江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年6月6日説教(マタイ17:24−27、市民として、信仰者として)

投稿日:2010年6月6日 更新日:

1.神殿税を納めるべきかどうか

・聖書教育に従って御言葉を聞いていますが、今回聖書教育が選んだマタイ17:24−27、神殿税の箇所は普段の説教では選ばれることの少ない所です。私も10年間毎週説教してきましたので、福音書の箇所はどれも釈義した記憶がありますが、この個所は初めてで、それだけ新鮮でした。そして学びを通して多くのものをいただきました。今日、そこでいただいたものを皆さんと分かち合えればと願います。
・物語は、神殿税の徴収人がペテロの所に来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った所から始まります(17:24)。エルサレム神殿を維持管理するために、ユダヤの成人男子は毎年半シュケル(ヘブライ貨幣)の神殿税を支払う義務を有していました。この神殿税は古くからある制度で、律法では「あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない・・・登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う」(出エジプト記30:12-13)と定められていました。イエスの時代、流通していたのはギリシャないしローマの貨幣でしたので、ギリシャ貨幣では2ドラクメになります。新共同訳では「神殿税」となっていますが、原文ではディドラクム(2ドラクメ)となっています。1ドラクメはローマ貨幣1デナリと同額で、1デナリは当時の1日分の賃金ですので、今日の日本円にすれば年2万円を神殿税として納めなければいけないことになります。それは神殿を維持管理するために必要なお金でした。当時、エルサレム神殿には祭司やレビ人等8千人の人が働いていたといいますから、その人件費や広大な神殿の維持管理だけでも相当のお金がかかったことでしょう。仮に当時の成人ユダヤ人男子が100万人だったとすれば、神殿税は年間200億円になります。
・神殿税徴収人がペテロの所に来たのは、イエスは当時ペテロの家に同居しておられたからです。そしてイエスの日ごろの言動から、もしかしたらイエスは神殿税支払いを拒否するのではないか、そうであればイエスを律法違反として訴えようとの思惑もあったように思えます。それを感じ取ったペテロは、イエスの意向を確認することなく「納めます」と答えました(17:25)。争いを避けるためです。
・イエスは神殿への自発的な献金はこれを推奨されていますが、強制的な徴収には批判的だったと思われます。「先生、どうしましょうか」と相談に来たペテロにイエスは言われます「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」(17:25)。王の子どもたちが自分の父親に納税をすることは考えられない、ペテロは答えます「他の人々からです」(17:26)。そのペテロにイエスは言われます「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」。王の子が税を払う必要がなければ、神の子とされた私たちが父なる神に税を納める必要はないだろうとイエスは言われたのです。ペテロは困りました。彼はすでに徴税人に「払います」と約束していたからです、そのペテロの困惑を見てイエスは言われます「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」(17:27)。神殿税を納める必要はない、しかしそれを押し通したらあなたが困るだろう、また他の人もつまずくかもしれない、だから納めようとイエスは言われ、その解決策としてガリラヤ湖に行って釣りをするように命じられます。「魚が取れ、その口をあけると1枚の銀貨が見つかるはずだ。その銀貨であなたと私の分の神殿税を納めなさい」とイエスは言われました。「1枚の銀貨」と訳されている部分のギリシャ語はスタテラです。1スタテラは4デナリに相当するお金です。

2.この出来事は私たちとどのように関わるのか

・イエスはエレサレム神殿に象徴される祭儀宗教に否定的で、神殿の崩壊さえも預言しておられます(24:2)。それでもイエスは神殿税を納めよと言われました。これは当時のマタイの教会にとっては大きな示唆を与えました。マタイ福音書が書かれたのは紀元80年過ぎ、その時にはユダヤ戦争の結果、ローマ軍によって神殿は破壊されていますので、神殿税はありません。しかし当時のローマ皇帝ヴェスパシアヌスは廃止された神殿税と同額のユダヤ税をローマ帝国内のすべてのユダヤ人に納めるように布告しており、その税はローマにあるユピテル神殿に納税されました。教会にとってこれは厄介な問題でした。ユダヤ教から分離したとしても、まだエルサレム神殿への納税は納得できます。しかし、異教のローマ神殿に何故納税しなければいけないのか、それは偶像礼拝ではないのかという議論が教会内に起こっていました。ですから、マタイはこのイエスの事例を参考に、私たちも「人々をつまずかせないために」、ユダヤ税を払っていこうとして、記事をここに挿入したのです。
・今日の物語の中心となるのは、「彼らをつまずかせないようにしよう」(17:27)というイエスの言葉です。「人々をつかずかせない」、ここにイエスの柔軟性があります。イエスは皇帝に税を納めるべきかどうか聞かれた時にも柔軟に答えられます「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(22:21)。信仰の本質にかかわる出来事(神のもの)と本質ではない出来事(皇帝のもの)を区別し、本質でない出来事については世に従いなさいと言われたのです。初代教会はこのイエスの言葉を基礎に、税や貢物を国家に納めるべきかを議論してきました。その国家とは彼らを迫害するローマ帝国です。パウロは言います「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(ローマ13:7)。ここにも「人々をつまずかせない」ための柔軟性があります。

