江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年2月8日説教(マルコ1:29-39、癒しと宣教の間に)

投稿日:2009年2月8日 更新日:

1.病を癒されるイエス

・私たちは、「イエスとはどなたであるか」をマルコ福音書から聞いています。先週、私たちは「イエスが宣教の初めに会堂で説教されている時、会堂に悪霊につかれた人が入ってきて叫びだし、イエスはその人から悪霊を追放された」ことを読みました。「悪霊追放」、現代の私たちにはなじみにくい言葉ですが、マルコは悪霊を「神と人、人と人との関係を断ち切る力」と理解しています。イエスが取り組まれたことは、「身体的、精神的疾患によって社会から排除され、除外されている人々を何とか救えないか、それこそが神の国の現れではないか」という問題意識に基づくものです。そう理解した時、「悪霊追放」は現代の教会にとって大事な宣教課題になることを学びました。今日はその記事に続くイエスの活動を通して「癒しとは何か」をもう一度考えてみたいと思います。
・マルコ福音書には多くの「病気の癒し」の記事が出てきます。今日読みます箇所にも「癒し」が出てきます。今日の聖書個所を順番に読んでいきましょう。マルコはまず、会堂を出られたイエスたち一行がシモンとアンデレの家に向かわれたと記述します(1:29)。シモン・ペテロの家がガリラヤ宣教の拠点になっていたようです。ですからイエスたちは昼食を取られるため、シモンの家に向かわれたのでしょう。ところがシモンの姑は熱を出して寝ていました。マルコは記します「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(1:30-31)。当時の人々は熱病もまた悪霊の仕業と考えていました。並行箇所のルカ福音書では「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」(ルカ4:39)とあります。「熱を叱りつけられると、熱は去り」、悪霊追放と病気の癒しを当時の人々は同じように考えていたことが読み取れます。
・イエスは先に悪霊を追い出し、今度は熱病を癒されました。この評判は瞬く間に近隣に広がり、日が沈むと、多くの人々が「病人や悪霊につかれた者を皆イエスの下に連れてきた」とマルコは記します(1:32)。医療が未発達な当時、病に苦しんでいる人が多かったのです。日が沈む=安息日が終わり、自由に行動が出来るようになると、「私の家族も治して欲しい」という人々で、シモンの家の戸口は一杯になりました。イエスは人々の要望に応えて、「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出した」とマルコは記します(1:34)。当時は、病気は悪霊につかれた結果生じるものであり、預言者や聖職者は悪霊を追い出す権能を持っていると信じられていましたので、イエスの評判を聞いて人々が押し寄せ、イエスも人々の期待に応えるために、「力ある業」を為されたのです。イエスは後に故郷ナザレでも宣教されますが、その会堂で次のような説教をされました「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである・・・この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」(ルカ4:18-21)。イエスは「癒しと宣教こそ自分の課題だ」と思っておられました。

2.癒しと宣教の間に祈りがある

・多忙な、しかし充実した一日が終わりました。イエスも弟子たちも、昂揚した気持ちで床に付かれたと思われます。しかしイエスは翌朝早く、まだ暗いうちに起きられ、祈りのために人里はなれた場所に行かれました。何を祈られたのかマルコは記しませんが、前後の文脈から想像しますと、癒しの意味を父なる神に訴えられていたのではないかと思われます。癒しを行うことによって民衆の人気は高まります。しかし人々が求めるのは病気の癒しであり、神の国ではありません。「これで良いのだろうか」、イエスは迷って祈っておられたのではないかと思われます。そこにシモンと仲間たちがイエスを探しに来ます。彼らは言いました「みんなが捜しています」(1:37)。前夜に治療できなかった人や新しい人が加わって、早朝から多くの人がイエスのところに集まって来ていたのです。シモン・ペテロの口調には非難の響きがあります「こんなに多くの人々が求めているのに、なぜこんなところに来ておられるのですか」と。しかしイエスは弟子たちに言われます「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。そのために私は出て来たのである」(1:38)。
・弟子たちはイエスを病気や悪霊に取りつかれた者たちの癒しの場に引き戻そうとしていますが、イエスは癒しよりも大事なものがあるといわれます。かつてイエスが荒野で試練に遭われた時、サタンが来てイエスにささやきました「人々は飢えている。神の子ならこの石をパンに変えて人々に十分に食べさせたらどうだ」。しかしイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)。「やがて朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物、御言葉こそ大事ではないか」とイエスは言われたのです。このたびも同じです。「病の癒し、悪霊の追放は大事な業だ。それは神の国のしるしだ。しかしそれは神の国ではない。あなた方も人々も私の奇跡、癒しの業だけを求めているのであり、神の国の喜ばしい使信を聞こうとはしていないではないか」と。
・私たちはイエスが癒しと宣教の間に、一旦退かれて、祈りと黙想の時を持たれたことの意味を考える必要があります。イエスは悪霊追放の働きに備えるだけではなく、根本的なところで神の意思を問い、自らの使命を確認するために祈りが必要だったのです。E.シュバイツアーという聖書学者は次のように注解します「イエスが人を避けて祈られたことについては、何度も繰り返し語り伝えられている。この祈りはイエスの奉仕活動に本質的に付随するものであって、この祈りによって、彼の奉仕は過度の多忙に陥ることからも、怠惰に陥ることからも守られたのであった。同時にこれはまた、み後に従おうとせず、ただ感激して賞賛する人々から逃れるためでもあったのである」(NTD新約聖書注解「マルコによる福音書」68P)。私たちも「過度の多忙と怠惰」から解放されるために、静まって神と対話する必要があります。この対話の時が主日礼拝です。私たちは何よりもこの主日礼拝を大事にします。礼拝における神との対話を通して、私たちは世の中に出て行く力をいただくのです。

