1.金持ちの男とイエスの出会い
・先週私たちはマルコ10章から、「結婚と離婚についてのイエスの教え」を学びました。結婚と離婚、「性の問題」について聖書は「性は神からの祝福であるが、用い方によっては人をつまずかせる呪いになる」ことを学びました。今週の箇所は、「富についてのイエスの教え」ですが、イエスは同じことを言っておられるような気がします。性とお金は人間、特に男性にとってはつまずきになりやすい事柄です。またお金の問題も、対処を誤ると人生を台無しにしてしまう要素を持っています。人をつまずかせる二つの大きな課題、「性の問題」と「お金の問題」の間に、マルコは「子どもたちの祝福」の出来事を挿入しています(10:13~16)。幼い子どもたちは「性」と「お金」から自由です。何故自由なのか、それを考えなさいとマルコは示唆しているようです。
・今日の聖書箇所10:17以下を見ていくことにしましょう。マルコは記します「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」。この人は22節で「たくさんの財産を持っていた」とありますし、並行箇所マタイ19:20には「青年」とありますので、一般的には「富める若者の物語」と呼ばれます。金持ちで何の不自由もないと見られていた男性がイエスのところに来て、「永遠の命をいただくためには何をしたら良いのでしょうか」と問いかけてきました。この人にイエスはそっけない対応をされます「なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」(10:18)。「神お一人のほかに善い者はだれもいない」、イエスは彼の問題を一目で見抜かれました。「彼は善良で、戒めを守り、経済的にも恵まれている。彼は善い事をすれば救われると考えているが、善い方である神を求めていない。そこに彼の問題がある」と。
・イエスは彼を試すために言われます「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(10:19)。「神が与えて下さった戒めを守れば救われるとあなたが考えるならば、守ったらどうか」とイエスは言われます。金持ちの男は答えます「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10:20)。「守ってきましたが、救いの実感がないのです」と男は答えます。イエスはその彼に驚くべきことを言われます「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」(10:21)。ここでイエスは五つの指示を彼に出しておられます。「行きなさい」、「売り払いなさい」、「施しなさい」、「来なさい」、「従いなさい」。
・「売り払いなさい」、「施しなさい」、という言葉で彼の問題点が浮き彫りになります。彼は自分の救いのために一生懸命に努力してきましたが、その中に「他者」という視点が欠けていたのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」、すべては「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という他者のための戒めなのに、彼は自分の救い、満たしのことだけを考えていた、だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「今持っている全てを捨てなさい」と命じられたのです。しかし彼はあまりにも多くを所有していましたので、イエスの言葉に従えませんでした。マルコは書きます「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(10:22)。
2.この物語を教会はどう聞いてきたのか
・この物語が私たちに何を語るのかを知るために、歴史の中で教会が聴いてきた、この物語の解釈史を考えて見ます。最初の弟子たちはイエスの言葉を文字通りに受け止め、「この世の財産を捨ててイエスに従うべきだ」と考えました。使徒行伝は記します「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(使徒行伝4:34-35)。ところが、しばらくするとこの共同体はきしみ始めます。使徒行伝6章によれば、教会の中に「日々の配給」の件で争いが起こります。「自分たちのもらい分は少なく、これでは生活できない」という人々が出てきたのです。共同体の全員が「財産を捨てて従う」生活をするとは、生産の伴わない消費生活であり、食べ尽くせばそこで終わりです。イエスがやがて行き詰るような生き方を薦められたとは思えません。初代教会の解釈はイエスの真意とは違うようです。
・初代教会を継承したカトリック教会は、この教えを限定的に受け止めました。全ての信徒が全ての財産を捨てた場合、教会が継続できないのは当然ですから、教会は、聖職者になる者には「清貧の誓い=全てを捨てる誓い」をさせますが、一般の人には強制しませんでした。その結果、聖職者には厳しく、一般の人には緩やかに規定を適用するという二重倫理が形成されていきます。ここから聖職者と平信徒という二重構造の社会が生まれていきますが、このような社会をイエスが望まれたことでないことは明らかです。
・カトリック教会の改革者として生まれたプロテスタント教会は、この教えを象徴として受け取りました。富そのものは神の祝福であり、感謝していただけばよい。富を愛し、富に頼ることは禁じましたが、その富を社会のために用いることは奨励しました。メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーは言います「正直に稼ぎ、できるだけ節約し、必要以外のものは他に与えよ」。
