分で獲得するものではなく、与えられるもの、恵みとして、私たちは受け入れて行きます。ローマ書はパウロの体験を通して得た確信が述べられています。だから同じ体験、キリストとの出会いを体験しないとわからない、その意味で難しい書なのです。

2.その確信がパウロに証言させている
・パウロは証言を続けます「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」(8:33-34)。当時のキリスト者たちはユダヤ社会からは異端として排斥され、ローマ社会からは世情を騒がす邪教徒として嫌われていました。捕えられ、裁判にかけられる者もいました。しかしパウロは言います「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう」。パウロはさらに言葉を紡ぎます「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」。復活したキリストが神の右に座り、私たちのために執成しをして下さると言います。パウロは前に、私たちが祈れない時、「霊自らが言葉に表せないうめきを持って執り成して下さる」(8:26)と言いました。地上においては聖霊がキリスト者の心の内に働いて執り成し、天上においては復活されたキリストが最後の審判の場で私たちのために執り成される。神はこのような形で私たちを守って下さるのだから、たとえ地上でどのような迫害や困難があっても恐れる必要はないと彼はローマ教会に書き送ります。それが8:35-36の言葉です「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『私たちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」。
・先に述べましたように、パウロはありとあらゆる苦難を乗り越えて今コリントにいて、この手紙を書いています。前にパウロは自分の体験を次のように語ったことがあります「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(�コリント11:24-27)。パウロは多くの苦難を受けましたが、「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(ピリピ3:8)。「主イエス・キリストとの出会いを通して、神との平和をいただいた。この宝物をいただいた者にとって、ほかのすべては塵あくたのようなものだ」と彼は言い切ります。だからこそ、彼は「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです」(8:38-39)と言えるのです。
・当時のローマの人々は、一日の仕事を終えて夜になってから、礼拝のために教会に集まりました。教会といっても現在のような建物はなく、カタコンベと呼ばれる地下墓地に集まり、ろうそくの灯りのもとでの礼拝を献げました。日曜日は休みではなく、彼らは仕事で疲れた身体をそのまま、地下の教会に集まり、主日礼拝を献げ、讃美を歌い、祈り、御言葉を聴き、聖餐にあずかったのです。彼らは社会から疎外されていましたが、自分たちを迫害し苦しめる為政者たちのためにも、神の祝福と赦しを祈りました。何故彼らはそれほど礼拝を大事にしたのか、宝物を見つけたからです。
・パウロはガラテヤ教会への手紙の中で言います「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:26-28)。当時、教会に加わった人々の多くは奴隷や婦人たちでした。この世の生活においては、彼らは奴隷として主人の持ち物であり、主人は彼らを生かすも殺すも自由であり、彼らの人格は認められませんでした。婦人たちは、結婚前は父親の所有物であり、結婚後は夫の所有物、老いては子に隷属する存在とみなされていました。しかし、キリストは彼らのために死なれた、教会は「奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」と彼らを受け入れました。彼らはキリストに出会う前はこの世の不条理、虚無の中にありましたが、キリストとの出会いを通して神の子とされる希望を見出したのです。
・マルティン・ルーサー・キングはメンフィスで殺されましたが、それは彼がメンフィスのごみ収集人のストライキを支援するために当地にいた時でした。人々は人間として暮らせる賃金を求めてストライキに入りましたが、市当局は警察犬とホースと警棒で彼らを弾圧しました。その中で人々は「I am a man」、私は人間だとのスローガンを掲げて戦いました。キングは暗殺の脅しを受けながら彼らと共に闘い、暗殺されました。しかし、誰もキングをキリストの愛から離すことはできませんでした。

3.私たちも同じ信仰に生きる
・今日の招詞にイザヤ50:8-9を選びました。次のような言葉です「私の正しさを認める方は近くいます。誰が私と共に争ってくれるのか、われわれは共に立とう。誰が私を訴えるのか、私に向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰が私を罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち、しみに食い尽くされるであろう」。この言葉は第二イザヤと呼ばれる預言者が語った言葉です。イスラエルは国を滅ぼされ、バビロンの地に捕囚となっていましたが、そのバビロンが滅ぼされ、人々はイスラエルへの帰還が許されました。しかし、捕囚から50年、人々はバビロンに生活基盤を築いており、それを捨ててまで廃墟の祖国に帰ろうとする者は少数でした。その中に立てられた預言者イザヤは、主が解放の業をされたのにそれを喜ぼうとしない人々に、「あなたたちは罪の赦しと救いが与えられようとしているのに、それを拒絶しようとしている」と帰国を説得します。
・しかし人々は預言者の言葉を聞かず、帰国に反対する者たちは預言者に肉体的な危害を加え、精神的な屈辱を与えました。その中で預言者が歌ったのが招詞の言葉です。預言者は「神は私たちの味方」だと信じるゆえに、迫害やそしりの中にあっても動揺しません。そしてこのイザヤの言葉をローマ教会への手紙の中に書いたのがパウロです。パウロは言います「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう」(8:33)。パウロを取り巻く状況は厳しいものでした。外からはユダヤ人社会やローマ帝国からの迫害があり、内からは保守的なユダヤ人キリスト者からの批判がありました。しかしパウロの確信は揺らぎません。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」。信仰者にはこの強さが与えられるのです。
・聖書の信仰は、人々に「無病息災、商売繁盛、家内安全」を約束しません。約束しないどころか、キリストが苦難を受けられたのだから、従うあなた方が苦難を受けるのは当然ではないかとさえ言います。誰もこのような信仰を喜びません。だからキリスト者はいつでも少数者です。しかし少数者でも良いのではないかと思います。パウロは言いました「兄弟たち、私はこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(�コリント7:29-31)。パウロはここで終末の接近を言っていますが、私たち一人一人にも終末が迫っています。私たちの死です。私たちもやがて死を迎えますが、死ぬ時に残したいものはそんなに多くはない、いや一つしかないのではないでしょうか。
・内村鑑三の書いた「後世への最大遺物」という本があります。内村は言います「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない」。では何をこの世に残していこうか「社会が活用しうる清き金か。田地に水を引き、水害の憂いを除く土木事業か。書いて思想を遺すことか。教育者となり未来を担う者の胸に思想の種をまくことか。これらは遺すべき価値あるものである。けれど、金や事業や思想を遺すことは、誰にでもなし得る業ではなく、また最大遺物とは言い難い。では、誰でもがこの世に遺すことのできる、真の最大遺物とは、果たして何なのか」。そして彼は言います「誰でも残せる、そして他の人にも意味のある遺物こそは、“高尚なる勇ましい生涯”ではないだろうか。それはこの世は悪魔が支配する世の中にあらずして神が支配する世の中であることを信ずることである。失望の世の中にあらずして希望の世の中であることを信ずることである。悲嘆の世の中ではなくして歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物として、この世を去るということです」。私たちは、一人ひとり、与えられているものが違います。健康であろうが、病気であろうが、順境にあろうが、逆境にあろうが、私たちは誰でもこの世での使命を持っています。その使命を自覚し、その使命のために生きる人生に私たちは招かれています。

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