1.弟子たちのために執り成されるイエス
・イースターから6週にわたって、復活節の御言葉を聞いて来ました。今日がその最終日です。教会暦では今日はイエスの昇天記念日、次週は聖霊降臨日です。イエスが昇天されて世からいなくなる。その時、弟子たちは後に残されます。後に残される弟子たちのためにイエスが祈られたのが、今日読みます17章の祈りです。この祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれています。イエスが残される弟子たちのために、「執り成しの祈り」をされているからです。中心として読むのは11節からですが、全体を知るために1節から見てみます。
・「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(17:1)とイエスは祈りを始められます。イエスはこれから十字架にかけられて死なれますが、その十字架の時を栄光の時と言われています。歴史的に見れば、イエスはユダヤ人指導者やローマ帝国によって、反逆者、世を乱すものとして、十字架にかけられ、殺されました。しかし、信仰の目で見れば、イエスはご自分の命を、「罪のための贖い」として十字架に捧げられたのです。殺されるのではなく、命を捧げていくのだという積極的な意思がここにあります。
・イエスは続けられます「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(17:2)。永遠の命はキリストを通して与えられることが言われています。永遠の命とは何か、イエスは続けて言われます「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)。ここではイエスの祈りに教会の信仰告白が重ねられています。
・永遠の命、救いとは「神と子を知ることである」と言われています。神を知るとは、自分が神でないことを認めることです。自分は神ではない、不完全な人間でしかない、誘惑にあえば罪を犯してしまいかねない存在であることを知ることです。パウロは「正しいものはいない。一人もいない」と告白しました(ローマ3:10)。自分が神でないことを知るとは、自分が罪人であり、この罪が赦されなければ救いがないことを知ることです。私たちの世界に起きる多くの問題は、不完全な人間に依存するところから生じます。人間は自分の欲望のために相手から奪い、傷つけ、殺す存在です。だから、何千年かかっても、戦争や犯罪を止めることが出来ないのです。そのような人間に依存するから、不和や争いが生じます。救いとは、人により頼むことをやめて、神により頼むことです。神は私たちを赦すために、その贖いとしてキリストを十字架につけられました。ペテロは「(イエスの)お受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」と証言します(�ペテロ2:24)。地上に来られたイエスを通して神と和解する、それが救いであると言われています。
2.世にあって、世に属さず生きる
・6節から弟子たちのための祈りが始まります「世から選び出して私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました」(17:6)。イエスを通して、弟子たちは父なる神を知りました。しかし、そのイエスはいなくなります。ですから、イエスは自分がいなくなった後のことを、父に祈られます。「私は、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、私は身元に参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守って下さい」(17:11)とイエスは祈られます。
・世はイエスを憎みました。イエスを憎んだ世は、弟子たちをも憎むでしょう。イエスがいる間はイエスが彼らを守ることが出来ました。しかしイエスは今昇天されます。もはやイエスご自身が彼らを守ることは出来ない。その祈りが12-13節にあります「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、私はみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」。
・イエスは続けて祈られます。「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです。私が世に属していないように、彼らも世に属していないのです」(17:14-16)。イエスは父から受けた言葉を、弟子たちに伝えました。弟子たちは言葉を受け入れ、神の子とされ、世と分かたれました。世はイエスを、そして神を受け入れません。何故ならば、世は自分の力により頼むからです。神などいらない、自分たちは自分の力で生きていると主張する人々の群れです。ですから、世は、世と分かたれた弟子たちをも憎むのです。キリストが罵られ、殺されたのと同じように、キリストに属する者もそうなるのだとイエスは言われます。だから「彼らを守って欲しい」と父に執り成されるのです。
・しかし、それでも、弟子たちは世に遣わされます。世には神の民がいるからです。それらの人もまた救いに至って欲しいと神は願われているからです。ですから、神の子とされた私たちは、世にあって生きます。イエスは世にあって生きられました。イエスは、世から罪人として排除されていた、徴税人や娼婦と同じ食卓につかれました。それを批判するパリサイ人や律法学者に対してイエスは言われました「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」(マタイ21:31-32)。徴税人や娼婦は自分が罪人であるのを知っているため、イエスの言葉に接して悔い改めました。他方、パリサイ人や律法学者たちは、自分たちが正しいと思っているので、悔い改めようとはしません。その彼らは「救いから遠い」とイエスが言われたので、彼らは怒ってイエスを十字架につけるのです。私たちもイエスの弟子として生きようとすれば世から憎まれます。