・私たちはプロテスタント教会の一つとして、このウェスレーの考え方に同意します。富やお金そのものが汚れているのではなく、それは用い方によっては神に喜ばれるものとなります。しかし同時に、私たちがお金のとりこになった時に、それは悪に変わり得るし、人間を罪に誘うものとなる。私たちは金銭の神(マモン)から解放されなければいけない。だから私たちは痛みを感じながら、収入の十分の一を捧げる献金をするように勧められているのです。しかし、十分の一を捧げなければいけないと思った時、十一献金は義務になり、苦痛になります。十分の九を自分のために用いることが許されていると考える時、それは感謝と喜びの行為になります。
3.問題はお金ではなく生き方だ
・富める若者の物語はここで終わりません。10:23以下でイエスはこの物語の意味するものを弟子たちに教えられます「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(10:23)。「金持ちは救われない」、では財産のない貧乏人は救われるのか。イエスは言われます「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」(10:24)。貧乏人だから、全てを捨てたから救われるとイエスが言われていないことを留意すべきです。それに続くペテロのエピソードもそれを示唆します。ペテロは言います「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10:28)。イエスはペテロの言葉を喜ばれませんでした。並行箇所のマタイは書き足します「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。「私たちは何をいただけるのでしょうか」、ペテロは何も捨てていない、イエスからより良き物がいただけると思うから、職業を捨ててイエスに従っているだけのことで、事実イエスの十字架刑の後では故郷のガリラヤに戻って漁師の職に戻っています(ヨハネ21:1-3)。人は全てを捨てて従うことは出来ないのです。ペテロと富める青年と本質は何も変わらないです。
・それではイエスは何故、この青年に「全ての財産を捨てて従いなさい」と言われたのでしょうか。それは彼が「善い事」、行いを積むことによって天国を獲得しようとし、命の源である神(善い方)を求めていなかった、それに気づくために彼は挫折する必要があったからです。もし富める青年が「全てを捨てることは出来ません。でもあなたに従いたいのです」と訴えたら、イエスはそれを喜んで受け入れられたと思われます。ルカ福音書でイエスは徴税人ザーカイが職業と財産を持ったままで従うことを喜んでおられます。ザーカイは言います「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)。それに対してイエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と喜ばれます。
・ここまで来ますと、物語の主題がお金や富ではなく、生き方の問題であることが明らかにされていきます。自分の力に頼って救いを求めた時、それは挫折します。救いは恵みであり、ただ受ければよいのです。幼子がなぜ「神の国を受け入れる者」と言われているのか(10:15)、何も持たないから、「ただ受ける」しかないからです。イエスは言われました「人間に出来ることではないが神には出来る」(10:27)、金持ちの青年はお金や才能があったばかりに自分の力に頼り、「人には出来ない」という場所で引き返してしまいました。もし彼が、「神には出来る」という信仰でイエスの下に留まれば、神の国を見ることは出来たのです。ではどのようにして神には出来るのか、神が万能だからか、そうではないでしょう。神の子が、「人間の弱さを自らの身に引き受けることによって」死なれたからです。十字架の上で砕かれたのは私たちの自我だったのです。自我を砕かれる、幼子のようにさせられていく時に、私たちは救われるのです。
・今日の招詞に箴言30:7-9を選びました。次のような言葉です「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。
・ここに富あるいはお金に対する最善のアドバイスがあるように思います。市川喜一という聖書学者が「富に処す道」として次のように書いています「富は神からの祝福です。それは良いものです。しかし、それを神からのものと自覚するところに、富に処する道の出発点があります。それは神から受けたものですから、受けた人間は与えた神に、その富の使い方について報告する責任があります。その責任感が神への畏敬です・・・キリスト教社会では、この神への責任感がありますから、富を築いた人たちには、それを神が喜ばれる仕方で使おうとする意欲をもち、貧しい人たちを助ける事業に使う者も出てきます。ところが、神への畏敬を教える宗教を極力排除してきた日本では、成功した者たちは“勝ち組”と称して、自分の力で得たものを自分の欲するままに使って何が悪いとばかり、富を豪奢な邸宅や生活に注いで自慢し、傲慢になるばかりで、社会との連帯感をもって、貧しい者を顧みる謙虚さはどこにもありません。社会が真に豊かになるためには、富に処する知恵が必要です」。その知恵こそが「貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください」という箴言の言葉ではないでしょうか。