1.後世に語り継がれた物語
・聖霊降臨節の時、私たちはマルコ福音書を通して御言葉を聞いてきました。先週、私たちはイエスが民衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれ(マルコ6:34)、その憐れみの行為として五つのパンで5千人を養われた記事を読みました。今週から5週間にわたって、この5千人の給食の記事を、ヨハネ福音書からさらに詳しく学びます。ヨハネにおいてこの出来事は、単にイエスが人々の空腹を憐れまれてパンを与えられたと言うだけではなく、本当のパンはイエスが十字架で裂かれた肉にあるという受難の出来事の予兆としての意味を持っています。マルコ福音書では5千人の給食の記事は6章30節から44節という14節の比較的小さな記事ですが、ヨハネではこれが6章1節から71節に及ぶ長い物語となっています。第一日目の今日は導入部分6章1-15節のところを学びます。
・イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人を養われた出来事は有名であり、4つの福音書全てに記事が載っています。それはイエスの行われた奇跡の中では、空前といって良いくらいの規模の大きいものであり、弟子たちの印象が強かったためでしょう。マルコもヨハネも「男だけで5千人」(6:10)と述べており、女や子どもを入れると1万人以上の人がそこにおり、それに対してイエスが手にされたのは5つのパンだけで、とても5千人や1万人を養える量ではなかったからです。それにもかかわらず「人々は満腹」し(6:12)、余ったパンくずだけで12のかごに一杯になると言う不思議な業がなされました。ヨハネの記事に沿って出来事を詳しく見ていきます。
・その出来事はガリラヤ湖のほとりで起きました。ヨハネは次のように描き始めます「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(6:1-2)。イエスの周りには病気のいやしを求めて、大勢の人が集まって来ていました。医学の発達していない当時、病気の治療は薬草を飲んだり、祈祷してもらったり、あるいは寝ているだけで、後はその人の自然治癒力にゆだねられていました。周りの人は感染を恐れて病人には近寄りませんでしたが、イエスは進んで病人のところに行かれ、励まし慰められました。そのイエスの慰めが多くの人に病気に勝つ気力を与え、病気を癒していきました
・ヨハネは続けます「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」(6:3-4)。ここにヨハネ独特の表現があります。6章後半でヨハネは、モーセ時代に与えられたマナとの対比でイエスのパンの話を展開しますので(6:31以下)、ここの「山に登り」、「過越し祭りが近づき」という表現を通して、ヨハネは、出エジプトの時にモーセがシナイ山で律法を与えられたように、第二の出エジプト=イエスの十字架による新しい契約に際しても、約束のしるしとしてパン=イエスの体が与えられることを示唆しています。マルコはパンの出来事をイエスが「飼い主のいない羊のような人々を深く憐れ」まれて、起こされた奇跡として描きますが、ヨハネはそれをイエス受難の出来事として描いているのです。
・イエスは、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6:5)と言われます。ヨハネは「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と注をつけています。イエスは、ご自分の体を人々に提供し、永遠の命にいたるパンを提供しようとしておられたと言う意味をヨハネは含めています。しかしフィリポにはわかりません。彼はどうすればこの5千人に食べさせることが出来るかの物理的計算をしているからです。彼は思います「ここには男だけで5千人の人がいる。こんなに大勢の人にパンを与えることは無理だ」。彼は答えます「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金、1家族が1日に必要な食料を買うだけの金額でした。仮に1デナリオンで家族5人が食べられるとしても、200デナリオンで1千人がやっとです。そんなお金はここにはないし、仮にそのお金があったとしても、こんな寂しい場所で、そんなにたくさんのパンを買える訳がありません。
・その時、もう一人の弟子アンデレが、食べ物を持っている少年を探し出して来ました「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6:8-9)。子供が、自分の弁当用に大麦のパンと干した魚を持っていたのでしょう。しかし、5千人を前にそれが何になるでしょうか。5千人にどうやって食べさせるかと言う議論をしている時に、パン5つと魚2匹では何の足しにもならない。しかし、イエスは、手元に五つのパンと二匹の魚が与えられたのを見て、人々を座らせなさいと言われました。ヨハネは記します「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(6:11)。「感謝の祈りを唱え」、ギリシャ語では「エウカリステオー」です。このエウカリステオーから聖餐=エウカリストという言葉が生まれました。有名な第一コリント11:23の言葉を思い起こしてください。パウロは次のように伝えています「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」(�コリント11:23-24)。ヨハネはイエスが5千人に与えられたパンは、実はご自分の体であったことをここに象徴しています。
2.パンの奇跡の後で
・イエスがパンと魚を祝福して人々に配られると、それはそこにいた人々を「満腹させ」、またパンくずが「12のかごに一杯になった」とヨハネは記します。この12とは明らかにイスラエル12部族を指しています。イエスは新しいイスラエル(教会)を形成するために、12人の弟子を選ばれ、今またパンの奇跡を通して12部族(教会)を養うことを明らかにされたとヨハネは理解しています。