・私たちは、「世にあって、世に属しない」者として生きます。ヘンドリック・クレーマーというオランダの神学者は「信徒の神学」という著作の中でその生き方をこのように説明します「教会はキリストに仕え、世に仕えていく・・・信徒は世にあり、世のもろもろの組織・企業・職業の中にくまなく存在する。その場所こそ彼らの宣教の場所だ。世にあるキリスト者、それが信徒であり、教会はその信徒を助け支える役割を持つ・・・教会はこれまで社会で生起していることにあまりにも無知であり、無関心であった。世俗化が何故生じたのか、教会が問題解決にあまりにも無力であったからだ。孤独化と大衆化の中で、人々は内的空虚と方向感覚の喪失に陥っている。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていくのだ。信徒は世に離散した教会である」。
・「世にあって、世に属しない」、世俗の中にあって、しかもそれに動かされない生活をすることは、実は大変なことです。ですからイエスは弟子たちを真理によって聖別してくださいと祈られます「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(17:17)。真理とは神の言葉です。イエスによって語られ、聖書を通して伝えられた神の言葉によって聖別されることを通して、「世にあって、世に属しない」生き方が出来るようにしてくださいとイエスは父に祈られます。
3.イエスの愛のうちに生きる
・今日の招詞にヨハネ17:26を選びました。イエスの祈りの最後の言葉です「私は御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです」。イエスによって語られ、聖書を通して伝えられた神の言葉によって聖別されることを通して、弟子たちが「世にあって、世に属しない」生き方が出来るようになるとイエスは祈られました。それを別の言葉で言い直しているのが、今日の招詞の言葉です。聖別を通して、「私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになる」ようになるのです。イエスが私たちのうちに住まれた時、私たちがどのような存在になるのか、コルベ神父とガヨビニチェクの例を見ながら考えてみます。
・マキシミリアン・コルベは1894年にポーランドで生まれ、24歳でカトリックの司祭になりました。36歳の時、日本に来て長崎で宣教した後、故国のポーランドに帰りますが、1939年彼は捕えられてアウシュヴィッツ収容所に入れられます。アウシュヴィッツはユダヤ人絶滅収容所として有名ですが、当初はナチスに非協力的なポーランド人を収容するために作られた施設でした。強制的に収容された人々は、機会があれば自由を求めて脱走します。収容所では脱走事件が続出したため、防御策として、一人の囚人が脱走して捕まらない時には、見せしめに同じブロックの10人の囚人を処刑することにしました。
・1941年7月、脱走事件があり、身代わりとして10人の囚人が餓死刑に選ばれました。その時、指名された囚人の一人が泣き叫んで言います「私には妻と二人の子があり、私の帰りを待っています」。看守はかまわず彼を連れて行こうとします。その時囚人の一人が進み出て、身代わりとして刑を受けたいと申し出ます。コルベでした。彼は言います「彼には奥さんと子供がいる。私はカトリックの司祭で独身だ」。こうしてコルベはガヨビニチェクの代わりに刑を受け、17日間水も食べ物も与えられない地下室の中で生き、息を引き取りました。助けられたガヨビニチェクは生き残り、3年後に収容所から解放されて、初めてこの出来事が明らかになりました。
・コルベの行為こそがキリストの戒めに従うものです。イエスは言われました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12-13)。「私があなた方を愛したように」、私はあなたの身代わりとして死に、その死によって神があなたをどのように愛されているかを教えるから、私に倣って愛し合いなさいと。ガヨビニチェクは生涯、コルベの物語を証する者となりました。私たちもあるとき、キリストが私のために死んでくれた事実を知り、イエスの前に跪き告白します「わが主、わが神」。その時、旧い人間が死に、新しい人間が生まれるのです。イエスが私のために死んでくれた、それほど私を愛してくれた、この愛の応答として行為が生まれるのです。
・誰もがコルベのように、自分の命を投げ出して、兄弟のために死ぬことが出来るわけではありません。しかしガヨビニチェクの生き方は出来る。ガヨビニチェクがコルベの証人になったように、キリストの証人として生きる生き方です。イエスは言われました「彼らのために、私は自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(17:19)。キリストの証人として生きる、日曜日だけ証人になるのではなく、月曜日から土曜日までを主の証人、地の塩、世の光としてこの世で過ごし、日曜日に主に出会うために教会に戻り、またこの世の生活に出て行く。そのような生き方が求められているのです。