江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年5月31日説教(ヨハネ16:5-17、聖霊が与えられる)

投稿日:2009年5月31日 更新日:

1.聖霊とは何か

・教会は三つの時を大事な時として覚えます。キリストが生まれられたクリスマス、キリストが復活されたイースター、そしてキリストの霊である聖霊が弟子たちに与えられたペンテコステの三つです。今日はペンテコステをお祝いする礼拝を皆さんと共に持ちます。ペンテコステとは50の意味です。イエスが復活されてから50日目に弟子たちに聖霊が降り、それまで臆病で逃げ隠れしていた弟子たちが、公衆の前に出て「イエスこそ神の子であった」と宣教を始めました。その言葉を聞いて人々が心動かされて3000人の人がバプテスマを受け、以後その日が教会の誕生日として祝われるようになりました。初代教会ではこの日に人々が白い衣を着てバプテスマを受けましたので、この日はWhite・Sunday、略してWhit・Sunday(白衣の日曜日)とも呼ばれます。
・私たちの教会でも、今日のペンテコステ礼拝で一人の青年がバプテスマを受けました。今日バプテスマを受けたS兄はその信仰告白の中で次のように述べられました「将来のことについて自分なりにいろいろなことを考えるようになりました。そのような中の一つに、“死ぬ”とはどのようなことかということがありました。もし自分が今死んでしまうか、などと考えると、とても不安で心配になりました。・・・しかし死とは遅かれ早かれどの人間にも平等に訪れるもので・・・人間はその前に無力な存在だと思いました。・・・そして人知を超えた存在が確実にあると考えました。・・・心の中に後ろめたいこと、つまり闇があると死を恐怖だと感じてしまうのだと思います。そしてその死から私たちを解放し、永遠の命を与えるため、イエス様が十字架にかけられ、人々の罪を赦してくれた話も事実とだと思います」。
・この告白は人間的に見ればS兄の決断ですが、信仰的に見れば、聖霊の働きです。ヨハネ福音書は聖霊の働きについて次のように述べます「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:3)。そして「真理はあなたたちを自由にする」(8:32)。聖霊はS兄弟の上に働いて、「生きるとは何か、死ぬとは何か」を考えさせ、「死から解放される」ためには、「復活されたイエスを信じる道しかない」ことを悟らせてくれました。これは2000年前のペンテコステの日に起こった出来事と同じです。ペテロは言いました「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2:36)。それに対して人々は答えます「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」(使徒2:37)。人々はペテロの勧めに応じてバプテスマを受けました。S兄も教会の勧めに従ってバプテスマを受けられました。
・今日はヨハネ16章を読みますが、ヨハネ14章以下はイエスが最後の晩餐の時に語られた言葉です。その中でイエスは繰り返し、「私は天に帰るが、帰ったらあなた方に聖霊を送る」と約束されています。16章5節「今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている」(16:5)。ここでは死ぬことが「天に帰る」ことだといわれています。人が死ぬことは当然であり、それは「天に帰る」ことであり、悲しむべきことではないとイエスは言われています。死が「天に帰る」ことなのか、それとも「虚無に消える」ことなのか、その理解いかんで死の意味は異なってきます。イエスは続けられます「私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16:6-7)。
・ここで弁護者と言われているのが聖霊です。「自分はいなくなるが、私の代りに聖霊が遣わされてあなた方を助けるだろう」と言われています。障害のあるお子さんをお持ちの親の多くは、「自分が死んだらこの子はどうなるだろう」と心配しながら死んでいかれます。しかし、ここでは「心配することはない」と言われます。必要な助けが与えられるからです。これを信じることが出来るかどうかが重要な分岐点になります。さて、聖霊はギリシャ語「パラクレートス」ですが、パラ=そばに、クレートス=呼ばれる、そばに呼ばれる者の意味です。ギリシャ語では裁判の時にそばにいて弁護してくれる人をパラクレートスと言いますので、新共同訳は「弁護者」と訳しますが、口語訳では「助け主」、英語訳では「Helper」です。「助け主が与えられるから、私がいなくなっても心配することはない」とイエスは弟子たちに言われたのです。

