江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年10月18日説教(マルコ10:35-45、支配するのではなく仕える者に)

投稿日:2009年10月18日 更新日:

1.イエスの三度の受難予告

・マルコ福音書ではイエスが三度にわたって、ご自分の死(受難)を予告されたと記します。今日の聖書箇所がその三回目ですが、この受難予告を通して、聖書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。それが今日、ご一緒に聞きたい事柄です。最初にこれまでの受難予告の記事を振り返ってみましょう。最初の受難予告はマルコ8章にありました。イエスはガリラヤでの宣教の旅を終えられ、エルサレムへ向かわれようとしておられます。イスラエルの宗教指導者たちはイエスに敵対し、迫害の度を強めています。エルサレムに行けば受難は避けられない。しかしイエスはそれが神の御心であればあえて受けようと決心しておられます。だから弟子たちに言われました「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8:31)。それに対してペテロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」とマルコは書きます(8:32)。そのペテロをイエスは「サタン、引き下がれ」と叱りつけます。自分のことばかりを考えているペテロの中にイエスはサタンを見られたのです。そしてイエスは言われます「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:34-35)。
・二回目の受難予告はマルコ9章にあります。イエスと弟子たちがエルサレムを目指して進んでいかれる途上で、イエスは弟子たちに二度目の受難予告をされます「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(9:31)。イエスがこの二度目の受難予告をされたのは、弟子たちが先の受難予告を理解せず、相変わらず身勝手な想像ばかりをしていたからです。マルコは記します「弟子たちは、途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:33-34)。「誰が一番偉いのか」、弟子たちはイエスがエルサレムで王座につかれるだろうと考え、その時に誰が一番良い地位につくべきかを議論していたのです。弟子たちは今でもイエスがエルサレムで王になられると考えています。その弟子たちにイエスが言われた言葉が「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9:35)です。
・三回目が今日のマルコ10:42‐45の箇所です。エルサレムに近づいた時、イエスは三度目の受難予告をされます。マルコはイエスの言葉を記します「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33-34)。その直後に、弟子のヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言いました「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)。三度目の受難予告を聞いたばかりなのに、弟子たちはまだエルサレムで何が起こるかを理解していません。相変わらずイエスがエルサレムで王になられると信じ、その時に自分たちも報償が欲しいと言っているのです。このヤコブとヨハネの抜け駆けに、他の弟子たちは腹を立てます。彼らもまたイエスの栄光の時に良い地位につきたいから、ここまで従って来たのです。
・その弟子たちに言われた言葉が42節以下にあります「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(10:42-45)。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」、偉い人=ギリシャ語メガス、ラテン語マイヨールです。このマイヨール=大いなる者、ローマ皇帝の別称です。ここでイエスが言っておられるのは「支配者とみなされているローマ帝国の者たちは諸民族の上に君臨し、皇帝が諸民族に対して権力を振るっている。だが君たちは決してそうであってはならない」ということです。何故ならば、イエスは「仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られた」(10:45)からです。

2.この受難予告を通して何が明らかになるのか

・この三つの受難予告を通して明らかになることは、弟子たちの上昇志向です。彼らはイエスがエルサレムで王になられ、その時は自分たちも特権的な地位につけると思っているから、イエスに従って来たことが明らかにされます。彼らはイエスの苦しみを理解することなく、自分たちのことだけを考えています。「なんと言う弟子たちだ」と私たちは思いますが、「あなたはどうなのだ」と問われると、私たちも下を向いてしまいます。私たちもまた「上昇志向」の中にあるからです。身分の高い人や権力者や資産家の周りには大勢の人々が寄ってきて、必要以上に気を遣ってくれます。人に評価され、賞賛されることは心地よいものです。そういう人になりたいと思っています。しかし上に立つ人がいれば下で苦しむ人もいる。上に立つ人は、周りの人が耐えている痛みや苦しみ、悲しみが見えなくなってしまいます。メシアとしてのイエスの生涯を駆り立てるものは苦しむ人々への共感です。私たちがイエスの後に従いたいのであれば、上に立つ者となりたいとの私たちの生き方は修正を迫られるでしょう。
・上に立つためには生存競争を勝ち抜く必要があります。戦国時代の武将を見てみれば明らかです。彼らは父親や兄弟を抹殺して地位を得ています。上に立った後も大変です。いつその地位が取られるかわからないから、上に立つ者は血の粛清を行います。自分に取って代わる可能性のあるものを抹殺していくのです。イエスがお生まれになった当時のユダヤ王ヘロデは、自らの権力の座をおびやかす者をことごとく排除していきました。彼は、自分の妻、妻の兄、妻の母を殺し、妻の叔父と自分の叔父を殺し、さらには自分の3人の息子まで殺しています。現代でも形を変えた権力闘争が企業や役所や大学の中で行われていることは周知の事実です。イエスはこのような生き方を変えよと言われます「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。
・弟子たちはこの世の価値基準で動かされています。「競争社会の中で勝利しなさい、そのために今は苦しい勉強や困難なトレーニングに励みなさい。それが必ず報われる時が来るから」、そう教育されて私たちも育ってきました。一言で言えば「勝ち組になりなさい」という生き方です。それに対してイエスは「負け組」になりなさいと言われます「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。この世で負け組になる生きかたとは決して世をあきらめる、世捨て人になることではありません。世の価値観と異なる、神の国の価値観を提示する「地の塩」としての生きかたです。