3.市民として、信仰者として

・そのパウロは私たちに、覚えるべき大事な言葉を残してくれました。その言葉が今日の招詞、第一コリント10:23-24の言葉です「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
・キリスト者の自由とは「他者と共にある自由であり、他者がつまずくのであれば、自分が正しいと思うことも断念しなさい」とパウロは語ります。キリスト者の自由は「何をしてもよい自由」ではなく、「他者をつまずかせない自由」なのです。他者のために何かを断念する自由、それを聖書は「愛」と言います。この自由に基づいて、私たちは教会に献金します。それは税ではありませんで、献金する義務は生じません。しかし、教会が私たちに必要であり、私たちは教会を通じて、神の業に参加していると信じるゆえに献金するのです。教会はイエスによって立てられ、神の国の地上におけるしるしだと信じるゆえに、教会を維持するために必要なものを献金します。維持献金ですから、その献金はお賽銭的な額ではなく、収入の十分の一、痛みを伴う金額です。その痛みを伴う献金を通して、私たちは自分たちの現在の消費や将来の蓄えの一部を断念します。しかし、その断念が強制であれば信仰に基づく献金にはなりません。まだ十分の一を喜んで捧げることができないと思う人は、出来る範囲で献金されても結構だと思います。その代わり祈るべきです「どうか十分の一を喜んで捧げることのできる信仰をお与え下さい」と。
・「他者をつまずかせない」ことは愛であり、妥協ではありません。イエスは世と妥協して神殿税を納めなさいと言われたのではなく、初代教会は世と摩擦を起こさないためにユダヤ税を納めたのではありません。神殿税を納め、ユダヤ税を納めることが、信仰の本質に関わる出来事ではないからこそ、柔軟に対応したのです。教会の牧師の中には、町内会費のなかに地域の神社への維持献金が含まれているから町内会費は納めないと公言する人もいますが、聖書的ではないと思います。また自分はキリスト者であるから、仏式の葬儀には参列しないし、ましてや焼香したりしないという人もいますが、それも柔軟性に欠ける信仰だと思います。
・私たちには、柔軟な、しなやかな信仰が必要です。イエスはペテロに「湖で漁をすれば魚が取れ、その魚の口にはスタテラ銀貨が入っているからそれで税を納めなさい」と言われました。この個所を読んで、神は奇跡を起こされるからそれを待とうというのは愚かであり、そんなことがあるわけはないと切り捨てるのは不信仰です。そうではなく、私たちは、イエスから、「二日働けば神殿税を納めるお金を得ることができるとすれば、あなたの本来の職業である漁師として働き、魚を収穫し、それを売って必要なお金を獲得しなさい」と命じられていると理解します。足らなければ、働いて獲得すればよいのです。
・今私たちが進めている教会堂の建て替え計画も同じです。40名に満たない教会員で、7千万円を超える資金を必要とする教会建築を行うのは、世の常識からすれば無謀です。しかし新会堂が本当に必要なものであれば、神は必要なものを与えて下さるという信仰の下に、私たちは計画を進めています。では足らなければどうするのか、足るまで献金します。その献金は痛みを伴います。多くのものを断念しなければいけないからです。そして、精一杯の献金を行ってなお足らない場合は、計画の一部を断念し、あるいは縮小します。しかし計画は進めます。何故なら、この計画は私たちの信仰的冒険であり、信仰の本質に関わる出来事だと思っているからです。
・何が信仰の本質にかかわる事柄で、何がそうでないのかは難しい議論です。その時、ラインホルド・ニーバーの有名な祈りを想起すべきです「神よ、 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。 今日の文脈で言い換えれば次のようになるでしょう「神よ、信仰の本質に関わる出来事については決して屈しない勇気を、本質ではない出来事についてはそれを断念する冷静さを、そして何が本質であり、何が本質ではないかを見極める知恵を与えたまえ」。

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