江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年6月7日説教(マタイ28:16-20、大いなる使命)

投稿日:2009年6月7日 更新日:

1.ガリラヤに戻った弟子たち

・イースターを終わり、ペンテコステも過ぎた今、私たちは聖霊降臨節の中にあります。これから10月までの5ヶ月間、私たちは聖霊降臨の出来事、すなわち「聖霊が与えられた後、弟子たちはどのように行為していったのか」を学んでいきます。それは私たちにとって、「この世界で信仰者としてどのように生きていくのか」を考えることでもあります。今日はそのためのテキストとして、マタイ28章16-20節が与えられました。復活のイエスが弟子たちに現れて宣教命令を与えた箇所です。この命令が与えられた場所はエルサレムではなく、ガリラヤでした。
・イエスの十字架死について四福音書はほぼ同じ記事を伝えますが、復活の記述はばらばらです。ルカとヨハネは復活の主はエルサレムで弟子たちに姿を現されたと伝えますが、マルコとマタイは弟子たちが復活の主に出会ったのはガリラヤであったと記録します。復活顕現伝承には、エルサレム伝承とガリラヤ伝承の二つの流れがあるのです。これは復活が歴史的出来事と言うよりも信仰的出来事であったからです。信仰的出来事とは復活が無かったということではありません。復活は確かにあったが、それは弟子たちの神秘体験あるいは霊的体験としてあった、そして霊的体験ゆえに証言が一致しないのです。
・パウロは証言します「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています」(1コリント15:3−6)。パウロの証言から言えることは、復活には多くの目撃者がいたということです。しかし、その目撃者は全て信仰者であった。復活の主は信仰の目が無いと見えないのです。ですから、私たちは、復活を歴史的出来事として学問的に検証することは出来ません。ただ、弟子たちが復活信仰を持ち、死を持って脅かされてもその信仰を捨てなかった、また復活信仰が中核になって教会が生まれていった事は歴史的な事実です。
・今日はマタイ福音書に沿って、この復活顕現の出来事を学んでいきます。マタイは、生前のイエスが弟子たちに、「あなた方は私が捕らえられた時に逃げるであろうが、私は復活する。その後あなた方とガリラヤで会おう」と言われたことを伝えています(26:31-32)。また復活のイエスが婦人たちに顕現された時、「ガリラヤに行くように弟子たちに伝えなさい」と命じられたことも記録しています(28:7)。この二つの記事は、イエスの処刑の後、弟子たちが日ならずしてガリラヤに戻ったことを示唆しています。弟子たちはガリラヤに戻りました。何故ならばそここそ弟子たちの故郷であり、またイエスの宣教の出発点でもあったからです。
・ガリラヤに戻った弟子たちは途方にくれていました。頼りにしてきたイエスが今はいない、自分たちはイエスを見捨てて逃げた、仲間の一人は首をくくって死んでしまった、そのような思いの中で、イエスの言葉が繰り返し思い起こされていました。ガリラヤに戻った弟子たちは山に登ります。山は聖なる所、神に出会う場です。祈るため、あるいは「そうしなさい」との啓示を受けたのかもしれません。28章16節は記します「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」。その山で彼らは神秘体験をします。復活のイエスに出会ったのです。

2.宣教の使命が与えられる

・「しかし疑う者もいた」(28:17)。ルカでは、イエスに出会った弟子たちは「亡霊を見ている」と思ったとあります(ルカ24:36)。エマオに行く弟子たちも最初は同行者がイエスだとはわかりませんでした(ルカ24:16)。山に登った弟子たちもイエスに出会った時、半信半疑でした。復活はそれほどに信じることが難しい出来事なのです。この記事は私たちに希望を与えます。何故なら、私たちも確固たる信仰を持っているわけではないからです。苦しみが続くと「本当に神はおられるのか」と疑います。教会を支えるために十分の一献金を求められると、「そこまでして信仰を続けたいとは思わない」人も出てきます。多くの人がバプテスマを受けますが、死ぬまでその信仰を保ち続ける人は少ないのが現実です。私たちは信仰と懐疑の中を揺れ動いている存在です。しかしその不信仰の私たちにもイエスの方から近寄って下さる。弟子たちにそうされたようにです(28:18a)。
・イエスは言われました「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい」(28:18b-19a)。イエスを裏切った弟子たち、今復活のイエスに会っているのにそれを信じきることが出来ない弟子たちに、宣教の使命が与えられます。「全ての民を私の弟子にせよ」、これが弟子たちに与えられた使命でした。その使命の具体的な内容が次に語られます「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19b-20a)。
・「バプテスマを授ける」、原語はバプテゾ−、水に浸す・沈めるの意味です。「父と子と聖霊の名によって」、「父と子と聖霊の交わりの中に」、彼らを沈めなさいと命令されています。ここにバプテスマの原型があります。私たちは何のためにバプテスマを受けるのか、それは「父と子と聖霊の交わりの中に」生きるようになるためです。不信仰な、弱い私たちは一人では信仰を維持していくことは出来ない、だから信仰者の交わりの中で、つまり教会の中で私たちは育てられていくのです。そして教会では、毎週の説教や祈祷会の学びを通して「イエスの戒め」、すなわち「愛し合いなさい」という戒めが語られ、教えられていきます。