3.共に生きる人生へ

・それは考えるヒントがマタイ20章「ぶどう園の労働者の例え」にあるような気がします。今日の招詞にその一節、マタイ20:13−14を選びました。次のような言葉です「主人はその一人に答えた『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』」。このような例えです「ぶどうが収穫期になり忙しい。主人は労働者を雇うために朝の6時に市場に行き、1日1デナリの約束で労働者を雇った。9時にも労働者を雇った。それでも足らないので、12時にも、3時にも労働者を雇う。最後の労働者は夕方の5時になって雇われた。日が落ちて1日の労働が終わった。主人は最後に雇った労働者を呼び、彼らに1デナリの賃金を払った。1時間しか働かない労働者に1デナリが払われたことで、12時間働いた労働者の期待は膨らむ。しかし、払われたのは同じ1デナリであった」。文句をいう労働者に主人が言った言葉が招詞の言葉です。
・1時間しか働かない労働者は、ほとんど主人の役に立っていませんが、主人は彼にも1日分の賃金を払います。その賃金がないと、家族はその日のパンを食べることが出来ないからです。12時間働いた労働者は1時間働いた労働者よりも仕事をした、役に立っていると思っていますから、1時間しか働かない人と同じ賃金をもらうことに抗議します。それに対して主人は「考えてみなさい」と言います「あなたが12時間働くことが出来たのは、神があなたに健康な体と働く場を与えてくれたからではないか。もしあなたが今日病気になって働くことが出来なくとも、神はあなたに1日分の賃金を下さるだろう。神の恵み、神の憐れみとはそのようなものだ」と。
・ここに世の価値観=これだけのことをしたからそれに見合う報酬をほしいという考え方と、神の国の価値観=存在することに意味があり、存在が難しい場合は無償で糧を与えようという考えが対立しています。この世は、役に立つ者こそ価値があるとします。弟子たちが立つ視点です。ペテロは言います「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。ヤコブとヨハネも従属の見返りを求めています。イエスはぶどう園の例えを通して私たちに語られます。「父なる神は1日満足に働けない者にも1日分の賃金を下さる。弱い人間、役に立たない人間にも、生きることを許しておられる。そして私たちもいつかは弱い人間、役に立たない人間になる。その私たちをも生かして下さる神の恵みを知った時、私たちの心からわきあがる思いは感謝だ。その感謝が人に仕える行為へと私たちを導く」。
・私たちは生きかたを変えるように求められています。「支配するのではなく、仕える生きかた」です。世の価値観ではなく、神の国の価値観で生きるようにです。それは決して荒唐無稽な生きかたではなく、むしろ世の生きかたこそ荒唐無稽であることを示す生きかたです。社会学の概念で言い直せば、GDP(国内総生産)に変わる指標としてのGNH(国民総幸福度)の考えかたです。私たちは豊かさの指標として、GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)を用います。GDPは経済活動(モノの生産や流通)を合計するもので、お金が動けば増えます。交通事故が起こり、環境破壊が進み、家庭内暴力が起こっても、そこにお金が動けばGDPは増えます。他方、家事や育児やボランティア活動をしても、お金が動かないかぎり、GDPは増えません。GDPは国全体の生産量を計りますが、幸福度は見えないのです。このGDPに変えて、「GNH」を指標にしようとする運動があります。Gross National Happiness 、「国民総幸福度」です。国力を「生産」ではなく「幸福」で測ろうというものです。人々がどのように時間を使っているか、地域社会はどのくらい活き活きしているか、お金や物質的な成長を追い求めることは本当に幸福のために役立つのか、等を見ていきます。日本の一人当たりGDPは35000ドルで、世界14位ですが、イギリス・レスター大学「国民の幸福度」調査では日本は90位です。お金はあるが幸せではない、それが日本の現実です。多く働いた者がたくさんの報酬を手にし、働けない者は死ねばよいという価値観を捨てるべき時なのです。「支配するのではなく、仕える生きかたをしなさい」、聖書は私たちに価値観転換の先頭に立てと招いているのではないでしょうか。

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