2.聖霊が与えられる

・では聖霊はどのように私たちを助けてくれるのでしょうか。イエスは言葉を続けられます「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らが私を信じないこと、義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(16:8-11)。ここでは人間の法廷ではなく、神の法廷において何が罪であり、何が正しいのか、何が裁かれるのかが明らかにされると言われています。
・まず「罪」とは「イエスが救い主であることを受入れない」ことだと言われています。神が世を救うために救済者を送って下さった、その救済者を信じないことが罪だと言われています。これは私たちの罪の概念と大きく違います。私たちは、「罪とは人に悪いことをすること」だと考えています。しかし神の法廷における「罪」とは「神に対して悪いことをする」、すなわち神が私たちのために救いの手段を与えて下さったのに、それを拒絶することが罪なのです。そしてその罪から一切の悪が流れ出ます。だからイエスは言われます「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない」(マタイ12:31)。人は罪を犯さざるを得ない存在ですが、「その罪は全て赦され」ます。それを信じて悔い改めた時に救いが与えられます。しかしそれを信じることが出来ない時、赦しが与えられているのにそれを拒否する時、「“霊”に対する冒涜は赦されない」のです。
・次に「義」とは「イエスが天の父の下に帰り、この地上からいなくなることだ」と言われています。これも私たちの「義」の概念、つまり「人の前に正しい」という考えとはまるで異なります。しかし何が「義」であるかを最終的に判定される方は、神です。イザヤは言いました「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)。信仰者は何が正しいかを人に聞くのではなく、神に聞きます。だから人から疎外され、捨てられても生きていくことができる力を与えられます。
・最後に「裁き」とは「この世の支配者が断罪されることだ」と言われます。イエスはユダヤ教当局者によって十字架に裁かれました。しかし、十字架に死なれたイエスを神は復活させることを通して、世を断罪されます。裁かれた者が裁き主になられた、このことをペテロによって知らされたからこそ、ペンテコステの日に多くの者が悔い改めてバプテスマを受け、その後2000年間バプテスマ者が起こされてきました。
・イエスの言葉は続きます。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)。ここに言う真理とは「アレティア」、隠されたことです。聖霊は私たちに隠されたことを伝えます。すなわちイエスが十字架で死なれたことにより私たちの罪が赦されたということ、イエスが復活されたことにより私たちも「死んでも生きる」ことが出来ること、助け主が与えられて共にいて下さることを私たちに明らかにしてくれるのです。
・このヨハネ福音書の視点、すなわち物事を人間の視点ではなく、天の視点から見ることは大事なことです。現在の日本の首相は何かあれば「100年に一度の不況であるから全てが許される」と言いますが、100年に一度とは歴史上繰り返し起こっているということです。特に騒ぐことではない。GMが倒産してもトヨタが赤字になっても、あるいは自分の勤める企業が倒産し失業したとしても特に騒ぐ出来事ではありません。詩篇2編は言います「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか・・・ 天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲けられる」(詩篇2:1-4)。天に対する信仰を持つことによって、私たちは地上の出来事を相対化することが出来ます。地上の出来事に縛られない。そのことの大事さを考えるべきです。

3.共にいて下さる方を信じる

・今日の招詞に詩篇23:4を選びました。次のような言葉です「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」。旧約・新約聖書を貫く信仰は「インマヌエル」の信仰です。「神共にいます」、死の陰の谷を行く時も神は「共にいて下さる」、だから私たちは恐れる必要はない。この信仰こそが何千年もの間、継承されてきた信仰です。ところが、この根本的な信仰が今の時代、崩れているような気がします。
・2008年度に一番ヒットした歌は、青山テルマ「そばにいるね」です。歌詞は次のようです「あなたのこと、私は今でも思い続けているよ。いくら時流れても、そばにいるよ。いつでも、どんなに離れていても、そばにいるよ」。人が信じられない、いつ裏切られるかもしれない、そのような時代風潮の中で、そばにいてくれる人、インマヌエルを現代の日本人も求め続けています。しかし人に信頼する故にその期待は裏切られます。「正しいものはいない、一人もいない」(ローマ3:10)からです。
・桜庭一樹と言う小説家の作品が最近多くの読者を魅了しています。彼女のテーマは家族です。彼女はインタビューの中でこのように言います「人に裏切られる体験を重ねると、信じられるものは家族しかいないと思える。家族は決して裏切らないからだ。でもそれは血縁、つまり自分しか信じられない自己愛だと思う。・・・人は他人を本当に受入れることが出来なければ生きていけない。自分の力だけを信じ、自分を大事に握りしめているだけでは孤独の淵に沈んでしまう・・・だからみんなさびしいのだ」(2009年5月20日朝日新聞朝刊より)。「だからみんなさびしい」、信仰のない世界はさびしい世界です。彼女は最後に言います「信仰の薄い日本で聖書の代わりに空洞を埋めるものは、家族じゃないかと思う」。しかし家族でさえ、空洞を埋められない現実があります。桜庭さんの描く家族は、「家という密室で、愛という名の下に、殺される子どもたち」です。
・しかし私たちには聖書が与えられています。人々は何千年もの間、「主は共にいます」と信じて来て、その信仰が今でも続いています。この信仰を与えられた幸いを思います。北森嘉蔵という牧師が面白いことを言いました「臨終の床に横たわった人間は、ダーウィンの“種の起源”を読もうとは思わない」。ダーウィンの「種の起源」はある意味で歴史を変えた書です。私は、個人的にはダーウィンの説く進化論は概ね正しく、人間を含めた生物は水の中から生まれ、やがて陸地に上がり、種が分かれてきたのだろうと常識的に考えます。「神が人間を創造された、その創造は私たちの知恵を超えているところで為された」、クリスチャンだからといって、科学の常識を否定する必要はないからです。しかし北森先生が言われるように、臨終の床でこの本を読みたいとは思いません。何故ならそれは「人間はどこから来たのか」を科学的に説明できるかもしれませんが、「どこに行くのか」については、何の回答も持っていないからです。そして「どこに行くのか」こそが、人生の最大問題なのです。「死んだらどうなるのか」、誰にもわからない事柄です。そのわからない事柄に対して、「神がご存知だ」と委ねていくのが信仰ではないかと思います。
・聖霊とは何か、私自身わからないとしかいえません。しかしこれまでの人生を考えた時、目に見えない、しかし確かに存在するものに導かれてきたと言う思いがあります。私は50歳になるまで、自分が牧師になるとは考えたこともありませんでした。勤めを辞めて神学大学に入学した時は、篠崎教会の名前さえ知りませんでした。それが今、ここで篠崎教会の牧師として立たされている。やはり偶然を超える、神の摂理を感じます。その摂理を初代教会の人々は「聖霊」と呼んだのではないかと思います。そしてこの不思議な導きを信じることが出来たものは、死という事柄も、神に委ねることができるようになります。私は臨終の床で読むのであれば詩篇を読みたい。そして「私の霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)といって死んでいきたい。聖書が与えられ、聖霊が共にいて下さることを知らされた幸いを感謝します。

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