3.傍観者から主体者へ

・今日の招詞にマタイ18:20を選びました。次のような言葉です「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。復活のイエスは弟子たちに宣教の使命を与えられ、最後に言われました「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。「あなたがたと共にいる」、インマヌエルです。イエスは「インマヌエル」として、いつまでも共にいると約束され、その約束として聖霊が与えられ、私たちを導いて下さいます。イエスは共にいて下さる、それを具体的に言い表したのが、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」との言葉です。
・私たちが主日礼拝をささげる時、イエスはそこにいて下さる。私たちが祈祷会で祈る時、イエスも共に祈って下さる。私たちが主の晩餐式でパンとぶどう酒をいただく時、イエスのこうむられた痛みが私たちの痛みとなっていく。イエスは宣教の言葉を通して、また晩餐式を通して、臨在されると聖書は教えます。しかし、現実の私たちはその臨在を感じることが出来ません。私たちは説教を聴きながら、御言葉に集中することが出来ません。晩餐式のパンとぶどう酒をいただいても、感動を覚えるわけでもありません。何かが足らないのです。何か、行為が足りないのです。
・5月30日に放映された「この空を見ていますか~“ゆず”アフリカの大地へ」という番組をNHKで見ました。フォーク・デュオ「ゆず」のリーダー北川悠仁さんが、ケニアの難民キャンプを訪れた時の記録映像です。何故「ゆず」のメンバーがアフリカを訪れたのか。北川さんは以前から難民問題に関心を持ち、国連難民高等弁務官事務所と共同で「ワンダフルワールド・プロジェクト」を展開していました。音楽活動を通して与えられた収益金で、水資源危機に悩むアフリカの大地に植樹をしようというプロジェクトです。彼はプロジェクトのために2008年4月に「ワンダフルワールド」という曲を書きました。「機関銃を抱きしめて眠る子どもが、荒れ果てた大地で夢を見る頃、まばゆい朝の光に包まれた少女は優しい母の声で目を覚ます・・・生まれたその瞬間から矛盾を抱えて生きていくのなら、神は何のためにこの世界に全ての命を与えたのだろう」。内戦の続くアフリカでは子どもたちが誘拐されて兵士として育てられ、殺し合いの最前線に投入されています。他方、日本の子どもたちは満ち足りた朝を迎えています。「この不条理が何故あるのか、神よあなたは何をしているのか」と言う歌です。悪や悲惨が放置されて、誰も関心を持たないことに対する怒りがこの歌の中にあります。
・その北川さんが実際に難民キャンプを訪れた後に作った歌が、「はるか」という歌です。歌詞は次の通りです「夕焼けに染まって風に吹かれて立ち止まる。同じ地球のどこかで、この空を君も見ている。微笑むひとみ、何故に涙があふれるの。言葉に出来ぬ悲しみ、それでも僕らは生きていく。帰る場所はどこ、君はどこに帰っていくの。あの日教えてくれた歌、そっと口ずさんでみる。地平線の向こう側、美しい光はまた輝き続ける。旅人は歩き出すだろう。はるかな大地を」。自分の観念、知識の中で生まれた「ワンダフルワールド」という荒々しい歌が、難民キャンプの小さな女の子の教えてくれた歌に触発されて、「共にいるよ」という歌に変わっています。何もしない人々を非難するのではなく、自分が共にいる存在、インマヌエルになりたいという願いに変わっています。
・信仰もこれと同じです。頭で理解した知識、理性で納得した信仰、いわば教養としての信仰は何の役にも立ちません。聞くだけの信仰は人を生かさないのです。私たちは信仰の行為に踏み出す必要があります。北川さんはアフリカに行って、何かに出会った。弟子たちは山に登り、イエスに出会った。そして力を得て、再度エルサレムに戻っていきます。「本当にイエスは共にいてくださるのか、その臨在を感じることが出来ない」とぐちをこぼすのを止めて、「イエスは私のインマヌエルになって下さったから、今度は私が他の人のインマヌエルになろう」と決意し、実行していく時に状況は変わっていきます。そのことをマタイは「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:20)と紹介します。イエスの戒めを守るとは行為することです。三浦綾子著「塩狩峠」の主人公永野信夫は、洗礼を受けた時、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)という言葉を生涯守ってみようと決意します。そのことによって彼の人生は変わっていきました。私たちも一つの実験として、イエスから与えられた戒めの一つを守ってみれば良いのではと思います。イエスは言われました「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(18:22)。子どもに怒ることがあっても口にも顔にも出さない。自分を無視し排斥する人のために祈ってみる。会社で、学校で、嫌なことを言われても、この言葉を思い出す。1年間人に怒ることをやめようと決意し実行した時、私たちは大きく変わる存在になります。
・マラキが預言したようにです「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、私の家の食物とせよ。こうして私を試してみよ。・・・私があなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ」(マラキ3:10)。マラキは収入の十分の一を捧げよ、それはあなたにとって身を切るような、痛みを覚える献金になるだろう。その時、あなたは私を知ると言います。お賽銭的な献金は入場料を払うようなもので、私たちを生かさないのです。仮に私たちの礼拝に喜びがないとすれば、それは私たちが傍観者に留まっているからです。牧師は傍観者になり得ない、牧師がいないと礼拝が成立しないからです。皆さんもそうです、皆さんがいないと礼拝は成立しない。しかし今日、いない人がいる。来ることが出来ない人がいた。礼拝が終わったらその方を訪ねて週報を届けよう、そう皆さんが決意した時、皆さんは傍観者から主体者になる。それが皆さんに与えられた使命なのです。そして使命を生きる時に、私たちに本当の喜びと平安が与えられ、私たちの周りの人たちも変えられていきます。

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