・この奇跡の意味はどこにあるのでしょうか。中心の出来事は信仰だと思います。私たちは目前の5千人の人を見て、また手元に5つのパンしかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめます。ピリポはこれだけの人数にパンを与えるのは無理だといい、アンデレは5つのパンでは何の役にも立たないとため息をつきました。彼らには「神が働いて下さる」という信仰がなかったからです。小さな子供は弟子たちが困っているのを見て、自分の手元にある5つのパンを差し出しました。差し出してどうなるという当てはなかったけれど、自分が食べるのをあきらめて差し出しました。イエスはそこに子供の信仰を見られました。その信仰さえあれば、神は答えて下さるとイエスは信じられ、天を仰いで感謝されました。私たちの手の中にあるもの、それがどんなに小さく僅かであっても、イエスの前に差し出され、イエスに祝福され、主の御用のために用いられる時、10倍にも100倍にも増やされていくことを物語は示唆しています。もし私たちが生活の中で、「あれもない」、「これもない」と不足や不満を言っている時、それは私たちがピリポやアンデレの陥った過ちに陥っている「しるし」かもしれません。「必要なものは神が与えてくださる」ことを忘れているからです。
・ドイツの神学者ボンヘッファーはこの箇所について次のように述べています「我々が我々のパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りるのである。誰かが自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするとき、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である。二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったという福音書の中の奇跡物語は、他の多くの意味と並んで、このような意味を持っているのではないだろうか」(「共に生きる生活」P62)。
・「我々が我々のパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りるのである」というボンヘッファーの言葉は印象的です。わずかなものでも一緒に食べるとおいしい。イエス時代の食卓は貧しいものでした。大麦のパンと塩とオリーブ油、飲み物としては水か薄めたぶどう酒、魚や肉を食するのは祭りの時だけでした。しかし家族が集まって食卓を囲み、感謝の祈りの後に食事をいただき、一日の出来事を話し合う、団欒の時でした。今日の私たちの食卓には肉や魚があふれていますが、家族で食卓を囲むことは少なくなりました。それぞれが忙しい生活の中で、勝手な時間に、カロリーを補給するだけの食事をする、そのような家庭が増えてきたのではないでしょうか。「共に食べる」、私たちが見失ってしまった豊かさがここにあるような気がします。
3.命のパン
・今日の招詞にヨハネ6:35を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた『私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない』」。イエスが行われたパンの奇跡を見て人々はイエスの力に驚いて言います「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(6:14)。人々は飢えていました。当時は、旱魃等の天候不順で作物が不作になれば、貧しい人は餓死する時代でした。彼らは思いました「5つのパンで5千人を養いうる人であれば、私たちの生活の貧しさも解決して下さるに違いない」。人々は食べるものにも事欠く現在を、毎日腹一杯食べることの出来る将来に変えてくれる人を求めていました。その彼らの面前でイエスは奇跡を起こされた。この人は私たちに毎日のパンを与える力を持っていると人々は思いました。だから人々はイエスを王にしようとします。イエスは群集の心の中にそのような思いが芽生えたことを知って、彼らを避けて対岸のカペナウムに戻られますが(6:15)、人々はイエスを追ってカペナウムまで来ます。その彼らに、イエスは言われます「はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(6:27-28)。群衆は飢えを満たしてくれたイエスを追い求めて来ました。イエスもそれは理解しておられる。しかし、パンよりも大事なものがある。それを与えようとイエスは言われたのが招詞の言葉です。
・私たちが生きるためには、パンが必要です。しかし、本当に人間を人間にするのは、霊の糧です。どんなにお腹一杯食べても、人はそれだけでは幸福にはなれません。「人はパンだけで生きるのではない」(マタイ4:4)からです。イエスは言われます「肉のパンを食べても翌日にはまたお腹が空いてしまう。あなたがたに肉のパンが必要なことは父なる神がご存知であり、必要な時には与えてくださる。あなた方は私が5つのパンで5千人を養うしるしを見たばかりではないか。それこそ神が与えられたしるしだ。生活に必要な肉のパンは父が与えてくださるから、あなたは人間として必要な生命のパンを求めなさい」。
・先に見ましたように、ヨハネは5千人の養いの中に聖餐式を見ています。聖餐あるいは主の晩餐とは、主イエスと共に食事をすることから始まったものです。そして、そこで食べるのは主の体です。私たちは主イエスが地上からいなくなられた後も、主イエスを覚えて聖餐の時を持ちます。ヨハネはパンの奇跡に二つの意味があることを明らかにしてくれました。一つは「神は私たちを養ってくださる」との信仰がパンを増やしていくという事実です。これはマルコでも明らかにされました。もう一つヨハネだけが明らかにしたのは、本当のパンとはイエスの捧げられた体、すなわち「命の言葉」という点です。私たちはこの「命の言葉」に養われて生きるのです。私たちが今日この教会に集められたのも、この命の言葉をいただくためです。その言葉に養われて、私たちは十二弟子たちが派遣されたように、それぞれの場に派遣されていくのです。