3.教会のなすべきは治癒ではなく癒しだ

・今日の招詞としてマルコ8:34-35を選びました。次のような言葉です「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた『私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである』」。
・人々が宗教に求めるものは「救い」、「幸福」です。幸福になりたいから人は教会に来る。私の病気を治して欲しい、この苦しみを取り去って欲しいと思うから、教会に来る。神の力を自分のために用いたいのです。しかし教会に来る人々に、イエスは冷や水を浴びせられるような言葉を話されます「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」だろうと。なぜならば、自己の救いを追及していった先にあるのは自己義認だからです。ペテロはある時言いました「私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。仏教では修行を積むことによって解脱(救い)に至るという考え方があります。キリスト教の中にも、禁欲を通して人は救われるという考え方があります。しかしそれは人間の義であり、神の義ではありません。「これだけ頑張ったのだから救われるのは当たり前ではないか」との気持ちは信仰ではなく、救いを自分の手に握りたいという傲慢です。命の支配権は私たちではなく神にあります。神の前に義であることが救いであり、それは自己を捨て他者のために生きる存在になることだとイエスは言われます。自己実現は自己否定から来る。逆説的なようですが真実です。
・癒しも同じではないでしょうか。私たちがあくまでも病気からの治癒を求めた時、私たちは失望するかもしれません。なぜならすべての病気が癒されるわけではないからです。癒されない病もあり、癒されないことの中にも神の恵みがあるのです。ブルームハルトと言う牧師がいます。彼は1840年ごろ、南ドイツの小さな村で牧師をしていましたが、村に精神の病を持つ一人の女性がいました。彼は祈ってその女性に手を置き、女性の病は癒されました。その評判を聞いてドイツ中の人々が、病の癒しを求めてブルームハルトのもとに来ました。ブルームハルトは「病気になるのも神の御心、病気が癒されるのも神の御心である」として、頭の上に手を置いて祈り続けたそうです。その結果、「ある者は癒され、ある者は癒されなかったが生きる勇気を与えられた」ということです(井上良雄「神の国の証人ブルームハルト父子」から(新教出版社)。
・マザーテレサが行ったことも病気の治癒ではありません。ある時、彼女は言いました「私は毎朝、祭壇の上から小さなパンのかけらの主を戴いています。もう一つは、町の巷の中で戴いています。先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother thank you 』と言って息を引き取りました。その顔はそれはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした。なぜかと言うと、私にとっては、イエス様の言葉はすべて神秘。『私は飢えた人、凍えた人の中にいる』とおっしゃったように、あのおばあちゃんの中に主がいらっしゃった。そのおばあちゃんを天に見送った時に、私の心の中に主が来て下さったのです」(粕谷甲一「第二バチカン公会議と私達の歩む道」から)。マザーテレサは死に行く人を看取ったのであって治したのではありません。それでもおばあちゃんは感謝して死んでいきました。ここに癒しがあります。イエスが与えられたのも「治癒」ではなく「癒し=慰め」でした。私たちも「治癒」と「癒し」を峻別することが必要です。治癒は神の恵みですが、癒しは私たちに委ねられた神の業なのです。教会もまた「ある者は癒され、ある者は癒されなかったが生きる勇気を与えられた」と言われる場所になるように祈っていきましょう。

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